4-08 ダンジョン・ブックを旅して
ダンジョン・ブック。
数奇なる大冒険家ベルリング卿によって編まれたその目録には、彼が踏破した世界中のダンジョンの詳細な記録が綴られている。
複雑な洞窟、深い森、謎の遺跡や峻険な山麓の数々。そこに眠る怪物や罠、そして宝物たち。
世界中の好事家や金持ちの欲の手によってその目録は常に探し求められてきた。
少年の名はルー。
孤児の彼には、馴染みの古本屋だけが唯一の居場所だった。
ある日、店主のおじいさんから古い本を託され、その本のことは誰にも秘密だと言われる。
翌日に書店を訪ねると、店には強盗が入り店主は行方不明。
おじいさんの言葉が蘇る。
『君がこの町から出ていきたいと本気で思った時に、この本を開きなさい』
旅をしなければならない。
これまでの世界から離れて、遥かなる平等と試練の大地へと向かう旅を。
導くのは、ダンジョン・ブック。
震える拳を握りしめ、いま、ルーは小さな冒険家になる。
目を開くと、いつもの書庫だった。
薄暗い部屋に明かりが差し込んで、浮遊する塵が光っている。
古本屋の半地下にあるその部屋には所狭しと本が積み上げてあり、壁という壁も殆ど書棚に埋めつくされている。僅かに覗く壁の天井近くに小さな窓が設けられていて、すりガラス越しに外の明かりを届けている。
静かにルーは起き上がる。遠く、人々の足や馬車の車輪が石畳を踏む音。もうじき夕方になり、街は帰る人で賑わい始める頃だろう。
ここは本たちの終着点だ。誰も動くものがいない、時が止まった世界。書庫には数多くの思い出と時代と埃とがたっぷり堆積している。行く場所の無い自分みたいな子供も受け入れてくれる。
本の山から降りて、服に付いた埃を払う。本のベッドは寝心地が悪いのだけど、何だか安心するからルーは好きだ。ごつごつした表紙の上に毛布を敷いて横たわると、いろんな本たちから力を分け与えられるような気がする。
「ほっほ、もうじき店を閉めるよ」
店主のオキッドおじいさんが書庫に降りてきた。
「おじいさん。ごめんね、起きたら手伝いするって言ってたのに」
「良いんだよ、気持ちよさそうに寝ていたからね。ほっほ」
おじいさんは咳をするように笑いながら、ルーが寝ていた辺りの本を一冊取り上げる。
「『ヒルダと飛竜の島』か、懐かしい本だ。わしが子供の頃から人気じゃった」
「あ、その本好きだよ、僕」
しわだらけの手が古い布張りの表紙を開き、日焼けで変色したページを捲る。舞い上がる埃とともに、ルーの脳裏には冒険の色々なシーンが蘇っていた。
「冒険は好きかね?」
「うん。ボールトもチチ・ジュンヌも何回も読み返したよ」
ルーの口から有名な冒険小説の作家が出ると、おじいさんも嬉しそうに目を細めた。
「そうかい、そうかい。ルーや、ちょっとこっちに来てみなさい」
と、ルーを手招いた。
薄明かりしかない部屋の奥。そこには扉付きの本棚があった。おじいさんから唯一触れることを禁止されている本棚だった。
オキッドじいさんは懐から出した鍵で扉を開くと、中から一束の古い紙束を取り出した。
それは、書物というよりは何十枚もの紙に穴を開けて紐を通しただけのものだった。紙はよれていて、じいさんの手からだらんと垂れている。
「これを、君にあげよう」
「……それ、なに?」
いらないなあ、と思った言葉を飲み込んで、ルーはおじいさんに尋ねる。
「宝物さ。冒険好きの君のためのね」
ルーの訝しげな視線も気にかけず、おじいさんはニッと笑ってそう言い、戸惑う少年の手にその紙の束を握らせる。
「ただし、決してこの本を誰かに見せてはいけない。知られてもいけないよ。どこか大切な場所にしまっておきなさい。そして、君がこの町から出ていきたいと本気で思った時に、この本を開きなさい」
ルーは渋々その紙束を受け取った。よれよれの紙を束ねたそれは頼りなく、表紙も手書きの文字で題名の様なものが書かれているだけで、それも殴り書きの様でよく読めない。
丁度その時、外から教会の鐘の音が聞こえてきた。ルーは、はっとなって顔を上げる。
「いけない、もう帰るよ」
この鐘から半刻の間までに帰らないと、叔母さんにこっぴどく叱られるのだ。両親を亡くして叔父さん一家に居候しているルーは肩身が狭い。おじいさんもそれを知っているから、
「そうだね、早く行った方が良い」
と穏やかに送り出す。ルーは、
「じゃあ、また明日来るね」
と片手を上げて街の中へ駆けていった。
ルーは途中、町はずれの古びた納屋に立ち寄ってその書物を隠した。
叔母さんも叔父さんもオキッドじいさんのことをあまり良く思っていないから、持ち帰っては取り上げられて捨てられるかもしれない。
もう使われていないその納屋の奥にある、朽ちかけた壁をずらした隙間がルーの秘密の隠し場所だ。
(今度明るいときに、読んでみよう)
両親の形見のペンダントと共にその書物を仕舞ったルーは、急いで納屋を後にした。
****
翌日、ルーがいつも通り古書店に行くと、中に入る事が出来なかった。
店の入口には厳しい顔をした警官達が立っており、無関係な人が入らないよう紐が張られている。店の前には人だかりが出来ていた。
そのうちの一人がルーに気付き、手を上げた。
「お、ボウズ。お前さん無事だったのか! 良かった、良かった」
それは近所の肉屋の男で、時々本屋の客として見る顔だった。
「どうしたんですか、これ?」
ルーが訊ねると、肉屋は苦い顔をした。
「強盗だよ。押し入り強盗。隣の靴屋が朝起きたらこの状態だったそうだ」
お喋り好きの店主は自分の見聞きしたことをルーに伝えてくれた。
「なんでも、肝心のじいさんがまだ見つかってないらしい。まったく、むごいぜ。あんなじいさんが金なんて持ってないだろうに」
ルーは信じられない思いで、警官たちが調べている店内を茫然と眺めた。
そこに、警官の一人が近づいて来た。
「きみ、ここの書店の店主と知り合いかい?」
「あ、えっと……ただの常連客です」
知らない大人に話し掛けられ、ドギマギしながらルーは答えた。
「常連なんてもんじゃねえだろ、毎日店に入り浸って……お巡りさん、オキッドじいさんは殆どこいつの親族みたいなもんなんでさ」
肉屋が勝手に補足する。人の良さそうな警官は苦笑いを浮かべながら、
「そうですか。悪いけど少しお話を聞かせてくれないかな」
と、手帳を取り出してルーにいくつか質問をした。
警官は昨日からのことを詳しく訊いて来た。ルーは素直に答えたが、おじいさんとの約束を思い出し、貰った書物のことは言わなかった。警官はお礼を言うと、他の見物人たちへの聞き込みに戻っていった。
肉屋の男とも別れ、行く所の無くなったルーは、書物を隠した納屋の元へ向かった。
****
「良かった、あった」
狭い納屋でルーは壁の隙間から書物を取り出して安堵の息を吐いた。
改めてその表紙を見たが、やはり掠れた手書き文字でなんと書いてあるのか分からない。ルーは納屋を出て陽の光の元でそれを読んだ。
「ジョハン・ダンロッド・フォン・ベルリング……これは作者の名前か。題名は……」
薄汚れ、ざらざらに傷んだ紙の表面を指でなぞる。
「“ダンジョン・ブック”……?」
ルーには聞き覚えのない書名と著者名だった。首を傾げ、表紙をめくろうとしたそのとき、不意にルーの上に影が落ちた。
「ははあ、こんなところにあったか」
「誰!?」
驚いてルーが振り返ると、そこには先程の警官がいた。相変わらず人の良さそうな笑顔で立っている。
ルーは反射的に書物を身体の後ろに守り、一歩退いた。
「お巡りさん、何の用ですか……」
「それ、おじいさんの物だろう。お店から無くなっていて、探してたんだ」
警官は右手を差し出した。ルーは必死に考えを巡らせる。
(この人にきっと、渡しちゃいけない。でも……)
相手は大人だ。それも、武器を持ち、体を鍛えている警官。力付くでは到底敵わない。
ルーが黙って睨み返していると、警官はしびれを切らしたようにずい、と一歩踏み込んでくる。下がろうとして、背中が納屋の壁に当たる。
「さあ、それを渡してくれ。大事な手がかりなんだ」
「……いやだ。おじいさんと約束したんだ……」
「あぁ?」
歯を食いしばってルーが睨みあげると、警官は苛立った声を上げる。
「いいか、それはお前が持っていても何の価値もない物だ。とっとと俺に渡しやがれ……!」
「おい、そのへんにしておけよ」
いよいよ力づくで取り返そうと警官が手を伸ばしてきたその時、その腕を掴むもう一人の腕が現れた。
「誰だ、貴様!?」
いつの間にそこにいたのか、警官よりも上背のある赤髪の男が眠そうに頬を搔きながら背後に立っていた。
焦った警官は拳銃を引き抜こうとしたが、男はそれを上から押さえ、体を密着させながら肘を鋭く首筋に振り下ろしてあっという間に気絶させた。
「子供相手に情けねえなあ。ったく、ボウズだけなら無視してるところだが、あろうことか警官が子供をいじめてるなんてのが聞こえちまったら寝てらんねえじゃねえか」
見れば、納屋の扉が開いている。どうやら誰もいないのを良い事に納屋の中で眠っていたらしい。
男は警官の拳銃を手に取って眺めている。
「制式に似たレプリカか。こいつ本物の警官じゃなくて犯罪者だな」
倒れている警官服の男を一瞥し、それからルーを見た。
「おいチビっ子。お前この街に未練はあるか」
「え?」
いきなり尋ねられて訊き返すルー。
「着いて来いよ、俺に。このままここにいたらお前危ないから」
「あなたは、どこに……?」
「俺は王都に向かう途中さ。この街に用があった訳じゃないし、飛ばして次の街に向かう」
男はルーに説明しながら、自分の荷物を納屋から取り出して来て身に着けている。それは、旅に必要な衣服や食料だけでは無かった。
ロープや方位磁石、双眼鏡、そしてひと振りの剣。
「冒険者をやってる。ジークムント・ハイポリッツだ」
どくん。ルーの胸の奥で心臓が跳ねるのを感じた。
『冒険は好きかね?』
おじいさんの声が聞こえる。手にした書物を強く握った。
この街に、未練など無かった。
「で、行くか、少年?」
「ルーです」
赤髪の男を正面に見上げ、ルーはそう言って右手を差し出した。
「ルー・クラフト。よろしくお願いします」
ジークムントはその小さな手を見下ろして、無造作に握った。
「おう、よろしくな」
旅を、しなければならない。
これが、稀代の冒険家の遺した『ダンジョン・ブック』を辿る旅に向かう少年の、第一歩だった。





