4-07 THINK DIRTY OUT
雪の季節、熱かった味噌汁が冷めていくまでのこと
隙間風が抜ける廊下を抜けて2階へ続く階段の押し殺した泣き声のような軋みを思い、目線を下に向けた。床板の隙間から冷気が上がってくる。爪先から膝の裏まで、じわりと寒さが這い上がってくるようだった。廊下の端に置かれた古いストーブはとっくに消えていて、窓ガラスの向こうでは雪が降っていた。細かい雪が街灯の明かりを横切っている。地元の冬は寒い。といってもここ以外の場所なんて暮らしたことないのだけれど、それでも今年の寒さはどこか質が違う気がしていた。
古い家は、住む人間の気配に敏感になる。柱も床も、長年そこにいる者の重さや歩幅を覚えてしまって、他人には見せない声で鳴くようになる。この家が覚えているのは、私と友紀、たった二人分の足音だけだった。両親のぶんの軋みは、もうずいぶん前に忘れられてしまっている。それでいいと思う日もあれば、そのことに気づくたびに喉の奥が冷たくなる日もあった。今日はどちらでもなかった。ただ静かで寒いだけの日だった。
台所の換気扇の音だけが、この時間の家に唯一残る生活の音だった。鍋の底で味噌がゆっくり溶けていくのを見ながら、私は何度も同じ動作を繰り返す自分に気づく。菜箸で鍋の中身をかき混ぜ、火を弱め、また強め、蓋を少しだけずらす。誰に見せるためでもない儀式のようなものだった。手を動かしている間だけは、2階のことを考えずに済んだから。
盆に乗せた椀からあがる湯気が、暗い階段の途中でふっと揺れて消える。手のひらに伝わる熱だけが、この家の中でいちばんかけがえのないものだった。段を踏むごとに、その熱がわずかずつ逃げていくのが分かる。2階の廊下は1階よりも寒い。窓の隙間から入り込む風が、閉め切られたカーテンの裾をわずかに揺らしている。裸足の足の裏に、板の目の凹凸が刺さるように冷たかった。
階段の中ほどで一度立ち止まり、椀の中の味噌汁が波打つのをじっと見ていた。表面に浮いた油の膜が、街灯の光を受けてわずかに光る。それだけのことに、しばらく見入ってしまった。時間を稼いでいるのだと、自分でも分かっていた。あの部屋の扉を開ける前の、ほんの数秒。それだけが、私にとって唯一の猶予だった。
「友紀」
ノックもせずに扉を開けても弟は怒らない。慣れたものだ。なに、と唸る背中に、ご飯、と投げた。声は思ったより硬く出た気がしたが、気にしないことにした。
部屋の中は、いつものように光源がひとつしかない。モニターの青白い光が、机に向かう友紀の輪郭だけを浮かび上がらせていて、その他のすべてを闇に沈めている。カーテンは今日も、いつからそうしているのか思い出せないくらい長く閉め切られたままで、外の雪明かりも、街灯の色も、この部屋には届かない。飲みかけのペットボトルと、電源の切れたままの携帯が、机の端で埃を被っている。空気は薄くお香の匂いを含んでいて、それが友紀の匂いなのか、この部屋自体の匂いなのか、もう区別がつかなくなっていた。ドアを開けた瞬間だけ、廊下の冷気とこの部屋の淀んだ空気が一瞬混ざり合い、すぐにまた分かたれる。
床には脱ぎ捨てられた服が幾重にも重なっていて、その上には空き缶が転がっていた。壁際に積まれた漫画本の山は、もう何ヶ月も動かされた形跡がない。埃の積もり方でそれが分かる。かつては窓辺に置かれていたぬいぐるみが、今は部屋の隅で埃を被ったまま、こちらに背を向けて転がっていた。
「あと10分」
「その10分で何人見るの」
「今日は少ないよ」
キーボードを叩きながら友紀が声だけで笑う。乾いた、軽い笑い方だった。前はもっと違う笑い方をしていた気がするけれど、いつからこうなったのか、その境目を思い出すことができない。記憶を巻き戻そうとするたびに、どこかで映像がすり替わっているような、奇妙な違和感だけが残る。
「7人」
ため息をついた。数字が、実際の重さを持たずに部屋の空気に溶けていく。それが恐ろしかった。
「それ少なくない」
「3ヶ月前よりは」
「前は何人だったの」
「100くらいだよ。だから今日は平和」
私はもうなにも言わなかった。指先が冷えているのが分かる。椀の熱がまだ手のひらに残っているのに、それとは別のところから冷えが広がってくる感じがした。
「平和、か」
呟いた自分の声が、思いのほか乾いていて少し驚く。友紀は振り返らなかった。ただキーボードを叩く音だけが、規則正しく続いていた。その音を聞いていると、まるでなにかの心臓の鼓動を聞いているような気になった。誰の心臓かは、あえて考えないことにした。
言葉を継げば、それがこの家の当たり前として固定されてしまう気がした。数字は数字のまま、弟の指先の下で増えたり減ったりしている。それだけのことだと、何度も自分に言い聞かせてきた。けれど本当は、その、それだけ、という言い方こそが、自分たちがどこまで来てしまったかを一番よく示している気がしてならなかった。
代わりに湯気の立つ味噌汁を机へ置く。椀の底が机の木目に当たって、小さく硬い音を立てた。それでも友紀の視線は画面から離れない。指はまだ動き続けていて、その先で何が起きているのか、私にはもう聞く勇気がなかった。モニターの光だけが、規則的な瞬きのように部屋の暗さを引き延ばしていた。
「今日、雪すごいよ」
「へえ」
「積もってる。窓開けてみる?」
「別に、いい」
友紀の返事はいつも短い。会話を続けようとする私の努力を、悪意なく削り落としていくような短さだった。それでも私は続けた。この部屋で交わされる言葉が減っていくことが、なによりも怖かったから。
「ありがとう」
弟はこちらを見ない。それを解った上で、冷める前に食べて、と念を押せば疲労の影を落とした笑顔がようやく振り返った。
その笑顔だけは、昔から変わらない。小さい頃、熱を出して寝込んだ私の枕元に、こっそり果物を持ってきてくれた時と同じ顔だった。変わってしまったのは、その笑顔の周りにあるものすべてだった。画面の中身も、部屋の暗さも、この家に流れる時間の質そのものも。あの頃の果物の甘さと、今この部屋に満ちているお香の匂いの間に、どれほどの距離があるのか、私にはもう測る術がなかった。
扉を閉めて廊下に出ると、また階段が低く軋んだ。今度はさっきよりも、少しだけ長く尾を引いた気がした。まるで、この家自体がなにかを堪えているみたいに。椀を持っていた手をきつく握りしめ、湯気の消えた廊下を一階へと降りていく。一段ごとに軋む音が、自分の鼓動と重なって聞こえた。
階段を降りきったところで、もう一度だけ2階を振り返った。扉の隙間から漏れる青白い光が、廊下の暗がりにひとすじだけ伸びている。それを見ていると、あの光の向こうにいる弟が、もう自分の知っている友紀ではないのかもしれない、という考えが頭の隅をよぎった。すぐにその考えを打ち消して、私は台所へ戻った。
***
事務所の窓には結露が降りていて、外の雪明かりを白く滲ませていた。狭い室内には煙草の匂いと油の匂いが染みついていて、その中で等間隔に鳴る爪切りの音だけが、やけに規則正しく響いていた。ようやく俺たちのようなものにも回ってきたパソコンの狭いモニターの切り替わる低い唸りと、外を時折通り過ぎる車のタイヤ音が、その規則性の隙間を埋めていく。
壁には貼りっぱなしのカレンダーが、10月のページのまま止まっていた。机の脚元には飲み終えた缶コーヒーが3本、行儀悪く並んでいる。誰かが片付けようとした形跡はない。この部屋の乱雑さは、もう長いこと誰の目にも留まらなくなっていた。
「惨殺の動画?」
等間隔に爪切りを鳴らしていた三波が顔をあげた。手の甲についた小さな鱗のような瘡蓋に、蛍光灯の光が反射していた。
「ああ、ここ数年だったかネットでそういうやつが高値で取引されるようになってな。まあまだ大事にはならない規模だが、もうすぐに広まるだろう」
「ふうん、変な奴らもいるんだな。で、それがなんなの」
「見りゃ解る」
パソコンの画面には粗い解像度の動画が一時停止されたまま光っていた。障子の柄も、庭石の並びも、静止したフレームの中では作り物じみて見える。画面のノイズが細かく揺れて、静止しているはずの映像がわずかに息をしているように見えた。
三波が椅子を引き寄せて画面に顔を近づける。その動きに合わせて、爪切りが机の上でカタリと小さな音を立てた。
「このサイトは個人のものでまだ新しい。こうやってサンプルの画像やcmみたいに短い動画が載せてある。変わったところは映っているほとんどが日本人……特に俺たちみたいな奴らのものなんだ」
「へえー、色々やるんだねえ」
「お前さ、なんか見覚えないか?」
そう問えば三波は疑問符を浮かべてみせた。
「映ってんだよ、俺」





