第18話 始業式と塾
毎日20時20分更新予定
中学生編完結まで執筆済み
全50話前後を予定しています
始業式を終えて昇降口へ向かうと、いつもの場所に藤森先輩が見える。
少しの安堵と、戸惑い。
理緒は一度だけ表情を整えてから、下駄箱で靴を履き替え、先輩に声をかけた。
「お待たせしました」
「おう。久しぶり」
いつもと変わらない声。
その一言だけで、胸の奥が少しだけ軽くなる。
「お久しぶりです。……あの……約束の日、直前にすみませんでした」
「仕方ない時もあるよ」
軽く言って、先輩はいつものように理緒の頭に手を置く。
その感触に、少しだけ呼吸が乱れる。
「……あ、でも……俺も、謝らないといけない」
理緒は顔を上げる。
先輩の表情が、ほんの少しだけ曇っている。
「なんですか?」
自分でも分かるくらい、声が少しだけ固くなる。
「……夏休み終わって、部活も引退して。塾、行くことになった」
一拍。
「……だから、こうやって一緒に帰れなくなる」
理緒の思考が、一瞬遅れる。
言葉の意味は分かるのに、少しだけ現実として落ちてこない。
「あ……そうですよね。受験生ですもんね」
とりあえず出てきた言葉を、そのまま口にする。
「うん……ごめん。待ってるって言ったのに」
「大丈夫です。塾、頑張ってください」
言いながら、どこかで“これでいいはず”と思っている。
先輩は少しだけ視線を落とす。
「……俺が、大丈夫じゃない」
「え……」
理緒の視線が、少し遅れて先輩に向く。
「……だから、必ず会える時間は作る」
その言葉が、まっすぐ落ちてくる。
理緒は、すぐに答えられなかった。
何か言おうとして、言葉が見つからない。
“どう返せばいいか”を考えている自分に気づく。
少しだけ間が空く。
「……はい」
やっと出たのは、それだけだった。
自分でも、ちゃんと受け取れているのか分からないまま。
でも、それ以上の言葉は出てこなかった。
---
始業式から数日。
一緒に帰らなくなってから、先輩と過ごす時間はほとんどなくなっていた。
理緒は夕食を終え、自室でぼんやりと過ごしていた。
そのとき、スマホが小さく震える。
画面を見る。
——藤森先輩。
一瞬だけ、心臓が強く鳴る。
メッセージを開く。
「今、家の前に出て来れる?」
理緒はすぐに立ち上がった。
カーテンを開けて外を見ると、家の前で手を振る先輩の姿が見える。
考えるより先に、部屋を飛び出していた。
階段を駆け下り、玄関を出る。
「先輩!?」
少し息が上がったまま声をかけると、先輩は軽く手を上げた。
「よっ」
「どうしたんですか?」
「塾の後の寄り道」
少しだけ間を置いて、
「……だから、長くは居られないけど」
理緒は一瞬だけ言葉を失う。
「塾、お疲れ様です」
やっと出てきたのは、それだけだった。
「うん、疲れた」
先輩は少しだけ笑う。
「……でも、寄り道できるからいいかも」
その言い方が、妙に軽くて。
でも、軽くないことも分かる。
「……ありがとうございます」
「……どういたしまして」
少しだけ間が空く。
「勉強、順調ですか?」
「ん……分かるとこ増えてきたかな」
「よかったです」
会話は続いているのに、どこかぎこちない。
前みたいに、自然に言葉が出てこない。
「夕食は、まだですか?」
「うん……お腹ペコペコ」
少しだけ肩をすくめる。
「神崎は?」
「私はさっき食べました」
「そっか。いつもそのくらい?」
「はい……7時くらいです」
「……そっか」
沈黙が落ちる。
夜の空気が、少しだけ涼しい。
このまま立っていれば、まだ一緒にいられる。
でも——
理由が、ない。
理緒は小さく息を整える。
「……あの」
先輩が視線を向ける。
「帰らなくて大丈夫ですか?家族も心配するし……お腹もペコペコって……」
言いながら、自分で分かっていた。
——帰ってほしいわけじゃない。
——でも、帰らせたくないわけでもない。
そのどちらも言えない言葉だった。
先輩は少しだけ視線を逸らす。
「……あー……うん」
一拍。
「……帰る、けど」
その“けど”の先は、続かなかった。
理緒の胸が、少しだけ締まる。
ほんの一瞬だけ、思う。
——もう少し、話していたい。
でも。
それを言う理由がない。
だから、何も言わない。
「……気を付けて帰ってください」
結局、出てきたのはそれだけだった。
先輩は少しだけこちらを見る。
何かを言いかけて、やめる。
「……毎日は来れないけど」
小さく息を吐いて、
「また来てもいい?」
理緒は一瞬だけ迷う。
でも、その迷いはすぐに消えた。
「……はい」
それ以上の言葉は出てこない。
先輩は少しだけ目を細める。
そして、いつものように理緒の頭に手を置いた。
軽く触れるだけのはずなのに、
その場所だけが妙に意識に残る。
「じゃ」
短く言って、自転車に跨がる。
ペダルを踏み出す前に、ほんの一瞬だけこちらを見る。
でも、すぐに前を向いた。
そのまま走り去っていく。
理緒は、その背中を見送る。
暗くなり始めた道に、先輩の姿が小さくなっていく。
——終わったわけじゃない。
でも。
——前とは、違う。
胸の奥に、静かに残る感覚。
理緒は小さく息を吐いた。




