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第九話 根の国

 宮殿に、入った。


 一歩、踏み込んだ瞬間——嵐が、消えた。


 産まれてから一度も止まなかった嵐が、消えた。完全に。周りに風がない。雲が渦巻かない。足元の地面がえぐれない。


 静かだ。


 ……こんなに静かなのは、初めてだ。


 自分の足音が聞こえた。左足。右足。こつ、こつ。こんな音を出して歩いていたのか。嵐があると聞こえなかった。俺の足音を、俺は今まで一度も聞いたことがなかった。


     *


 宮殿の内部は、生きていた。


 壁が呼吸している。骨が格子状に組まれていて、その隙間に何か粘性のあるものが詰まっている。それが、ゆっくりと収縮を繰り返していた。呼吸のリズムで。


 父がここに来たとき、きっと怖かったんだろうと思った。


 俺は——不思議だった。怖くなかった。建物が生きている。それが、ただ、不思議だった。


 床は黒い髪で覆われていた。母の髪だ。部屋じゅうに広がっている。踏まないことは不可能だった。


 一歩、踏んだ。髪が、わずかに縮んだ。


 痛がっているのではない、と思った。触れられたことを、知っている。そういう反応だ。俺の足を、認識している。


 息子の足を、知っている。


 ……変な話だが、嬉しかった。


     *


 遠くに、母がいた。


 大きかった。想像より、ずっと大きかった。座った状態で天井に届きそうなほど。


 近づくにつれ、細部が見えてくる。


 右腕。白い肌。きれいだ。けれど、内側に黒い脈管が走っていて、ゆっくりと動いている。


 左腕。炎に包まれていた。固まった炎。動かない。紅と橙と金が混じった色だけが鮮やかで、その奥に黒い骨が透けている。


 父が言っていたのは、こういうことか。「きれいだった」と。


 腹。透けた皮膚の向こうで、小さな火の粒が漂っていた。蛍みたいだった。一つ一つが微かに光って、暗い体内をゆっくりと巡っている。


 カグツチの残り火。俺を産んだ母を焼いた炎が、まだここにある。


 足。膝から下が地面に溶けて、根のように繊維が延びていた。黄泉に根を張っている。


 全部が壊れていて、全部がきれいだった。


 父が声を上げたのが、わかった。きれいだと思ったからだ。きれいすぎて、声が出たんだ。


 俺も——声が出そうになった。けれど、出なかった。代わりに、涙が出た。


 嵐は来なかった。ここでは、嵐は来ないらしい。


     *


 顔が——見えた。


 俺と母は、今、初めて会う。だから俺には、「変わった」も「生前と違う」もない。これが、最初の母の顔だ。


 美しい顔だった。生きている美しさではない。眠っているような静けさ。感情が表面に出ていない顔。


 けれど——目が、開いた。


 俺を見た。


 その目に宿っているものは、悲しみでも怒りでもなかった。


 「おまえが来た」という認識だった。


「……母上」


 母の口が、動いた。


「——来た」


 声にならない言葉。けれど、唇の形が、はっきり読めた。「来た」。ただ、それだけ。


 それだけで——十分だった。


挿絵(By みてみん)

     *


「一つだけ聞いていいか」


 母の目が、俺を見ている。


「なぜ——入れた。父は見てはいけないと言われたのに。なぜ俺は入れた」


 母が、少し間を置いた。


「——おまえの父が見たものを。おまえには——見せてもいい」


「……それは、どういう意味だ」


「父は——禁じられていたのに見た。おまえは——入れと言われて入った。その違いだ」


 許されたか、禁じられたか。見たものは同じ。見る行為も同じ。違うのは——許しがあったか、なかったか。


「……俺が見ても、傷つかないのか」


 母は、少し間を置いて言った。


「傷つく」


「——傷つく?」


「見ることは——常に、傷つける。しかし——許された傷と、禁じられた傷は、違う」


 俺は考えた。父の傷は、禁じられた傷だった。だから声が出た。だから黄泉が動いた。だから逃げなければならなかった。


「俺の傷は——許された傷か」


「——おまえが決めることだ。私が決めることではない」


     *


「黄泉は——罰の場所か」


 聞いてみた。暗くて、死者がいて、帰れない。罰みたいに見える。


「生きている者には——そう見えるか」


「……見える」


「黄泉は——罰の場所ではない。終わりの場所でもない」


「では何の場所だ」


「——待つ場所だ」


「何を待つ」


「次を——待つ。次に産まれるものを、待つ」


 俺は黙った。死は終わりではなく、次への待機。ここにいる者たちは、また産まれる前の静かな時間を過ごしている。


 暗いのは、眠っているからか。


「……ならばなぜ帰れない」


「帰れないのではない」


「父は帰れなかったと——」


「父は——見てしまったから。見ることで、つながった。つながったものは切れない」


「……父は帰ってきたのに」


「つながったまま——帰った。父の左目に黄泉が残った。それが代償だった」


 父の左目。暗かった。あの暗さは、黄泉とつながっていた証だった。そして禊で洗い落とされたとき——俺たちが産まれた。黄泉の匂いを持って。


「……俺はつながるか。母上を見たから」


「見ることを——許したから。許された見ることは——つながらない」


「……父が許されていたら」


 母は、非常に静かに言った。


「——そうだったら——よかった」


     *


「一つ教えてくれ」


「何だ」


「父が——口の形を読んだと言っていた。『見ないで』とも『見て』とも見えた、と。どちらだったか」


 長い沈黙。


「——両方だ」


「……両方?」


「見ないでほしかった。見てほしくなかった。しかし——見てほしかった。見てほしかった、それも本当だ」


 矛盾が、両方とも本当だった。


「だから『見ないで』と言い、だから『見て』と見えた。どちらも嘘ではなかった」


「……父は声を上げた。それは——きれいだと思ったからか」


「——そうかもしれない」


「それはよかったのか。悪かったのか」


「……わからない。ただ——声が聞こえた。声が聞こえたことは、確かだ」


 俺は、母の顔を見た。その目に、かすかに——何かが揺れた。感情のようなもの。


 父が見たとき、この目は何を映していたのだろう。


     *


 しばらく、二柱は静かにいた。言葉なく。ただ同じ空間にいた。


 それだけで、俺には十分だった。会いたかった。会えた。それだけでいい。


 母が口を開いた。


「宮殿を——見てもいい」


「……いいのか」


「おまえには許した。好きなだけ見ろ」


 俺は立ち上がって、宮殿を歩いた。父がかつて歩いた場所と同じ場所。けれど、俺には怖くなかった。不思議で、美しい場所として見ていた。


 宮殿の奥で——気配がした。母とは違う、小さな気配。


 何かがいる。


     *


 廊下の角から、それは出てきた。


 子供の形をした、何か。目がない。笑っている。手に、黒い炎を灯した蝋燭。


「——こんにちは」


 俺は反射的に答えた。


「……こんにちは」


 それから、少し間を置いて。


「……おまえは何だ」


「ヒサメといいます」


「宮殿の者か」


「そのようなものです」


 目がないのに笑っている。不気味なはずだ。なのに——


 懐かしかった。


 会ったことがない。知らない。なのに、体の奥で、知っている気がする。黄泉の匂いと同じだ。記憶ではなく、もっと深いところで。


「……俺の父を知っているか」


「知っています。ここを通りました。強い方でした」


「父の案内をしたのか」


「そのようなものです」


「……おまえは何のためにここにいる」


「黄泉のために——います」


「黄泉のために?」


「そうです。それだけです」


 黄泉のために。その言葉が引っかかった。黄泉の「ために」いる、とは、どういう意味だ。


「……おまえは何だ。本当に」


 ヒサメは、笑顔のまま答えた。


「——後でわかります」


     *


 母のところへ戻った。


「……ヒサメという子に会った」


「——会ったか」


「父の案内をしたと言っていた」


「そうだ」


「あの子は何だ」


 母は、少し間を置いた。


「——後でわかる」


 ヒサメと同じ答えだった。二人とも「後でわかる」と言う。つながっている。あの子と母が。


「……また来ていいか」


 母が、俺を見た。その目に、何かがあった。感情ではない。けれど、確かに何かがあった。


「——また来い」


 短く。確かに。


     *


「一つだけ聞いていいか」


「何だ」


「父が帰るとき、何か言ったか」


 母は少し間を置いた。


「……『また、いつか』と言った」


「……俺も、同じことを言おうとしていた」


「——そうか」


「父の言葉か。それとも」


「——おまえの言葉だ。同じ言葉でも、おまえが言えば、おまえの言葉だ」


 俺は立ち上がった。扉の方向を向く。帰る方向を向く。


「——また、いつか」


 その言葉が、宮殿に響いた。


 母が——俺を見ていた。その目に、初めて、感情のようなものが見えた。悲しみではない。安堵でもない。何か別のもの。「また来る」ということへの、何かが。


「——また、いつか」


 母が、非常に小さく、そう言った。


     *


 扉の前に、ヒサメが待っていた。どこにもいなかったのに、いつの間にか。


「帰りますか」


「……どこにいたんだ」


「ここにいました。ずっと」


 ヒサメが歩き出し、俺がついていく。父もこうして、この子について歩いたのだろう。


「……父はどんな様子だった」


「強かった。傷ついていたが、強かった」


「傷ついていたか」


「黄泉は生きている者を傷つけます。おまえ様は傷つきませんでしたか」


 少し考えた。


「……傷ついたかもしれない。しかし——傷つく前に、満たされた」


「——よかったです」


 よかった、と言う。母も、父に「よかった」と言ったと聞いた。この子も「よかった」と言う。


     *


 黄泉比良坂。父がかつて全力で駆け上がった坂。俺はこれを、ゆっくり登る。


 ヒサメが坂の前で止まった。


「ここまでです」


「ここから一人か」


「はい」


「……父はここで走って登ったらしいな」


「はい。全力で」


「俺はゆっくり登る」


「なぜですか」


「急ぐ理由がない。父は追われていたから走った。俺は追われていない」


「——そうですね」


 登り始めた。一歩ずつ。確実に。振り返ると、坂の下にヒサメが立っていた。笑顔のまま、見送っている。


「——ヒサメ」


「はい」


「……また来る」


 ヒサメが、笑顔のまま——笑顔の質が、ほんの少し変わった。


「——お待ちしています」


     *


 坂を登るにつれ、嵐が戻り始めた。


 地上が近づくと、嵐が戻ってくる。けれど——今の嵐は違った。


 悲しみの嵐ではない。


 何の嵐だ。


 考えて、答えに行き着いた。


 また来たい。また会いたい。


 それが、この嵐だ。


 悲しみが「渇望」に変わった。嵐は消えなかった。けれど、意味が変わった。壊す嵐から、求める嵐に。


     *


 地上に出た。


 空がある。月が出ている。ツクヨミの光だ。


 ……おまえの光が見えるぞ、ツクヨミ。俺は帰ってきた。


 遠くにアマテラスの光が見えた。高天原の方向から。


 嵐がその方向に小さく吹いた。「大丈夫だ」という風が、姉上に向かった。


 高天原の境界に着くと、姉上が待っていた。


「——帰ったか」


「帰った」


「……変わったな」


「そうか」


「嵐が穏やかだ」


「……悲しみが消えた」


「会えたのか」


「——会えた」


「……よかった」


「姉上もよかったと言うか」


「当然だ」


 俺は少し笑った。嵐は来なかった。


「……姉上。一つ聞いてもいいか」


「何だ」


「黄泉で——ヒサメという子に会った。会ったことがないのに、懐かしかった」


 姉上が、少し考えた。


「懐かしい——?」


「会ったことがないのに、懐かしい。母の匂いを知っているのと、同じように」


 姉上の目が——何かを捉えた。


「……スサノオ」


「何だ」


「黄泉は——何のために存在するか、知っているか」


 俺は答えられなかった。


 姉上は、空を見上げた。月を見た。それから——遠くの、地の底の方向を見た。


 何かを、考えている。


ご拝読いただきありがとうございました!

作者のモチベアップのために少しのお手間ですが、ご協力いただけると大変ありがたいです!


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