4-19 レトロニムな世界を君とともに生きよう。
その日、気が弱い高校生の“むーさん”は、異星人のレトと出会った。
レトは地球人の行動を研究しており、“むーさん”に観察実験の協力を要請する。
異星人はその驚異的な技術で運命の選択をやり直せるという。
選ばれた地球人の人生を観察研究したいのだった。
あの時、別の選択をしていたらよかったんだろうか。
そんな人生の分岐を3か所、記録することができるようになった“むーさん”は、どのように生きるのか。選択するのか。異星人はその姿をどう観るのだろうか。
『このホームを快速電車が通過します。黄色の点字ブロックの内側までおさがりください』
(快速か……ちょうどよかった)
僕はベンチからふらりと立ち上がった。
タイミングがいい。やっぱりこれが運命だ。神さまも、もう我慢しなくていいと言ってくれてるんだなあ。
『危険ですのでホームの端から離れてください』
僕は制服のネクタイの先を胸ポケットに入れた。邪魔になる。
メガネを外した。よく見えなくてホームから足を踏み外した、そんな言い訳を考える。カバンもダメだ。重くて邪魔になる。置いていこう。
『そこの学生さんっ! 危ないからホームの――』
ホームの端を一歩進むだけで、もうアイツらに我慢しなくてすむ。いいね、ありがたい。なんて簡単なんだろう。
僕は楽になれるそのラインを越えるため、足を前に踏み出した。
「ぱんぱかぱーーーーん。おめでとうございます」
突然、渋くて平坦な、低音のイケメンボイスとともに、僕の目の前に茶色の毛玉が現れた!
文字通り目と鼻の先。僕は思わずよろめいて尻もちをついた。
鋭い警笛を鳴らし、急ブレーキをかけながら快速電車が通過していく。
途端に周囲の景色が見えてきた。
「お前! 何やってんだ!」
そばに居たおじさんが怒鳴る。
世界から音が戻った。尻餅をついたところが痛い。ざわめきに急に恥ずかしくなる。僕はなんてことをしようとしたんだ。
「大丈夫?」
若いサラリーマン風の男性が立ち上がれるように手を伸ばしてくれた。
「中学生? ……じゃないな、その制服は市立第三高校の子だね」
腰が抜けた僕はその手を取ろうとして、いつの間にか掴んでいた茶色の毛玉に気が付いた。
□□
体調が悪かったからとウソをついてその場を逃げ出し、駅近くの公園に移動した僕は、隠れるように木陰に座り込んでいた。セミがうるさい。
朝の通学時間だ。そんな時間帯に公園で遊んでいる人は誰もいない。
いつの間にか掴んでいた茶色の毛玉と思っていたモノは、クマのようでいて何かよくわからない奇妙な姿のぬいぐるみだった。口元がネコで耳がウサギ。
サイズは手のひらよりも少し大きくて掴み心地はよい。
『やあ。すまないが少し話をさせてくれまいか』
「うわあああああああ!!!!」
毛玉が喋った! ぬいぐるみが喋った!!
思わず投げ捨てる。気持ち悪い!
クマもどきのぬいぐるみは投げつけられた地面にすくっと立ち上がると、
『なかなか凶暴だな』
砂まみれのまま、低音ボイスで僕に話しかけてきた。表情がまったく変わらないのがさらに薄気味悪い。
『被験者の第一次接触反応のなかでは、まだおとなし――』
声も出せずへたり込んだまま後退りをしていると、フワフワと宙に浮かんでいたそいつは僕の目の前にあっさりたどり着いた。
ダメだ……逃げられない。
『危害は与えないので、どうか話をさせてくれまいか』
落ち着いた男の声で語りかけてくるクマもどきぬいぐるみ。
これは夢か?
ひょっとして僕はあの時、無事に一歩を踏み出し、走馬灯を見ているのかもしれない。
『君は人生をやり直したいか?』
どうしよう。頭がパニックだ。僕が自分自身で嫌な部分だ。いろいろと考えてしまって何もできなくなる。
そんな僕だったが、『やり直したいか』という言葉に惹きつけられた。
思わず、頷いてしまった。
ぬいぐるみは手を顔に当ててしばらくすると、
『よろしい。ではまず左手を上げてくれたまえ』
そんなことを言い出した。
言われるままに左手を上げる。
『ちゃんとできるじゃあないか。では右手を握りしめて、開いてみたまえ』
いったい何をさせたいのだろう。言われるがままにしてみる。
『うむ。いい感じだ。それをゆっくり繰り返してみたまえ』
グー、パーをしているうちに……不思議と落ち着いてきた。
『落ち着いたかね? パニックになっているときは、まず簡単にできる事をさせるのだ』
まだ涼しい朝の風が僕の汗を乾かしていく。
冷静になったと同時に、今のことで信用できるのではないかという気持ちになってきた。異常事態に少し慣れてきたのかもしれない。
『私は、君たちが言うところの異星人という存在だ。私は原生生物の生物行動学――失礼、心理学の研究者をしている』
クマもどきのぬいぐるみが眉ひとつ動かさずに話しかけてきた。眉毛はないけど。
『では、あらためて』
クマもどきぬいぐるみは地面に降り立つと、
『パンパカパーン、おめでとうございます』
抑揚のない渋い声で、まるで決まっているセリフかのように宣言した。
『君には人生をやり直したいと思う瞬間はあるだろうか』
小学生の時の遠足、中学の入学式、美弥子ちゃんの苦笑いした顔、高校1年の秋から始まったアイツらの嫌がらせ……あの時、あんなことをしなければ……頭をよぎる。
うじうじ悩んで、その結果にまた悩む。高校2年生でもう後悔ばかりだ。ずっとこんな人生なのかと思うと情けなくなってくる。
『世界線、という概念はわかるだろうか?』
「世界線?」
『そうだ。君たちが存在している時間と空間は1本の連続帯なのだ。それが世界線だ。世界線を進んでいると、選択ができる瞬間が来る。そこで選んだ分岐によって別の世界線に移動するのだよ』
ぬいぐるみが枝を拾って、トテトテと地面に図を書き始めた。
『世界線はたくさん準備されている。分岐のたびに決められた線のどれを選ぶか……世界は、人生はそのように決められた世界線のどれを選ぶかの繰り返しで進んでいく』
地面に書いた線を何本も分岐させる。
『私たちは技術によりその分岐点を記録して世界線の管理ができるようになった』
「人生の選択のタイミングからやり直しができるってこと?」
『そうだ』
「そんなことできるの?」
『できる。君にそれを提供しよう』
現実とは思えない話だ。いきなりの話で戸惑っていると、
『私たちの研究の手伝いをしてもらいたいのだ。正直に言おう。地球人の行動を観察したい。君たちがどういう世界を望んでいる種族なのか。被験者として100万人を選んだ。君はそのうちの一人だ』
いったいどんなファンタジーSFなんだろう。
しかし、こうやってぬいぐるみが喋っているんだ。信じないと僕の頭がおかしくなっていることになる。それはもっと認めたくない。
「僕は何をすればいいの?」
『普通に生活してくれたまえ。君があの時に戻りたいと思ったら教えてくれればいい』
「分岐ポイントにしたい時にお願いすればいいんだね」
『うむ。分岐ポイントは、一人当たり3か所を記録できるようにした』
「ゲームでいうセーブスロットってこと?」
『そうだ。分岐の3か所、一人当たり8本の世界線を留めておくことができるわけだな』
「そんなに?」
『地球人の個人の世界線はたかだか100年程度だ。それを記録保存すればいいだけだからな。100万人分として800万本の世界線ですむ』
ぬいぐるみが顔に手を当てている。どうやら考え事をするときのクセなのだろうか。
『毎日、日記をつけたまえ』
僕はカバンの中から新品のノートを取り出した。新学期なので準備していたものだ。
『選択に悩む事件があればそこに記録しておくといい。君が希望すればその分岐点に戻すようにしてあげよう』
相変わらず表情の見えないぬいぐるみだ。
『私のことを信じてくれたかい?』
「まだ半信半疑だけどね」
『無理もない。君たちの感覚では長い付き合いになるだろう。お互いに呼び方を決めておくほうがよいだろうな』
「そうだね。僕の名前は、大和 武蔵。親しい人からは、“むーさん”と呼ばれてるよ」
僕は自分の名前が嫌いなので、前もって予防線を張った。名前負けしていて呼ばれるのが本当に嫌なのだ。
ぬいぐるみは顔に手を当ててしばらくすると顔を上げた。
『私のことは……“レトロニム”と呼んでくれたまえ。君たちの言葉のなかから興味深いこの単語を借りよう』
「レトロニウム?」
『レトロニム、だ。実に面白い概念だ』
「レト、でいいかな。呼びにくいから」
『好きに呼んでくれたまえ。君と会話がしやすいようにするためだけの符号だ』
レトはそういうと僕の肩の上に乗り、開いたノートを覗き込んだ。
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2026年9月1日
レトと出会った。人生の分岐点を登録して運命をやり直しできるらしい。
【分岐ポイント 1】
→ レトを信じて実験に参加する。
レトを信じない。
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午前のまだ涼しい風が公園を通っていく。
あまりにいろんなことが起きたこともあり疲れていたのだろう。そこまでをノートに書くと僕はウトウトし始め、意識が遠くなっていった。
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ずいぶんと長い間、寝てしまっていたらしい。僕は木の幹に寄り掛かった姿勢で目を覚ました。
そうだ。僕は電車に飛び込もうとして、クマもどきのぬいぐるみ姿の異星人、レトロニムと出会い、人生をやり直せる実験に参加したんだった。
『やあ、むーさん。目が覚めたのかね』
鈴を振るような声がする。このしゃべり方はレトだな。僕のことを“むーさん”と呼ぶ人は自慢じゃないが数少ない。
「レト?」
目の前に銀髪のロングヘアが美しい、小さな妖精が浮いていた。
「え、誰?」
『私だが?』
「私?」
小さいながら人形のように整った顔が僕を見つめると、額に指を当てるポーズをして、
『なるほど……その様子からすると、“まだ”なのだね』
『私はレトだよ』





