第2話 教科書と家
放課後、教室はいつもより少しだけ騒がしかった。
理緒は自分の席で、隣に座る藤森未来と話をしていた。
「ほんと無理なんだけど。家、近すぎるの」
未来は頬杖をつきながら、ため息混じりに言う。
「近い方が楽じゃない?」
「近すぎるの。校門出て、ちょっと歩いたらもう着くんだよ? 寄り道とかする前に着いちゃう感じ」
「……それは、確かにちょっとつまらないかもね」
「でしょ? もうちょっとこう、“帰り道”って感じがほしいのにさ。彼氏できても一緒に帰れないよ〜」
未来はそう言いながら、机に広げたノートに適当にペンを走らせる。
「北門出て、角曲がって、その先に公園あって、その隣がもう私の家だから。」
「たしかに、近いね」
なんとなく相槌を打ちながら、その話を頭のどこかに残しておく。
深く考えるほどのことでもない、ただの雑談。
そのはずだった。
「藤森ー、ちょっといいか」
廊下から先生の声がした。
「あ、はーい」
未来は振り返って、先生に駆け寄ると、先生と共に行ってしまった。
一人残された理緒は、かばんを肩に掛け部室へ向かった。
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部活動を終えて教室に戻る。
机の中に忘れた筆箱を取りに来ただけのつもりだった。
校舎に人はもうほとんど残っていない。
窓の外は少しだけ色が変わり始めていて、昼間よりも静かだった。
自分の席に向かおうとして、ふと足を止める。
未来の机の上に、英語の教科書が置きっぱなしになっていた。
「……忘れてる」
英語は毎回小テストがある。
予習をしていないと、点が取れない。
未来が「英語やばい」と言っていたのを思い出す。
少しだけ考える。
困るかもしれない。
……それなら。
理緒は教科書を手に取る。
未来が言っていた道順を、頭の中でなぞる。
北門を出て、角を曲がって、その先の公園の隣。
行ったことはないけど、場所は分かる。
教科書を鞄に入れ、教室を出る。
廊下は静かで、自分の足音だけが少しだけ響いた。
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校門を出て、未来の話を思い出しながら歩く。
「……たぶん、このあたり」
立ち止まって、表札をみる。
「『藤森』……ここだ」
インターホンに手を伸ばす。
「はい」と男性の声。
「……すみません。未来さんの忘れ物を届けにきました。」
「少し待ってて」と言われ待っていると、中から同年代の男の子が出てくる。
知ってる顔――あの、同じ委員会にいた三年生。
「あの、未来さんの忘れ物を……」と言いかけたとき、
「……未来の友達?今、コンビニ行ってるから、上がって待ってて」
「いえ、忘れ物を……」
「急いでる?急いでなかったら、上がって待ってて。すぐ帰ってくると思うから」 と半ば強引に招き入れられる。
奥へ入ると、温かい空気のリビングだった。
理緒の家とは違う――普通の家。
「紅茶飲める?」
「はい……」
紅茶が差し出される。
理緒は遠慮がちにティーカップを持ち上げ、口をつける。
「俺がいて驚いてる?未来の兄。知らなかった?」
「お兄さんがいることは聞いてました」
「あいつ、俺のこと友達に話すんだ」
「ただいまー」ドアの開く音と共に明るい声が聞こえる。「あれ?誰かお客さん??」
「友達が忘れ物届けにきてるぞ!リビング」
「え!うそ!」 バタバタと近づいてくる足音。
勢いよくドアの奥から顔を出した未来は、理緒を見て固まる。
「……え、理緒!?」
「教科書、忘れてたから」
そう言って差し出すと、未来はそれを受け取りながら、少しだけ目を丸くした。
「……来たの? わざわざ?」
「うん」
「え、すご……」 未来は一瞬だけ黙って、それからふっと笑った。
「ありがと。助かった」
その言葉に、少しだけ安心する。
「じゃあ、私帰るね」
「うん、気をつけてね」
軽く手を振って、来た道を戻る。
今日飲んだ紅茶、もう一度飲みたいなと何となく思いながら。
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翌日。
教室に入ると、いつもと変わらない朝の空気があった。
席に着くと、すぐに未来が振り返る。
「理緒、昨日はありがとう」
少しだけ嬉しそうに笑っている。
「教科書、助かった。英語ほんとやばかったから」
「助けになったならよかった」
「うん、ちゃんと予習できた」
未来はそう言って、気付いたように尋ねる。
「お兄ちゃん、変なことしなかった?」
「全然。入れてもらった紅茶、美味しかったよ。」
「そっか。お兄ちゃん、デリカシーない時あるからさ。この間も勝手に私の消しゴム使っていつの間にか自分のにしてるの」
「お兄さんと仲いいんだね」
「え?普通だよ」
「そっか。普通か」
未来はそれ以上は深く聞かずに、「今日の小テストやばい」と話題を変える。
そのまま、いつも通りの会話に戻っていく。
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昼休みの図書室。
当番の準備をしていると、カウンターの向こうに人影が見えた。
昨日、未来の家で見た顔。
同じ委員会の三年生。
一瞬だけ視線が合う。
「昨日」
向こうが先に口を開いた。
「わざわざ妹のためにありがとな」
少しだけ驚いて、頷く。
「たまたま、家の場所聞いた直後だったから」
「いいヤツだな。」
「……いえ」
何と返せばいいのか分からなくて、短く答える。
少しだけ間が空く。
「真面目だよな」
「……それ、褒めてますか」
「半分くらい」
不意にそう言われる。
評価されているのかどうか、少し分からない言い方だった。
「そう、ですか」
「悪い意味じゃない」
そう付け足して、カウンターに肘をつく。
それ以上は何も言わない。
沈黙が落ちる。
でも、不思議と気まずくはなかった。
理緒は視線を本に戻す。
向こうも、しばらくしてから別の方を向いた。
それだけのやり取り。
それだけなのに。
——少しだけ、印象に残った。
理由は、よく分からない。




