4-09 電子幽霊は今日もお酒
VR技術が発展し、終いには身体を棄てて意識までVR世界に入り込むユーザーが出始めた未来。身体を失っても、飲み、語り、酔いどれる気晴らしを求めて、VRの隅っこにあるかもしれない小さなバーのお話。
事案の最初期例は、あまりに突拍子もない動作で起きた事故だったという。複雑なシステムには時折存在しているスイスチーズの穴を、あるユーザーが偶然にも突いてしまったらしい。
そうして、極め付けに運のない彼は利用していたVRSNSのサーバーに、魂魄までアップロードされたらしかった。結果、心身の制御をソフトウェア的に失った身体は、もはや何の外的刺激にも反応せず、自発呼吸することすら無くなった。ちょうど、オペレーションシステムを消去されたコンピューターのように、ハードウェアは健在であるのに動作しなくなってしまった。
一方で、そのユーザーはVRSNS内では事前にアップロードされていたアバターを使い、何事もなかったように活動していて、他のユーザーとも話す姿が確認された。
当然、問題は重大であったのですぐに調査が入り、奇怪極まりない現象そのものは、適切なパッチが当てられて修正されたように見えた。見当違いがあったとすれば、理屈さえ分かれば意外なほど容易に、その事故を再現できてしまうことだった。VRの各種感覚フィードバック機能と、それを支える膨大な演算処理能力は、もはやそんなことが起きてしまうほどに発展していた。数年経った今でも技術は衰えることなく、むしろそうやって現世から遊離した人種が集まることで、VRSNSには良くあるようなコミュニティのひとつを作るようになった。
璃々(りり)がそうやって身体を棄て、ついでに名前と声も棄ててから、しばらくになる。リアルへ投棄した身体の代わりに、今や使い馴染んだ碧い眼と白い髪の少女は、鴉のように真っ黒なイブニングドレスを身に纏い、何もかも物憂そうな顔をしていた。
路地裏の飲み屋街を模したインスタンスに、昼は来なかった。もともとそんな設定がないからで、だからその店は長い夜の下にいた。使うところは手を入れてあるが、いかにもうらぶれた雰囲気のバーだった。どう好意的に表現しても廃墟の片隅としか言いようがないけれども、ここが璃々の寝処と仕事場を兼ねていた。薄ら暗いカウンターの奥で、璃々は手真似でカクテルを作ってみては、それを飲み干す。
カクテルを作るギミックは、身体を失う前、VRSNSを始めたての頃から馴染みのあるギミックなのだが、そのときは精々、違う色味の酒を混ぜたり、マドラーで掻き回すと色が変わる程度のものだった。それが酒や割材が種類、銘柄別に分かれ、シェイカーやミキシンググラス、アイスバケツのような道具が増え、飲む方も度数がついて杯を重ねれば酔ったようなエフェクトが付き、氷の冷たさを感じるようになり、とうとう味と匂いまで感じられるようになった。終いにはプロのバーテンダーに作らせても難易度と出来上がりで唸るほど、リアルと遜色ない代物になってしまった。
手慰みを兼ねて頻繁に扱う割には、なかなか腕前が上がらないと璃々は感じていた。結局、基礎がなっていない故なのか、ただ練習量の不足なのかは、判然としなかったが。今日、試しに作ったマティーニは、ドライジンが効き過ぎてかなり鋭い味がした。これは人を選ぶだろうと、半ば他人事のように思う。悲しいかな、この程度でぎょっとするのは、たまたま奇縁のあった一見くらいだろうけど。
カクテルを飲み干すと、璃々は引き出しに仕舞い込んでいたテキーラとウォッカを二、三本づつ取り出して、小さなショットグラスとともに冷凍庫の底に沈めておく。カウンター下の冷蔵庫には割材と、度数の低い酒を入れてあった。氷の残りが気になって製氷機を覗いてみたが、氷は充分に溜まっていた。
実体を無くして電子上の幽霊じみた存在となった現在、身体を維持するために日銭を稼ぐ必要はないが、いくらかの潤いのためには相変わらず必要だった。例えば、新しい服、テクスチャ、ちょっとしたギミック、その他。ただ、何かと電子上では不便の多い現金の代わりに、VRSNSで広く流通する通貨であるソバチップスで、そうしたモノやサービスが媒介されている。気紛れに璃々が開くバーも、その細やかな一部を担う次第だった。
璃々がインスタンスの入室設定をクローズからオープンに変更すると、他のユーザーが立ち入ることができるようになる。しばらく待ち惚けていると、ユーザーの入室を知らせるベル音が虚空から聞こえた。
「こんばんは。相変わらずだね、璃々」
「弥生こそ、相変わらずの格好じゃない。何か飲む?」
黒髪の毛先を白く脱色させたショートボブに、薄紫の目をした少女型のアバター。白い肌を極度に露出させた黒のエナメルレザーのスリングショットは、目のやりどころに困ったけれど。
「じゃ、ショットでひとつ」
「テキーラ?」
「うん」
「貰ってもいい?」
弥生がもう一度頷いたので、璃々は遠慮なく、冷凍庫に入れたテキーラの瓶と、ショットグラスをふたつ出してテーブルに並べた。よく冷えて表面が曇ったグラスに、薄い琥珀色のテキーラを摺り切りまで注ぎ入れる。
弥生の表情がぴくり、と動いたのを見て、璃々は思わず笑ってしまった。
「相変わらずだな、本当に」
「ええ。だって、公平でしょう?」
「肝臓の能力が公平じゃないんだよ」
璃々は本当に、公平な方が良いと思っているだけで他意はないのだが、妙に恐れられる始末だった。
「弥生と大して変わらないから。乾杯」
「嘘つけ。……乾杯」
零さないよう注意して、軽くグラスを掲げる。そうして、一息に中身を煽った。喉を焼くような熱が、流れ落ちていくような感覚。そこに身体性の僅かな名残を感じて、微かに顔を歪める。
「……もう一杯、やらない?」
「むしろチェイサーが欲しいんだけど」
「これでいいんじゃない」
「馬鹿」
充分に強い酒のはずだが、理性を遊離させるには量が足りないらしかった。璃々は弥生の反応も訊かず、彼女が空けたばかりのグラスに、再び新しいテキーラを注いだ。例に漏れず並々と、溢れんばかりに。もちろん、自分のグラスにも。
そうして満たされたグラスを指先で引っ掛けるようにして、璃々は口元に運んだ。弥生もそれに倣って中身を空ける。
やっと気分になってきた。弥生にはチェイサーとしてクリアタイプの桃ジュースをグラスに注いでやり、彼女はそれを二口三口飲んだ。あまり綺麗に後味が失せてしまうのも勿体無いと感じて、璃々は却って好まなかったけれど、弥生にはそれが良いらしい。
「……ふぅ。加減してくれよ、こんなペースで飲んでたらこっちが持たない」
「直に押し付け先が来るでしょう。噂をすれば……」
入室ベルの音は元々の設定のままだが、何となくグラスを重ねる音と近しく聞こえた。
「こんばんはマスター、遅れちゃって」
「こんばんは……って、弥生もう呑んだくれてる……」
「まだ大丈夫だよ、まだ」
思い思いの身体、服装、声、そして名前を纏って、今日も小さな一角のバーに集う。ここでは、酒と同じく姿形も、その人を映す鏡に過ぎない。
「気にしないで。杏さん、天羽さん、今日もよろしく」
挨拶を交わしてから、璃々は天井を見上げた。天窓の向こうから、欠けることのない月が見下ろしている。大入りだと助かるのだけど、璃々は独りごちた。





