第十話 意志
「黄泉は何のために存在するか、知っているか」
姉上がそう問いかけて、俺は答えられなかった。
高天原の境界。姉上が腕を組んで考えている。ツクヨミは少し離れた場所で、黙って月を見ている。
「母上は言っていた。黄泉は待つ場所だ、と」
「ああ。次に産まれるものを待つ場所だ、と」
「待つということは——黄泉はずっとあったということだ。母上が来る前から」
……そうか。俺は考えたこともなかった。黄泉は母が死んで生まれた場所だと思っていた。けれど、違うのか。
「黄泉はもともとあった。世界の裏側として。名前も意識もない死が、ただ暗闇に積もっていく場所として。草や木や獣が死んで、溶けて消える。泥になる。番人やヨモツシコメは、その残りかすだ」
姉上の目は、左目から産まれた目だ。父が黄泉を見た記憶が残っている。だから、見える。俺より、ずっと多くのことが。
「母上が来たことで——何が変わった」
「名前のある死者が、初めて来た。溶けずに、意識を持ったまま留まった。それで黄泉に構造ができた。宮殿も、泥の平野も、あの混沌が秩序になったのは、女王がいたからだ」
「……それで、黄泉に意志が宿った」
「たぶん。ヒサメはその意志だ。母上の分身ではなく——母上がいたから産まれた、黄泉自身の意志」
姉上の推論が、そこまで来たとき——
気配がした。
三柱の後ろから。誰もいなかったはずの場所から。
「——こんにちは」
*
振り返った。
ヒサメが、いた。黄泉の外に。高天原の近く、地上に。
笑顔のまま。蝋燭を持ったまま。黒い炎は消えている。
「——ヒサメ!」
「おひさしぶりです。スサノオ様」
「おまえがヒサメか」と姉上。
「はじめまして。アマテラス様」
「黄泉の外に出られるのか」
「出るも何も、ずっとここにいましたよ。生きている者の傍には常に死がある。だから俺は常にいる」
一人称が変わった。ずっと「私」だったのが「俺」に。その一語で、何かの仮面が外れた。
「俺は——黄泉の意志だ」
誰も動かなかった。
「イザナミ様が黄泉に来たとき、黄泉に意志が宿った。俺はそのとき産まれた。父上が降りてきたとき、俺が案内した。心の声が全部聞こえていた。全部、隣で見ていた」
ツクヨミが、静かに口を開いた。
「——月は、夜を照らす。夜のものが、見える」
それだけ言って、また黙った。見えていた。けれど言わなかった。ツクヨミはそういう奴だ。
「——父に伝えたい」と俺は言った。
「伝えに行きますか」とヒサメ。
「私も行く」と姉上。「……俺も」とツクヨミ。
四者が、同じ方向を向いた。
* * *
——ここからは、俺が語る。
俺の名はイザナギ。この話の最初の語り手だ。
川の近くにいた。禊をした、あの川。一人で座っていた。
気配がした。四つ。振り返った。
三柱と——ヒサメが来ていた。
「……ヒサメ」
「お久しぶりです。イザナギ様」
*
「父上」とスサノオが言った。「ヒサメは——黄泉の意志だ」
「……黄泉の意志」
「そうです」とヒサメ。
黄泉の意志。ならば——
「おまえはイザナミの一部なのか」
「違います」
ヒサメの笑顔は変わらない。けれど声が、少しだけ、真剣になった。
「黄泉はもともとあった場所です。あなたが世界を作る前から、世界の裏側として。名前のない死が溶けて積もるだけの暗闇でした。番人も、ヨモツシコメも、その残滓です。名前も記憶も失った、感情の塊」
「……イザナミが来て、変わった」
「はい。名前を持ったまま、意識を持ったまま留まった最初の存在。それでただの暗闇に秩序ができた。宮殿が形を持ち、番人が令に従い——そして黄泉は意志を持った。俺が産まれた」
「イザナミの分身ではなく——」
「黄泉自身の意志です。イザナミ様がいたから産まれた。けれどイザナミ様とは別のものです。だから最終話でこう言える——あなたが望んでいた、イザナミ様が望んでいた、俺も望んでいた。三つが同じ方向を向いていた、と」
三つが別々だから、三つと数えられる。一つだったら、それは一つの望みでしかない。
「……わかった。おまえはイザナミではない。おまえは黄泉だ」
「はい」
……納得した。したが——何かが、引っかかっていた。
ヒサメの顔。目のない、笑い続ける顔。あの旅のあいだ、ずっと感じていた違和感。黄泉の存在にしては——親しすぎる。知りすぎている。俺に対して、他人にしては——近すぎる。
「……一つ聞いていいか」
「何でも」
「おまえの——本当の名は、何だ」
*
ヒサメが——黙った。
こいつが黙るのは珍しい。「さあ」とはぐらかすか、「後でわかります」とかわすか、どちらかだったのに。今は——黙っている。
笑顔は消えていない。消えていないが、笑顔の奥に、何かが揺れていた。
「……名前、ですか」
「黄泉の意志が、名前を持つか。ヒサメという名は——本名か」
ヒサメが、蝋燭を持つ手を下ろした。初めて見る仕草だった。あの蝋燭をいつも掲げていたのに。
「本名では、ありません」
俺の心臓が、跳ねた。なぜだかわからない。
「俺の本当の名前は——」
ヒサメは俺を見た。目がないのに、まっすぐに見た。
「——ヒルコ」
*
世界が、止まった。
川が流れている音が、遠くなった。風が止まった。三柱が何か言ったかもしれないが、聞こえなかった。
ヒルコ。
蛭子。
俺と——イザナミの——最初の子。
*
思い出した。思い出したくなかった。けれど、思い出した。
国を産む前の話だ。俺とイザナミが、初めて子を成そうとしたとき。婚姻の儀で、イザナミが先に声をかけてしまった。俺より先に、「なんて素敵な方」と。
その順序が間違っていた——と、高天原の神々は言った。
産まれた子は、不完全だった。
骨がなかった。目がなかった。手足が定まらなかった。
俺たちは——その子を、葦の舟に乗せて、海に流した。
高天原の神々が「数に入れるな」と言ったから。失敗作だと。やり直せと。
俺は——従った。
イザナミは泣いていた。泣いていたのに、俺は従った。
……それきり、その子のことは、考えないようにしていた。
*
「……ヒルコ」
「はい」
「おまえが——あの子か」
「はい」
声が、震えていた。俺の声が。
「……流されて——どこへ行った」
「海を漂って——やがて沈みました。沈んだ先が、黄泉でした」
「……黄泉に——」
「俺は最初から、不完全でした。目がない。骨がない。生きているのか死んでいるのか、自分でもわからなかった。海に浮かんでいたときも、沈んでいたときも。ただ——暗いところに着いた。暗くて静かな場所に」
「……それが黄泉か」
「イザナミ様が来る前の黄泉です。ただの暗闇でした。名前のない死が積もっているだけの場所。俺もそこに溶けかけた——けれど溶けなかった」
「なぜ溶けなかった」
「名前があったから。あなたとイザナミ様が付けた名前——ヒルコという名前が、俺を留めた」
……名前を、付けていたのか。
そうだ。付けていた。流す前に。イザナミが、泣きながら付けた。俺は——名前を付けることに、反対しなかった。
あの名前が、この子を黄泉に留めていた。
*
「……おまえは——俺を恨んでいるか」
聞かなければならなかった。聞きたくなかった。けれど聞かなければ。
ヒサメ——いや、ヒルコは、少し考えた。
「恨む、という感情を——俺は持っていません」
「……持っていない?」
「産まれたとき、感情が不完全だった。目がないように、感情も欠けていた。だから恨めない。恨み方を——知らない」
……それは——
それは、救いなのか。それとも、もっとひどいことなのか。
恨むことすらできない子を、俺は流した。
「ただ」とヒルコは続けた。「会いたかった。それだけは、あった」
「……会いたかった」
「ずっと暗闇にいて——誰かに会いたかった。それが唯一、俺にあった感情でした。やがてイザナミ様が来た。母だとわかった。母が来て、黄泉に構造ができて、俺は意志になった。次に来るのは父だと思った。だから——待っていた」
「……俺を待っていたのか」
「はい。ずっと」
ヒルコの笑顔が——あの、ずっと消えなかった笑顔が、何だったのか、わかった。
感情が不完全で、恨めなくて、泣けなくて——唯一できたのが、笑うこと。会いたい人に会えたから、笑っていた。ただ、それだけだった。
ずっと。あの旅のあいだ。ずっと。
*
「……なぜ名乗らなかった」
「名乗ったら——あなたが苦しむ」
「……」
「案内の途中で『俺はおまえが捨てた子だ』と言ったら——あなたは進めなくなる。イザナミ様に会えなくなる。だから黙っていた」
……こいつは。
こいつは——俺のために、名前を隠していたのか。捨てられた子が、捨てた親のために。
「あの旅で俺が苦しんでいるのを——隣で見ていたのか。自分が誰かも言えずに」
「心の声は全部聞こえていました。父の苦しみも、迷いも、イザナミ様への想いも。全部聞いて——全部、嬉しかった」
「……嬉しかった?」
「父の声が聞こえることが——嬉しかった。それだけです」
イザナミと、同じことを言っている。「声が聞こえてよかった」と。
親子だ。この子は——確かに、あいつの子だ。
*
「……一つだけ聞いていいか」
「何でも」
「俺が黄泉に行ったことは——正しかったのか」
ずっと問い続けた問い。
ヒルコは少し間を置いた。笑顔のまま。けれど温かさに変わった。
「——正しかった」
「根拠は」
「あなたが望んでいた。イザナミ様が望んでいた。俺も望んでいた。三つが同じ方向を向いていた。それを正しいと言わなければ、何を言う」
三つが同じ方向を。
黄泉と、イザナミと、俺が——ではなかった。
妻と、捨てた子と、俺が——同じものを望んでいた。
「……ありがとう」
「旅のあいだ、一度も言えませんでしたね」
「……心の声では何度も——」
「聞いていました。全部」
*
川辺に——五者がいた。
全員が同じ場所にいる、唯一の瞬間だった。
ツクヨミが月の光を纏い、アマテラスが暖かい光を放ち、俺が中心にいて、スサノオの穏やかな風が吹いていて、ヒルコが端で笑顔のまま蝋燭を持っている。
誰も何も言わなかった。ただ川を見ていた。
それだけで十分だった。
*
ヒルコが俺の前に来た。三柱が少し離れる。二人だけの距離に。
「——最後に一つだけ」
「何だ」
「あの旅で一番苦しかったのはどこですか」
しばらく考えた。
「——『またね』と言われたときだ」
「なぜ」
「温かかったから。温かいものに別れを告げられることが、一番苦しかった」
「——そうですか」
少し間を置いて。
「イザナミ様は——あなたの声が聞こえてよかった、と。何度も言っていました」
何度も。
俺は川を見た。目が滲んだ。涙が出た。
イザナミが死んだときも泣けなかった俺が。泣く代わりにカグツチを斬り、黄泉に降り、最初の子を流し、禁忌を破った。
今、泣いている。嵐は来なかった。俺の涙は嵐にならない。ただ静かに流れた。
*
三柱がそれぞれの方向を向き始めた。
アマテラスが去りながら振り返った。
「——父上。また来ます」
「ああ。待っている」
ツクヨミが去ろうとした。一度だけ振り返った。何も言わなかった。
……おまえはいつもそれだけだな。それで十分だ。
スサノオが最後に残った。
「——父上。母上にまた会いに行っていいか」
「ああ」
「止めないか」
「止める資格がない」
スサノオが笑った。
「——ありがとう」
穏やかな嵐が遠ざかっていく。
*
残ったのは俺とヒルコだけだった。
「……おまえも去るか」
「はい」
「どこへ」
「どこにでも。俺はどこにでもいる」
「……また会えるか」
「会っています。今も。これからも。生きている者の傍に、常に死がある。だから俺は常にいる」
「……ヒルコ」
「はい」
「もう一度だけ。おまえを流したことを——」
「父上」
ヒルコが、俺の言葉を遮った。初めてだった。あの旅のあいだ、一度も俺の言葉を遮らなかった子が。
「俺は——流されてよかった」
「……よかった?」
「流されなければ、黄泉に来なかった。黄泉に来なければ、母に会えなかった。母に会えなければ、意志にならなかった。意志にならなければ——父を案内できなかった」
笑顔が、まだそこにある。
「俺にとって、あの旅が全部でした。父の隣を歩いた——あれが、俺の人生の全部です」
*
ヒルコが——溶けていった。
消えるのではない。溶ける。空気に。風に。川の水に。世界そのものに溶けていく。
最後まで笑顔だった。
「——また、いつか」
それが、ヒルコの最後の言葉だった。
*
一人になった。
また一人だ。けれど今の一人は、前の一人とは違った。
黄泉に降りたとき、俺は本当に一人だった。失ったものだけを抱えて、帰るつもりもなく落ちていった。
今は違う。離れていても、いる。アマテラスの光。ツクヨミの月。スサノオの嵐。ヒルコが溶けた世界のどこか。イザナミが黄泉に。
*
川に向かって、声をかけた。
「——イザナミ」
誰もいない川に。
「……聞こえているか」
答えはない。けれど川は流れている。
「ヒルコに会った。大きくなっていた。……大きく、というのは違うか。あの子は最初から、大きかったのかもしれない。俺たちより、ずっと」
「スサノオがまた行く。止めなかった。子たちがよく育った。全員がおまえに向いている」
俺もおまえに向いている。ずっと向いていた。
「——また、いつか」
川が流れた。その流れが少し変わった気がした。
聞こえていたのかもしれない。聞こえていなかったのかもしれない。
どちらでもよかった。
*
使命と狂気。俺が黄泉に行ったことを、そう呼ぶ者もいるかもしれない。
けれど俺は、ただ会いたかった、と言いたい。それだけだ。それだけの旅だった。
黄泉で多くのものを見た。失ったものを確認した。けれど得たものもあった。三柱の神が産まれた。そして——流した子に、もう一度会えた。
喪失が、創造の条件だった。
正しかったのか。今でもわからない。しかし——
空を見上げる。月がある。光がある。嵐が遠くにある。ヒルコがどこかにいる。イザナミが黄泉にいる。
よかった。
それだけは確かだ。
*
川辺に、俺は立っている。夕暮れ。
最初の夜、俺は暗い方向へ向かっていた。黄泉へ。底のない闇へ。
今は川が流れる方向を見ている。
川面に自分の顔が映っている。金色の両目。傷は残っている。けれど清潔だ。
水面が揺れて——一瞬だけ、別の顔が映った。
イザナミの顔だった。穏やかな顔。
水面がまた揺れて、消えた。見間違いかもしれない。
けれど俺は、笑った。
あの夕暮れ、イザナミが俺の手に自分の手を重ねて「続きは明日にしましょう」と言ったとき以来——初めて、ちゃんと笑えた気がした。
冥府記 了
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