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第八話 嵐の神

 俺の名は、スサノオ。


 産まれたのは、さっきだ。川で産まれた。父の鼻から。……産まれ方の格好よさで言えば、姉上の「左目から光と共に」には負ける。鼻だ。鼻から、爆発して産まれた。


 それはいい。問題は、別のところにある。二つある。


 一つ目。俺は、会ったことのない女を「母」だと思っている。


 会ったことはない。顔も知らない。声も聞いたことがない。なのに——体の奥で、知っている。


 父は黄泉に降りて、あの人のいる場所で、あの人の空気を吸い続けた。黄泉の匂い。腐った果実のような甘い匂い。その空気が父の体に染み込んで、禊で洗い落とされて、俺が産まれた。


 鼻から産まれた俺の中には、黄泉の匂いが、まだ残っている。


 姉上は左目から産まれた。父がイザナミを「見た」目から。だから姉上は、教えられてもいないのに「母は黄泉にいる」と知っていた。見た記憶が、目に残っていたのだろう。


 俺は鼻から産まれた。父が黄泉の空気を最も長く、最も深く吸い込んだ器官から。だから俺は、三柱の中でいちばん、黄泉の成分が濃い。泣き続けるのも、嵐を起こすのも、たぶんそのせいだ。


 会ったことのない母を懐かしいと思う。それは記憶じゃない。匂いだ。俺の中に残っている、あの世界の匂いだ。


 二つ目。俺は今、泣きながら歩いている。


 泣きたくて泣いているわけじゃない。いや、泣きたいのかもしれない。よくわからない。産まれてからずっとこうだ。涙が出る。止め方を知らない。


 そして——泣くと、嵐が起きる。


 周りを見てくれ。木が折れている。川が溢れている。山の端が削れている。俺が一歩進むたびに、足元の土がえぐれ、空の雲が渦を巻く。


 俺は歩いているだけだ。ただ前を向いて歩いているだけなのに、俺の周りだけが、嵐になる。


 ——俺は会いに行くだけだ。なぜ嵐が起きる。


     *


 涙を拭った。


 すると——嵐が、少し弱まった。


 また泣いた。嵐が、強くなった。


 ……俺が泣くと、嵐が強くなる。涙を止めると、弱くなる。感情と嵐が、繋がっている。


 父は——感情が「形」になると言っていた。光の塊を産み出してしまうのだと。俺の場合は、形じゃなく、天気になるらしい。


 悲しいと、嵐。それが俺の体質だ。


 壊したくない。壊すつもりなんてない。でも、止められない。泣くなと言われても泣く。嵐を止めろと言われても止め方がわからない。


 どうすればいい。


 遠くに、光が見えた。高天原。姉上がいる場所。


 姉上に聞けばわかるかもしれない。嵐を止める方法を。


     *


 高天原は、光に満ちた場所だった。


 白い雲の上に浮かぶ、穏やかで、安定した世界。一歩踏み込んだだけで、空気の質が違うのがわかる。暖かい。柔らかい。ここには影すら、優しい形をしている。


 ——だったのだろう。俺が来るまでは。


 俺が高天原の境界を踏んだ瞬間、光が乱れた。雲がちぎれ、地面が揺れ、穏やかだったはずの風が唸り声を上げた。


 俺の嵐が、高天原に入ってしまった。


 まずい。まずい、まずい。


 止まれ。止まってくれ。


 ……止まらない。


     *


 神々が、俺を見て逃げ出した。悲鳴を上げて。


「嵐が——!」「敵か——!?」


 敵じゃない。俺は弟だ。ここの主の弟だ。


 叫ぼうとして、声が嵐に飲まれた。声を張り上げると、嵐も強くなる。感情を込めた声は、全部、風になってしまう。


 光の宮殿の前に、一人、立っている者がいた。


 姉上——アマテラス。


 光を纏い、風の中でも髪一筋乱れず、俺の嵐をまっすぐに見据えている。神々を背に庇って、一人で前に出ていた。


「——スサノオ」


 姉上の声は、嵐の中でもはっきり聞こえた。光が、音を運ぶみたいに。


「なぜ来た」


「——姉上」


 俺は、声を絞り出した。嵐が声を食うので、短く、一言ずつしか話せない。


「母に——会いに行く。その途中で——」


「嵐を止めろ」


「……止められない」


「止められない?」


「泣くと——嵐になる。泣くのが——止められない」


 姉上が、俺の顔を見た。その目が——少し、変わった。怒りから、別の何かに。


「……まだ泣いているのか。産まれたときから」


「……ああ」


     *


 姉上は、俺を高天原の中に通した。嵐ごと。


 神々は反対した。当然だ。嵐を連れた弟を、光の国に入れるなんて。


「——私が判断する」


 姉上がそう言うと、誰も逆らえなかった。言葉一つで、武装した神々が止まる。……姉上は、怖い人だ。


 高天原の奥に、俺は通された。けれど——俺が歩くたびに、嵐が周囲を壊していく。


 花が散った。屋根が飛んだ。田んぼの水が溢れた。


 俺は手で口を押さえた。息を殺せば嵐が弱まるかと思ったが、効果はなかった。嵐は呼吸ではなく、感情から来ている。感情を止めない限り、嵐は止まらない。


 そして俺には、感情を止める方法がわからない。


 父ならできるのだろう。あの人は、感情を表に出さない。川辺で俺たちと話していたときも、どこか遠くを見ているような目をしていた。感情を持っていないんじゃない。持っているのに、出さない。


 俺にはできない。閉じ方を、知らない。


     *


 姉上が俺を連れていったのは、高天原の中心にある、機織りの宮だった。神々が布を織っている。光で出来た糸を使って、世界の秩序を形にする場所だと、姉上は言った。


「ここで待て。嵐を鎮める方法を、考える」


「……ああ」


 俺は隅に座った。できるだけ小さくなって。嵐を抑えようとした。


 少しだけ、落ち着いた。姉上が近くにいるから、かもしれない。光が、嵐を和らげている。


 けれど——母のことを考えた。


 会ったことのない母。黄泉にいる母。父が「見てはいけない」と言った母。


 会いたい。


 その気持ちが溢れた瞬間——嵐が、爆発した。


 機織りの宮の屋根が、吹き飛んだ。


 光の糸が千切れ、織り機が壊れ、中にいた神々が悲鳴を上げて逃げ惑う。一柱の女神が、飛んできた破片で傷を負った。血が、光の床に散った。


「——っ!」


 俺は立ち上がった。違う。やったんじゃない。やろうとしたんじゃない。


 けれど——結果は同じだった。


 壊した。俺の嵐が、壊した。


     *


 神々の目が、変わった。


 さっきまでは恐怖だった。嵐が怖い、という恐怖。


 今は——怒りだ。


「——出ろ」「出て行け」「高天原を壊す気か」


 違う。壊す気なんてない。俺は——ただ——


「スサノオ」


 姉上の声だった。静かだった。けれど、これまでで一番、冷たかった。


「……わざとではないのは、わかる」


「姉上——」


「わかる。わかるが——おまえがいる限り、ここは壊れ続ける」


 俺は、何も言えなかった。


「おまえの悲しみは、おまえのものだ。それを責める気はない。だが——その悲しみは、ここでは暴力になる」


 父は——黄泉で何を言われたのだろう。「見てはいけないものを見た」とだけ聞いた。おまえの悲しみがここでは暴力になる、と姉上は言った。父も、同じようなことを言われたのかもしれない。


 俺の場合は、「泣くこと」が暴力だ。


 泣くなと言われたら——俺は、何もできなくなる。


     *


 傷ついた女神が、機織りの宮の跡で泣いていた。


 俺が泣かせた。俺の涙が、別の誰かの涙になった。


 その光景を見たとき——俺の中で、何かが、弾けた。


 悲しかったのか。悔しかったのか。怒りだったのか。自分でもわからない。ただ、全部が一度に溢れ出して——


 嵐が、さらに大きくなった。


 高天原の田が、根こそぎ剥がれた。光の柱が何本も折れた。空の色が変わった。白く穏やかだった空が、黒い雲に覆われていく。


 俺の嵐が、高天原の空を、食っている。


「——もう、いい」


 姉上の声が、聞こえた。


 振り向くと——姉上が、立っていた。光が、弱くなっていた。いつも眩しいほどだった姉上の光が、曇っている。


「もう、いい」と、姉上はもう一度言った。


 その声には、怒りもなかった。悲しみすら、薄かった。ただ——疲れていた。


「私が——退く」


     *


 姉上が歩き出した。


 高天原の奥へ。光の宮殿を通り過ぎて、さらに奥へ。


 神々が追いかけた。俺も追おうとした。


「来るな」


 一言で止められた。


 姉上は——山の奥にある、巨大な岩戸の前で立ち止まった。


 天岩戸。


 見たことはない。けれど、名前は知っていた。産まれたときから知っていた。この扉の向こうに入ったら、出てこないための場所だと。


「姉上——待ってくれ」


「待たない」


「俺が出ていく。高天原から出ていく。だから——」


「遅い」


 姉上は振り返らなかった。


「おまえが出ていっても——壊れたものは、戻らない」


 岩戸が、開いた。姉上が、中に入った。岩戸が、閉まった。


挿絵(By みてみん)

     *


 光が、消えた。


 姉上が岩戸に隠れた瞬間——高天原から、光が消えた。


 それだけじゃない。


 空から、光が消えた。太陽が——消えた。アマテラスは太陽そのものだった。太陽が隠れた。


 高天原だけじゃない。地上も。海も。世界全体が、闇に落ちた。


 真っ暗だった。


 黄泉みたいだ——と思って、背筋が凍った。


 俺がやったのか。俺の嵐が、姉上を追い込んで、世界を闇にしたのか。


 母に会いたかっただけだ。泣くことしかできなかっただけだ。嵐は俺が起こしたくて起こしたんじゃない。


 でも——結果は、同じだ。


     *


 闇の中で、神々の声が聞こえた。


「アマテラスさまが——」「光が——」「世界が——」


 そして——俺を指す声。


「スサノオが——」「スサノオのせいだ——」「あの嵐が——」


 俺は、天岩戸の前に座り込んだ。嵐は——止まっていた。


 泣けなくなっていた。初めて。産まれてから初めて、涙が出なかった。


 悲しすぎると、涙は出ないらしい。嵐も、止む。


 皮肉だ。泣けなくなったら嵐が止む。俺が壊れたら、世界は静かになる。


 俺は岩戸に手を当てた。冷たい。


「姉上」


 返事はなかった。


「……出てきてくれ」


 返事はなかった。


「俺が——出ていく。この世界から。高天原から。どこへでも行く。だから——」


 返事は、なかった。


     *


 闇が続いた。


 どれくらい経ったのか、わからない。黄泉に昼夜がなかったように、太陽のない世界にも昼夜がない。


 俺は岩戸の前から動けなかった。動いたら、もう姉上に謝れなくなる気がした。


 そのあいだに、神々が集まっていた。


 八百万(やおよろず)の神が、天安河原(あめのやすかわら)に集まって、相談している。闇の中で、小さな光を持ち寄って。


 俺は呼ばれなかった。当然だ。


 けれど——聞こえた。神々の声が。


「どうすれば、アマテラスさまは出てきてくださるか」


「無理に開ければいい」と言った神がいた。


「開けてどうする。光は力ではない。力で連れ出しても、光は戻らない」と、別の神が返した。


 それは——正しい、と思った。


 父が黄泉で学んだことと、同じだ。力ずくでは、取り戻せない。


     *


 知恵の神オモイカネが、策を出した。


「——外を、にぎやかにする」


「にぎやか?」


「岩戸の中から聞こえるほど、にぎやかに。楽しそうに。アマテラスさまが『何をしているのだろう』と思うほどに」


「……太陽が消えたのに、楽しくしろと?」


「楽しいふりをするのではない。本当に楽しいことを、する」


 俺は暗闇の中で、その言葉を聞いていた。


 楽しいことを。世界が闇に落ちているのに。俺のせいで闇になったのに。


     *


 アメノウズメという女神が、岩戸の前に立った。


 桶を伏せて、その上に乗った。足を踏み鳴らし始める。


 最初は、ただのリズムだった。暗闇の中で、こつ、こつ、と響く音。


 やがて——踊り出した。


 俺はそれを、少し離れた場所から見ていた。暗闇の中で、小さな光を纏った女神が、桶の上で踊っている。最初はぎこちなかったのが、だんだん、激しくなっていく。着物がはだけるのも構わず、足が速くなり、声が上がる。


 神々が——笑い始めた。


 闇の中で。世界が終わりかけているのに。笑っている。


 アメノウズメの踊りは、型もなければ品もなかった。でも——目が離せなかった。この暗闇の中で、こいつだけが、全力で生きている。全力で「楽しい」を作っている。


 神々の笑い声が、大きくなっていく。腹を抱えて笑っている者もいた。闇の中で、笑い声だけが明るかった。


     *


 岩戸の向こうから——気配がした。


 アマテラスが、動いた。


『……何をしている』


 声が、岩戸越しに聞こえた。


『私がいなくなったのに——なぜ笑っている』


「あなたさまより貴い神がおいでになったのです」と、外の神が答えた。


 嘘だ。そんな神はいない。けれど——岩戸が、ほんの少し、開いた。


 隙間から、光が漏れた。


 世界で最初の、光だった。闇に落ちてから、最初の光。


 その隙間に——タヂカラオという力の神が手をかけた。そして、一気に引き開けた。


 光が、溢れ出した。


     *


 世界に、光が戻った。


 太陽が、戻った。空が、戻った。色が、戻った。


 アマテラスが岩戸の前に立っていた。光を纏い、少し——ほんの少し、怒ったような、呆れたような、それでいて安堵したような顔をしていた。


 姉上の表情は——父が言っていたイザナミの表情に、似ている気がした。笑っているのか怒っているのか、わからない顔。


 俺は、遠くから、姉上を見ていた。


 光が戻った。世界が戻った。


 でも——俺がやったことは、消えない。


     *


 神々が俺の前に来た。


「スサノオ。高天原を追放する」


 当然だと思った。


「髭を切り、手足の爪を抜き、追放する」


 それも——当然だと思った。


 俺は、おとなしく従った。抵抗する気は、なかった。


 髭を切られた。爪を抜かれた。痛かった。けれど——機織りの宮で傷ついた女神のほうが、ずっと痛かっただろう。


 追放の処分が終わったとき、姉上が来た。


 俺は膝をついて、頭を下げた。産まれて初めて、誰かに頭を下げた。


「……すまなかった」


 姉上は、しばらく黙っていた。


「……泣かないのか」


「……泣けない。泣いたら、また嵐になる」


「泣いていいぞ」


 顔を上げた。姉上が——笑っていた。怒っているのかと思ったら、笑っていた。


「泣きたいなら泣け。嵐が来るなら、私が止める。それが姉の仕事だ」


 ……俺は、泣いた。


 嵐が来た。姉上が光で押さえた。


 泣きながら、俺は思った。ああ、こうすればよかったのか、と。最初から、こうすればよかったんだ。一人で抱え込むんじゃなくて。誰かに、止めてもらえばよかったんだ。


 父も——そうだったのかもしれない。一人で黄泉に行かず、誰かと一緒に行けばよかったのかもしれない。


 でも、父にはそれができなかった。俺にもできなかった。


 感情を止められない奴は、一人で行くしかない。止めてくれる奴に会うまでは。


     *


 高天原を去るとき、姉上が言った。


「母に会いに行くのだろう」


「ああ」


「黄泉比良坂は——父が封じた」


「知っている」


「封石を、動かせると思うか」


「……動かす。俺の嵐で」


 姉上が、少し笑った。


「嵐の使い方を、覚えたか」


「……覚えた。たぶん」


 壊すためではなく。開けるために。


「——気をつけろ、スサノオ」


「ああ」


「父が——見てはいけないものを見た、と言っていた。覚えているか」


「覚えている」


「おまえは——見ても、泣くな」


 それは——むちゃくちゃな注文だった。俺に泣くなと言うのは、俺に息をするなと言うのと同じだ。


「……努力する」


「嘘つき」


「……ああ。嘘だ」


 姉上が笑った。俺も、少しだけ笑った。


 嵐は、来なかった。笑っているときは、嵐は来ないらしい。


     *


 黄泉比良坂。


 父が封じた、千引きの岩。俺はその前に立った。


 でかい岩だ。普通の神なら、動かせない。


 俺は、岩に手を当てた。そして——泣いた。


 意図的に。初めて、自分から泣いた。


 母に会いたい。


 その気持ちを、全部、嵐にした。


 風が渦巻き、岩に叩きつけられる。岩が、揺れた。


「——開け!」


 父の言霊とは違う。俺のは、もっと荒い。もっと乱暴だ。


 けれど——岩が、動いた。


 ほんの少し。隙間が、できた。人一人が、かろうじて通れるくらいの。


 隙間の向こうから——闇が、漏れ出してきた。そして、かすかに、声がした。


『——来たのか』


 女の声だった。聞いたことのない声。けれど——知っている声。


 産まれる前から知っている声。


『……入りなさい』


 母の声だった。


 俺は、隙間に体をねじ込んだ。


 黄泉へ、降りていく。

ご拝読いただきありがとうございました!

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