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4-21 テディベアを撃て!

ある日、荒川河川敷でクマさんに出会った。

腹を空かせたクマだった。

だから、彼女にあげることにした。

わたしが殺しちゃったおじさんの死体を。

ガールミーツベアーから始まる青春クライムサスペンス。

 お母さんごめんなさい。あのおじさん殺しちゃった。


 わたしは壊れたおもちゃのように繰り返す。ああ、ここにお母さんがいたらと思う。そしたらちゃんと直接謝れたのに。

 

 本当に?


 そう訊き返された気がした。誰に? お母さん? 川を吹き抜ける晩秋の風? それとも、淀んだ水面に映る自分自身?

 誰だっていい。風の冷たさに縮こまりながら思う。そうだ、わたしは嘘を吐いた。お母さんを前にして直接謝れるわけがない。きっと何も言葉が出てこないはずだ。だって、どう説明したらいいの? うっかり殺しちゃった、ではすまない。あのおじさんがしようとしたこと――というか、わたしが勝手にそう思ってることとか、あのおじさんが日ごろから向けてきていた視線――これもわたしの思い込みかもしれないけど――のこととか、そういうことを一から言葉にして説明するなんて、わたしには無理だ。何度もどもって、怒られて、殴られて、涙が溢れて、それで言葉なんてどこかに行っちゃうんだ。きっとそうだ。


 ああ、なんてダメな子。


 誰とも知れない声が脳内にこだまする。そうだ、いつまでこんなことをしてるんだろう。お母さんに謝れないなら、もうわたしには何の存在理由もない。それがわかってたから、ここまで来たはずなのに。いらない子を捨てに来たのに。


 お母さん、きっと怒るだろうな。川にごみを捨てるなんて。だけど、ごめんなさい。わたしはこれからお母さんのお説教も聞こえないところに行きます。きっと天国ではないどこか、地獄に限りなく近いどこか、あるいは地獄そのものに。

 痛いかな、苦しいかな。それはちょっと嫌だな。お母さんはきっと会いに来てくれないだろうし。何十年後になるかわからないけど、きっと出来の悪い娘のことなんて忘れて、「エリートに相応しい場所」に行くんだろうな。都心のビルみたいに高い場所、天国に限りなく近い場所に。


 だけど――ううん、こんなこと考えちゃだめだ。お父さんのことはもう考えないって約束したんだから。お父さんはもうずっと前に死んじゃってるんだから。

 たとえ、お母さんの言う通り、お父さんが地獄に落ちちゃったとして、会いに行こうなんて考えちゃだめだ。地獄の門で待っててくれるのを期待なんてしちゃだめだ。だいたい、わたしはお父さんのことなんてほとんど覚えていない。再会したって顔もわからないだろう。それは向こうも同じはずだ。


 だから、何も期待しちゃいけない。これは罰なんだから。わたしはわたしを殺す。それが、あのおじさんを殺してしまったことの償いなんだ。


 ああ、でも――


「なあ、お前さっきから何やってるんだ?」

「ひえっ」不意にかけられた声に腰が抜ける。枯れた芝の上に尻餅を突く。


 女の子だった。きっと、わたしと同じくらい。中学生くらいの女の子。無造作に切られた栗色のウルフカットに、雪みたいな白い肌。血の色を思わせる、赤みがかった瞳。野性的だけど、どこか気品を感じられる顔立ちの女の子。薄着で飛び出してきたわたしと違って、暖かそうなダウンコートを纏っている。


「何だよ、そんなにビビることじゃないだろ。こちとら、見ての通り――」


 ぐう~っと気の抜けた音が響いて、女の子はその場によろよろと蹲ってしまった。


「お腹空いてるの?」思わず問いかけた。ああ、まただ。そうやって考えなしに動いて罪を重ねる。学校の子以外としゃべっちゃだめだって言われてるのに。


 返事はなかった。わたしはきっと神様に感謝すべきなのだろう。知らない子とこれ以上話さずに済むんだから。

 罪深き娘よ、さっさとこの場を立ち去るがいい。己がなすべきことをなせ。知らないおじさんの声がそう命じる。それはきっと信心深い人たちが呼びかけてもめったに応えてくれないらしい、いわゆる神様の声で、わたしみたいなだめな子にはもったいないほどの恩寵ってやつのはずだった。

 これを足蹴にしては、お母さんだけでなく、全世界の熱心なビリーバーのみなさんからもげんこつが飛んでくるだろう。わかっていた。頭ではそうわかっていたのに、身体がそれを裏切った。


「ねえ、大丈夫?」わたしは女の子のそばでしゃがみ込み、彼女の様子を伺った。陰になってるせいかもしれないけど顔に生気がない。見ていて、痛々しいほどだ。まるで、わたしまで三日三晩ご飯を食べずに荒川を彷徨っていたかのような気持ちになる。

「お腹空いてるんだね?」もう一度問いかけると、女の子は力なく、こくんと頷いた。

「何か食べたいものある?」そんなことを聞いてどうするのだろう。後から後から、疑問が湧いてくる。

「………」女の子は何かぼそぼそと呟いた。

「ごめん。もう一度言える?」わたしはさらに身をかがめ、女の子の口許に耳を近づけた。女の子からは少し饐えた匂いがして、もう何日もお風呂に入っていないのがわかった。そんなことを考えていると、今度ははっきりと、女の子がこう言葉にするのが聞こえた。


「ニンゲン」と。インゲンでもニンジンでもない。たしかにニンゲンと言った。


「ねえ、それってどういう――」言いかけたところで、Tシャツの裾を掴まれた。思ったよりずっと強い力でその場に倒される。枯れた芝がちくちくと首筋を刺して、それから、女の子の赤い瞳が――さっきよりもずっと赤くて野性的な瞳がわたしを見下ろしていた。

「食っていいんだよな?」低い声が囁く。薄い唇が開いて、鋭い犬歯が覗く。まるで野獣のような、長い長い牙から細く唾液が伸びている。わたしに迫ってくる。唾液が一滴、二滴と垂れて、わたしの顔を濡らす。

 

 ああ、わたし食べられちゃうんだ。こんな小さくてかわいい女の子に。これはきっと神様の声を無視した罰。すぐに立ち去らなかった罰だ。お母さんはいつも言ってたのに。知らない人と話しちゃだめだって。話しかけられたら逃げなさいって。そう、すたこらさっさと。すたこらさっさ。変な響き。わたしはこの響きをどこで知ったんだろう。そんなことを思いながら、わたしは首に女の子の牙を受け入れた。




 都内でも度々、クマが目撃されているのは知っていた。山での生存競争に負けた個体が人里に降りてきて、食べ物を漁るのだと言う。つまり、街中に現れてワイドショーを賑わせるようなクマは皆腹を空かせた弱いクマなのだと、専門家のおじさんが解説するのを聞いたことがある。山にいるクマはもっと強いのだと。

 だからきっと、()()()もそうなのだろう。

 背中に自分と同じくらいの重みを感じながら思う。きっと、周りからは奇異の目で見られていることだろう。こんなこと、お母さんは絶対に許さない。わかってる。わかってるってば。

 頭の中で言い訳しながら、わたしは荒川で出会った()()をおぶって市街地を歩いていた。足は自然と我が家の方に向いた。お母さんが出張で留守にしている我が家、おじさんの死体が横たわっている我が家に。

 我ながらどうかしている。家にクマを招くなんて。だけど、今はこうするしかない。そんな気がした。誰の声でもない。だけど、不思議と確信があった。わたしはこうするしかないのだと。


 背中のクマさんは、わたしの首に齧りついたところで力尽きたらしい。わたしの上に重なるようにして動かなくなった。わたしはのそのそと女の子の下から逃れて、少し途方に暮れつつ空を見上げた。

 日が傾きつつあった。よく晴れた日だから、夜は放射冷却でよく冷えるだろう。そんな河川敷にお腹を空いた女の子を一人放置したらどうなるか。考えなくてもわかった。

『あなた、クマなの?』わたしは尋ねた。なんでそんな質問が口を突いたのかはわからない。ああ、そうだ。きっとすたこらさっさからの連想だ。「森のくまさん」が頭の中を流れていたに違いない。

 わたしの質問に、女の子は小さく頷いた……ように見えた。だからきっと、この子はクマなんだと思う。たぶん。クマがどうして人間の女の子の姿をしているのかはわからない。いや、そもそもそう見えているのはわたしだけだったりして。わたしはきっと頭がおかしくなって、メルヘンな夢を見てるんだ。ほら、幼児退行ってやつで。


 そうやって苦労しいしい、女の子を我が家まで運んだ。まだ築年数の浅いアパートで、清潔感があって気に入っている。間取りは2DKでお母さんと二人で生活するには十分な広さだったけど、おじさんがやって来てからは少し手狭になった。それに、このアパート自体もそんなにきれいに見えなくなった。なぜだろう。おじさんは不潔な人じゃない。お風呂も毎日入るし、髭だって伸ばさない。髪はいつも短く切り揃えられている。背中の女の子とはまるで違う。違うのに。


 鍵はかけずに飛び出してきた。そのままドアをガチャリと開いて、無理矢理体をねじ込む。どこかぶつけたのか、背中から唸るような声が聞こえて、少し申し訳ない気持ちになった。

「ねえ、着いたよ。わたしの家」わたしはダイニングの床で仰向けになった女の子に呼びかける。「待ってて、今何か食べるもの――」

 言いかけて気づく。女の子の目に生気が戻っていた。鼻をクンクンと鳴らしている。そして、おじさんの死体が横たわる隣室に向かって眼球を動かした。


 何も考えていなかった。それは本当だ。だけど、結果的に、状況はわたしに利した。


「食べたいの?」目的語を欠いたまま尋ねる。しかし、女の子は確信を持って頷いた――ように見えた。


 わたしはきっと詫びるべきだ。でも、誰に? 頭が混乱したまま、わたしは隣室のドアに手をかけた。

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