第16話 帰省と誕生日
夏休み初日。
玄関のドアが開く音がして、理緒はリビングから顔を上げた。
「ただいま」
少し低くなった声。
スーツケースを引いた兄が立っている。
「……おかえり」
自然に出た言葉のはずなのに、どこか距離だけがある。
兄は一瞬だけ笑って、
「久しぶり」
それだけ言った。
それ以上、続かない。
——前は、こんなんじゃなかった。
そう思いかけて、理緒は視線を逸らした。
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夜。
家族での外食。
誕生日祝いも兼ねて、少しだけ落ち着いた店に来ている。
料理が運ばれて、グラスの音が軽く重なる。
「理緒、この前のテスト結果見たわよ」
母が自然に切り出す。
理緒の手が、ほんの少しだけ止まる。
「……うん」
「また、全体的に75点くらいだったわね」
理緒は小さく頷く。
「うん……」
「中学入ってからずっとそのくらいよね……その……小学校の時はもっと出来てたのに」
責めているわけじゃない。
でも、“見ている”感じはある。
逃げ場はない。
「夏休み、塾とか考える?」
母はあくまで穏やかに言う。
「夏休み後半からの夏期講習もあるみたいよ」
理緒はすぐに答えられない。
視線が、皿の上で止まる。
——塾。
頭の中で言葉だけが浮く。
行けと言われれば、行く。
やれと言われれば、やる。
でも。
「……」
何も言えない。
決められない。
その沈黙だけが、少し長くなる。
「……いらないんじゃない?」
その空気に、兄の声が落ちる。
理緒の視線が、わずかに動く。
兄はグラスを指でなぞりながら続ける。
「理緒、やろうと思えば自分でやるタイプだろ」
一瞬だけ、理緒の方を見る。
すぐに視線を外す。
「それに、今日は理緒の誕生日だろ。別の話しよう」
軽い言い方。
でも、何か別の意図を感じた。
父が少しだけ眉を動かす。
「そうだな……。達也、お前の寮での生活はどうだ?」
母も小さく頷く。
「先生からお電話があって、寮長に立候補したって聞いたわ」
話題が兄の寮生活に移り、理緒は、その輪の中にいない気がした。
「……まぁ……寮生活楽しんでるよ」
兄はそれ以上何も言わない。
フォローもしない。
ただ黙っている。
——“やろうと思えばできる”。
その言葉だけが、頭の中に残る。
それって。
——今はやってないってこと?
——今はできてないってこと?
そこまで考えて、
ふと、別の方向に歪む。
——これ以上やられたら、困るから?
一瞬だけ、胸の奥が冷える。
「理緒?」
母の声で、現実に戻る。
「どうしたの?」
理緒は顔を上げる。
少しだけ時間を置いて、
「……お兄ちゃん、寮生活楽しんでるんだね」
それだけ言う。
でも、それ以上は出なかった。
その時、スマホが震える。
テーブルの上。
視線だけを落とす。
表示された名前。
——藤森先輩。
心臓が、強く鳴る。
そっと手に取る。
誰にも見えない角度で、画面を開く。
«誕生日おめでとう»
短い一文。
それだけ。
なのに。
胸の奥が、一気に温度を持つ。
——会いたい。
一瞬で、そう思った。
この場じゃなくて。
ここじゃなくて。
あの人の隣にいたい。
すぐに否定する。
そんなこと、考える必要はない。
今日は家族の時間。
誕生日なんだから。
そう思うのに。
画面の文字から、目が離れない。
「理緒は、夏休みは予定あるのか?」
父の声。
「……うん……友達と」
慌ててスマホを伏せる。
何もなかった顔をする。
でも。
さっきの一言だけが、消えない。
食事はそのまま続く。
父と母の会話。
兄の相槌。
いつも通りの空気。
なのに。
理緒の意識だけが、どこかずれていた。
帰り道。
店を出て、夜風に当たる。
少しだけ涼しい。
兄が隣に並ぶ。
少しの沈黙。
何か言いかけて、
やめる。
その気配だけが伝わる。
「……ちゃんと寝ろよ」
ぽつりと落ちる言葉。
理緒は一瞬だけ顔を上げる。
「え?」
「いや……それだけ」
視線は合わない。
それ以上も、ない。
——それだけなんだ。
そう思ってしまう自分がいた。
「……うん」
小さく頷く。
それで終わる。
ポケットの中のスマホ。
さっきのメッセージ。
——誕生日おめでとう。
たったそれだけなのに。
どうして。
こっちの方が、
ちゃんと“見てくれている”気がするんだろう。
理緒は小さく息を吐く。
答えはまだ出ない。
でも。
もう、分かり始めている。
自分が、
どこを向いているのか。




