4-16 霧の都の郵便配達人
「届かなくてよい手紙など、存在しない」
そう信じる郵便配達人チャーリーは、今日も手紙を片手に街を駆ける。
手紙が運ぶものは人の思いだけではない。ときに秘密や犯罪までも運んでくる。新聞売りの友人ダンとともに郵便にまつわる謎を追ううちに、チャーリーはロンドンの闇へ踏みこんでいく——!
火照った重い体で木製の扉を押し開けると、汗と酒の混じった熱気が押し寄せた。〈煙と酒〉は今日もやかましい。
チャーリーは店の奥に目をやってからカウンターへ近づいた。奥で騒いでいるのは、テムズ川近くにある醸造所で働く男たちだ。チャーリーが口を開くよりも先に、パイントグラスが置かれ、液が跳ねる。使いこまれて艶の出たカウンターに染みが広がった。
チャーリーはポケットから取り出した硬貨と引き替えにグラスを受け取った。ぬるいエールで口を湿らせ、カウンターの左端へ移動する。一人で座っている男の横に、断りもなく腰を下ろす。
「えらく仕事熱心だな」
「君と違って固定給だけどね」
挨拶代わりに、たっぷり皮肉のこめられたダンの言葉には苦笑するしかない。
街を歩けば、いたるところに赤い郵便ポストが立っている。たった一ペニーで連合王国内すべての場所に、誰でも簡単に手紙を送れるようになった。ロンドンからエディンバラまで鉄道郵便が走るようになった今でさえ、最終的に手紙を人の手に届けるのは、チャーリーたち郵便配達人だ。日に十二度の配達を終えた頃には、さすがに足も重い。今日は人手不足で別の地区まで回ったのでなおさらだった。
ダンの声色から察するに、今日の実入りは良かったのだろう。彼は路上で新聞を売っているが、稼ぎの多くは副業から来ているとチャーリーは踏んでいる。面と向かって確かめたことはない。
チャーリーが目顔で問うと、ダンは店の奥を顎で示した。その先にいるのは醸造所の男たちだ。ダンはペニー銅貨を天井に向かって投げ、空中で得意げに掴んでみせた。何かと理由をつけて、彼らに高値で買わせたに違いない。チャーリーは頭を抱えた。「君ってやつは」
「悪いな。そういうわけで、今日は完売なんだ」
悪びれもせず、よくもそんなことを言う。チャーリーが赤ら顔の男たちを見ていると、そのうちの一人が空いた酒樽の上に足をのせた。
「俺がメアリーと一緒になれたのは、あの英雄のおかげなんだ!」
野太い雄叫びをあげたのは、知人のマシューだ。周りの男たちが囃し立てる様子に、チャーリーは体をこわばらせた。
「そろそろ帰るとするよ。人使いの荒い上の人間のせいで疲れてるんだ。君とは違ってね」
チャーリーが立ち上がろうとすると、ダンは面白がるような顔を向けてくる。
「君だって手伝ってくれたじゃないか」
副業の件を匂わせてみたが、ダンは薄笑いを浮かべるばかりだ。仕事がやりづらくなるからなのか、ダンは自分の名前を出すなと言う。信用されているのか、舐められているのか。いずれにしても、チャーリーはダンを裏切れない。できることといえば、マシューたちに絡まれる前に退散することくらいである。
チャーリーが店の奥にある階段へ向かおうとすると、背中から声がかけられた。
「いるじゃないか、チャールズ・クラーク!」
見つかってしまった以上、諦めて振り返るより他ない。
「やあ、マシュー。君も来ていたんだね」
さも今気づいたように告げ、「じゃあ」と笑って立ち去ろうとしたが、大柄なマシューはチャーリーの肩を両手で掴んで離さない。泣き上戸の彼の顔はすでに濡れていた。チャーリーは天を仰いでみたが、年季の入った天井が見えるばかりだ。
「兄弟よ、俺とメアリーが再会できたのは、本当に君のおかげなんだ。これ以上の幸せはない。ありがとう」
マシューに渾身の力で抱きしめられるのは、すでに五回目のことである。息苦しさからようやく解放され、チャーリーは頭をかいた。
封筒に書かれている住所が間違っていたり、判読できなかったりすることは茶飯事だ。マシューの件はよくあることではないが、チャーリーとしてはそれほど特別なことではない。
「僕は届けただけだよ。届く手紙があったから届いたんだ」
一ヶ月ほど前、チャーリーは酔って泣くマシューから幼なじみの話を聞かされた。互いに居所を転々としていたせいで、メアリーとは長らく連絡が取れずにいたらしい。手紙を出すにも「ロンドン」としか書けなかった彼女の一通は、五百万もの人であふれかえるこの街で、各支局に振り分けられることなく郵便局の奥深くに眠ることになる。
チャーリーは中央局に掛け合ったが、まともに取り合ってもらえなかった。それならばと、チャーリー自身が探すことにした。
言うは易し、行うは難し。手紙の中身を見ることは許されない。膨大な手紙の中から、宛先だけを頼りに、存在するかどうかもわからない一通を探し出す。ダンの力を借り、マシューから聞いた断片的な情報をもとに、メアリーの居住地を絞りこんだ。
届かなくてよい手紙など、存在しない。手紙は届けられなければならない。チャーリーはマシューを信じた。メアリーを信じた。そして、手紙は存在した。
「さあ、飲もう。俺のおごりだ」
「いや、もう帰ろうかと」
チャーリーの抵抗など無いも同然だった。すでに両腕はマシューの仲間たちに掴まれている。半ば引きずられながら恨みがましく首をねじると、視界の隅でダンが肩を揺らしていた。
*
チャーリーは、肩から提げた革鞄から最後の一通を取り出した。その宛名を見て、思わず眉が寄る。昨晩の酒はまだ抜けきっておらず、頭が鈍く痛んだ。
その元凶となった〈煙と酒〉の一階を窓からのぞいたが、人の姿はなく、ひっそりとしている。元々は駅馬車宿だったらしく、〈煙と酒〉の建物自体は立派なものだ。中庭を取り囲むように回廊式のベランダが配置され、昔はさぞかし賑わったことだろう。今となっては二階を賑わせているのは、チャーリーやダンのような下宿人ばかりである。パブが一階にあるせいで、夜は眠れたものではない。格安の家賃はそのためだ。
薄暗い通路を進むと、予想通り、パブの看板娘、エリンの姿が中庭にあった。エリンは空き部屋のベランダを繋ぐようにロープを張り、洗濯物を干している。チャーリーが土を踏む音に、エリンは振り返った。
「あら、郵便屋さんじゃない。お仕事ご苦労さま」
エリンは他人行儀に言う。つられてチャーリーも自分の格好を見下ろした。前開きのコートも、その下に着たベストやズボンも濃紺だ。袖だけが炎のように赤く、目立っている。仕事着姿を見られるのは、どこか居心地が悪い。前面に小さな目庇のついた帽子に手をやり、位置を整える。
「気分はどう」エリンの問いに、チャーリーは顔をしかめて答えた。
「最高だよ。頭痛さえなければね」
エリンは声を立てて笑ってから、「ダンに感謝しなさいよ」と言う。彼女はタオルをロープに掛けながら続けた。
「酔いつぶれたチャーリーを、ダンが部屋まで送ってくれたんだから」
思わずうめき声が漏れる。途中からの記憶は飛んでいたが、今朝目覚めたときは自室だった。しばらくは新聞を高値で売りつけられても文句は言えまい。
「こんなところで油を売ってる暇はあるのかい。聞いたよ、遅れたら苦情が入るんだってね」
週給を減らされては払う家賃も払えなくなる。チャーリーは咳払いをして手に持っていた白い封筒をエリンに差し出した。
「これも仕事なんだな」
「あら、わたし宛てかい」
何の変哲もない封筒である。その右上には、女王の横顔を描いた切手が貼られている。使用済みであることを示す消印が押され、書かれた住所は紛れもなくこの場所のものだ。問題は、その宛名である。
「『〈煙と酒〉のヴィクトリア嬢』へ」
チャーリーが読み上げると、エリンは表情を曇らせた。
「念のため聞いておくけど、君、名前は」
「どうやらアルコールで頭が溶けたみたいね」
エリンは蔑むように目を細め、封筒をチャーリーの手に戻した。チャーリーは続けて尋ねる。
「大家さんは」
「違うね」
「新しい下宿人」
「善良な借り手がいるなら紹介してほしいわ」エリンは肩をすくめて言う。
「やっぱりそうだよなあ」
想像通りの答えに、チャーリーは大きく息を吐き出した。
チャーリー、ダン、その他の下宿人が暮らす〈煙と酒〉。この場所にヴィクトリア嬢は存在しない。エリンに尋ねたのは確認のためにすぎなかった。
「郵便配達人チャールズ・クラークの出番みたいね」
エリンは目配せをして、背を向けた。
どうやら今日の配達も一筋縄ではいかないらしい。





