4-04 魔性の公主の手のひらの上
宝真国の公主・璃嬉は悪女である。
父帝の寵愛を笠に着たやりたい放題の悪行三昧で、後宮中に恐れられている。
「後宮を乱す悪女」の存在を憂えた皇太子に命じられ、気鋭の官吏・冰清は宦官に扮して璃嬉を監視しようとする――が、早々にバレる。
「男の身で後宮に入るなんて。面白いおもちゃが転がり込んで来たわね」
不本意ながら璃嬉の「犬」として使われることになった冰清は、彼女の悪辣さにあるいは引き、あるいは憤りながら振り回されることになる。
不遇の公主の婚姻、官吏と宦官の癒着、妃嬪同士の権勢争い――後宮に不和と不穏の気配が見えるところ、必ず首を突っ込んで場を荒らす璃嬉と間近に接するうちに、冰清の胸にはある疑問が芽生える。
この姫君は、本当に悪女なのだろうか?
魔性の悪女×堅物官吏の凹凸バディによる中華後宮ミステリー!
後宮に美女三千人、という。
その数字は誇張だとしても、ともあれ数多の美姫が皇帝に侍った当然の帰結として、現在の宝真国の後宮には、当の皇帝も覚えきれぬほどの皇子と公主があふれていた。
同じ皇帝の御子といえど、彼ら彼女らの待遇は一律ではない。
後ろ盾のない者や忘れられた者は衣食にこと欠くことさえ珍しくないいっぽうで、皇帝の覚えがめでたい者たちの奢侈と驕慢は際限がない。
絹と玉と金銀とで飾り立て、美酒美食だけを口にし、美辞麗句だけを耳にして、他者の悲嘆も屈辱も踏みつけにして平然と笑う。そして、その権勢を保つためにはあらゆる権謀術数を厭わないのだ。
そんな後宮の歪さおぞましさは、魏冰清にとっては噂で聞いて眉を顰めるだけのものだった。後宮に名高い悪女の傍に、仕えるようになるまでは。
*
白く華奢な手が、翡翠の杯を高く掲げた。富貴を表す牡丹の彫刻を施した、滴るような翠が艶めく逸品だ。
真珠を玉盤に落としたかのような、澄んで可憐で華やかな少女の声が響く。
「これ、とても素敵ね。わたくし、欲しくなってしまったわ」
翡翠杯を胸に抱いて微笑むのは、声と同じく可憐を極めた、たいそう麗しい少女だった。
結い上げた髪の艶やかさも白い肌のまばゆさも、その少女を飾る絹や宝石の輝きにひけをとらない。むしろ、睫毛の先から細い首筋にしなやかな腰、小さな足の爪先に至るまで、彼女の身体のいかなる部位も美しく整って光輝くかのよう。
その美貌に目が眩めば、鳥は落ち魚は水底に沈むだろうし、月も花も恥じ入り姿を隠すだろう。
けれど、美しい者の心も同様に美しいとは限らない。しっとりと潤んだ瞳は鼠をいたぶる猫の愉悦を湛えて細められ、花弁のような唇もどこか邪悪な笑みに歪んでいる。
「り、璃嬉様……それは、わたくしが祥可に贈ったものです。仮にも宝真の公主として恥ずかしくないように、彼方の地でも養母たるわたくしを偲べるように、と!」
はるかに年下の美姫に対して、狼狽えた声で訴える貴婦人は、温淑女という。後宮に数多いる、かつてほんの一時だけ皇帝の傍に侍った女のひとり。
そして祥可というのは、生母亡き後、友人であった温淑女のもとで養育された公主だった。つまり、後宮の住人の序列としてはかなり下の者たちだ。
祥可公主は、この度戦功のあったとある将との婚姻が決まり、夫の任地である北辺に嫁ぐことになった。褒章扱いではあるが、有象無象の公主にとっては夫を得られるだけでも僥倖だ。その門出を祝うべく、交流のある妃嬪が集まって送別の会が設けられたところだったのだが――
「宝真の権威を示すなら、もっと良い品をお父様におねだりすれば良いじゃない」
呼ばれもしないのに足を運び、さらには餞別の品を強奪しようとしているのが、璃嬉だった。
お父様、というのはほかならぬ宝真の皇帝のこと。つまり、璃嬉も公主なのだ。それも、青褪めて震えるこの場の女たちの誰よりも煌びやかな装いから分かるように、皇帝にこよなく寵愛されている。
皇帝へのおねだりは、璃嬉にとっては日常だ。けれど温淑女や祥可公主は、対面の機会さえまず得られないだろう。
(分かっていてやっているのだな)
宦官のひとりとして璃嬉の傍に控えながら、冰清は心中憤った。
璃嬉の美貌は亡き母君譲りだという。寵姫の面影を惜しみ、母のない娘を哀れんだ皇帝は、この公主にとにかく甘い。いかなる悪行も我が儘も、寂しさゆえだと許されて、寵愛は深まるいっぽうだとか。
「いかな至宝でも娘を思う真心には代えられぬかと。どうかお許しください」
「でも、祥可は何と言うかしら。ねえ、わたくしがもらっては、ダメ?」
だが、冰清が見る限り、跪いて乞う温淑女を見下ろす璃嬉は、心の底から嫌がらせを楽しんでいるとしか思えない。皇帝の第一の愛娘にとっては、翡翠の杯など特に欲しがるほどの宝物ではないのだから。
「わ、わたくしは――」
土気色の顔で唇を震わせる祥可公主を、周囲の妃嬪も女官も宦官も、気の毒そうに見つめている。けれど、璃嬉に逆らえば何をされるか分からない。答えなど、最初から決まっているだろう。
「何も……。あ、あの、璃嬉様のお望みのままに……」
「ありがとう! これで温淑女も文句ないわね?」
璃嬉が微笑むと、真白い清らかな花が綻ぶかのようだった。その美しさに辺りは一段階明るくなり、芳しい香りさえ漂う思いがする。けれどその輝く微笑の主の言動は、どこまでも高慢で悪辣だった。
戦利品の翡翠杯を愛しげに撫でながら、璃嬉は冰清に長し目を寄こす。
「さ、魏少監。帰りましょう」
「……御意」
もう用は済んだ、ということらしい。つまり、璃嬉には祥可公主を祝う気など欠片もなく、嫌がらせのためだけに現れたのだ。
(噂に違わぬ悪女ぶりだな。皇太子殿下が憂えるだけのことはある……!)
宦官らしく卑屈に背を丸めながら、冰清の胸にはその名に似合わぬ義憤の炎が燃えていた。
卑しい宦官に身をやつしてはいても、彼はれっきとした男だった。露見すれば死を免れない大罪をあえて犯すのは、璃嬉を監視し、あわよくば改心させるためだ。
『皇子とはいえ、成人すれば後宮に深く関わることはできぬ。あの女が皇后の傍にいると思うと気が休まらぬのだ』
冰清を密かに召し出して、封真国の皇太子志康は乞うた。父帝への反逆と取られかねぬことと承知の上でも頼む、と。
『そなたならば、あの女の美貌に惑わされぬであろう』
彼の評判が皇太子の耳にまで届いていることを知って、冰清は感激した。皇太子の手回しにより、首尾よく璃嬉の近侍に収まることもできた。
だが、肝心の悪女の改心については――
「璃嬉様。その翡翠杯は、お手元に置くにはいささか見劣りするかと。祥可公主にお返しになっては……?」
「嫌よ」
何らの進展を見ていないのが現状だった。
自らの殿舎に戻り、池を望む四阿で寛ぐ璃嬉は、飽きることなく翡翠杯を眺めては精緻な牡丹の彫刻を指先で撫でている。慣れない手つきで茶を供した冰清には目もくれぬご満悦ぶりだ。
「ですが、母と慕うお方からからの贈り物です」
とはいえ、その上機嫌も春の日の薄氷のようなもの、迂闊に踏み込めば瞬時に砕け散るだろう。分かってはいたが、温淑女と祥可公主の青褪めた顔を思い出すと、冰清は危険を冒さずにはいられなかった。
「このままでは、祥可公主は璃嬉様をさぞお恨みになるかと」
「だから何? わたくし、何も怖くないわ。わたくしは何をしても許されるのよ」
当然のように言い切る璃嬉を前に、冰清の口の中に苦いものが広がった。
「母君様も、そう思し召しだったことでしょう」
璃嬉の美貌は母譲り。そして、その悪辣さも。
娘と同じく皇帝の寵愛を良いことに自儘に振る舞い、多くの怨嗟を買い、結果として死を賜ることになった。皇帝が璃嬉に甘いのは、母を庇いきれなかった後ろめたさがあってのことだ。
(同じ轍を踏むのが、怖くはないのか?)
普通なら、息を潜めて慎ましく暮らすものだろうに。皇帝の寵愛も絶対ではないと、誰より知っているのが璃嬉のはずなのに。
(なぜ、そのようなことを……?)
璃嬉の唇が、妖しく弧を描いた。香り立つ花のような美しい微笑なのに、なぜか冰清の背筋を凍らせる。
しまった、やり過ぎた。そう思った瞬間、翠の煌めきが冰清の視界を流れた。
「そんなに言うなら、返してあげても良いわ」
繊手の一閃で、璃嬉が翡翠杯を池に放り投げたのだ。水面に煌めく陽光を思わせる、華やかな笑い声が弾ける。
「犬のように『取って来い』ができたらね!」
「わ――」
池の深さを考える暇などなかった。冰清の頭を駆け巡ったのは、温淑女の必死の表情と、祥可公主の諦め切ったか細い声だけ。とにかく、あの翡翠杯が失われてはならない、と。
沓を脱ぐ間も惜しんで、冰清は四阿から飛び出した。翡翠杯が作った小さな波紋目がけて、跳ぶ。
次の瞬間、冰清は水中にいた。ほとんど目を開けることもできない中、たまたま触れた硬いものを引っ掴む。指先に感じる細やかな彫刻からして、翡翠杯に違いない。
もがくうちに、池の底に足が届いた。溺れずに済むと安堵して、冰清は大きく息を吐き――そして、目を見開いた。
「こ、これは……」
彼の周囲に、太った鯉が何匹も腹を上にして浮いている。異様な光景のただ中で立ち竦む冰清の耳に、しゃらん、という涼やかな音が届いた。
「毒よ。温淑女、どうも祥可が嫌いみたいなのよね。絶対何か仕込んでると思ったのよ」
璃嬉も四阿の屋根の下から出て、岸辺から池を覗き込んでいる。彼女の髪に挿した玉が触れ合って、まさに玲瓏たる調べを奏でたのだ。だが、それよりも聞き捨てならない一語があった。
「毒!?」
思わず冰清が上げた大声に、璃嬉は柳眉を寄せた。うるさいというよりは、どこか不思議そうな、困惑の色が漂っている。
「それはまあどうでも良いのだけれど。お前……どこで着替えるつもり? 人に裸を見せられる立場ではないでしょう」
優美に首を傾げる璃嬉は、先ほどの冰清と同じ疑問を抱いているようだった。つまりは、なぜそのようなことを、と。
「あ――」
その疑問が意味することに気付いて、冰清は頭から血が引く音をはっきりと聞いた。
この女は、彼が宦官ではないと気付いているのだ。





