第七話 穢れと禊
空が、あった。
地上に出て最初に思ったのは、それだけだった。空がある。広い。雲がある。黄泉に、そのどれもなかった。
膝をついたまま、空を見上げていた。両目が金色に戻っていく。左目の黒さが、空の光の中で薄れていく。
手で地面を掴んだ。土だ。暖かい。粒がある。あの髪に覆われた床とも、あの泥の平野とも違う。生きている土だ。
風が来た。花の匂い、土の匂い、水の匂いが、いっぺんに運ばれてくる。
こんなに、いろんな匂いがしていたのか。忘れていた。
しばらく、動けなかった。動けないんじゃない。動く必要が、なかった。
黄泉に入ってから初めて——「逃げなくていい」場所に、いた。
*
自分の体を見下ろして、顔をしかめた。
ひどいものだった。着物は泥と血と黒い液体でべったり。左腕には黄泉に入った頃から始まった腐食の痕がまだ残っている。黒い脈の形。薄くはなっているが、消えてはいない。
着物の裾から黒い液体が滴っていた。地面に落ちると、その場所がわずかに変色する。歩くたびに黄泉のものを撒き散らしている。
……俺は今、歩く汚染源だ。
川の音が聞こえた。
禊をしなければならない。これを全部、落とさなければ。生きている世界に黄泉を持ち込むわけにはいかない。
*
川に向かって歩いた。黄泉での歩行とは何もかも違う。地面が固い。光がある。そして——影があった。
影。黄泉に影はなかった。影があるということは、光源がある。光源があるということは、方向がある。方向があるということは、どこかへ行ける。
黄泉では「どこかへ行く」ことすら、あやうかったんだ。
日向の小川。透明な水が光を反射して、眩しい。
川面に自分の顔が映っていた。久しぶりに見る自分の顔。
……こんな顔をしていたのか。
やつれている。傷がある。けれど、目だけは——両方とも、金色に戻りかけていた。
*
着物を脱いだ。一枚ずつ、川の前で。黄泉のものを、全部、脱ぐ。
脱ぎ捨てた着物が、地面に落ちた。
——動いた。
着物の中から、光の形が次々と産まれ出す。人の形ではない。もっと小さくて、もっと原始的な、神の形。十二柱。
……脱いだ着物から、神が産まれた。
着物を脱いだだけで十二柱。俺のワードローブは神の苗床か。
それぞれが名前を持っているのが、なんとなくわかった。が、今は呼ばない。後で向き合う。今は、禊が先だ。
川に入った。
水が、冷たい。けれどこれは「正しい」冷たさだ。黄泉の、まとわりつくような冷たさとは違う。汚れたものを、削ぎ落とす冷たさ。
肩まで浸かった瞬間、体から黒いものが流れ出した。
煙のように立ち上る。皮膚の表面から、染み込んでいた黄泉の穢れが、水に触れた途端、出ていく。腕の腐食の痕がみるみる薄くなる。黒い脈の形が消え、左目の暗さがゼロになり、両目が金色に戻る。
……戻った。
気持ちよかったか、と聞かれると——正直、痛かった。抜けていくとき、焼けるような感覚がある。黄泉のものが、体の内側にまで根を張っていたのだと、出ていく痛みで初めてわかった。
流れていった黒いものが、川の下流で、また形を持った。穢れが——神になる。八柱。
着物から十二柱。穢れから八柱。合わせて二十柱の神が、川のまわりに立っていた。
俺が黄泉から持ち帰ったものが、全部、神になった。
失ってばかりだと思っていた。なのに、こんなに、産まれている。
……創造と喪失は、いつだって背中合わせだ。カグツチを斬ったときにも、そう思った。
*
水の中で、考えていた。
なぜ黄泉に行ったのか。イザナミを連れ戻すためだった。できなかった。禁忌を破り、声を上げ、また傷つけた。
……正しかったのか。おまえのところへ行ったことは。
答えは出なかった。ただ——あいつは「よかった」と言った。「逃げられてよかった」と。「生きてください」と。
おまえは俺が来ると知っていた。知っていて待っていた。黄泉の法が「追え」と命じる中で、おまえは「殺すな」とだけ言った。
……わからない。正しかったのかどうか。
でも、帰ってきた。それだけは確かだ。
*
体は清潔になった。穢れは流れ、腐食は消えた。残るのは傷だけ。傷は消えない。
それでいい。傷くらいは残ればいい。
最後に、目を洗わなければならなかった。目から黄泉の何かが、まだ抜けきっていない。
両手で水を掬う。水面に自分の目が映る。両目が金色。久しぶりの、左右そろった自分の目だ。
……久しぶりだな、左目。戻ってきたか。
水を、左目に当てた。
その瞬間——光が、産まれた。
あの宮殿でイザナミを見たとき、視界を塗り潰した白とは違う。あれは壊れる白だった。これは、産まれる光。暖かくて、柔らかくて、拡がっていく光。
光の中心に、女の形が現れた。最初は輪郭だけ。それから髪が伸び、顔の線が浮かび、最後に——目が開いた。目が開いた瞬間、さらに光が増した。自分自身が光源である存在。
自ら光るもの。
——おまえは、誰だ。
「——父よ」
女の神が、俺を見て、そう言った。産まれたばかりで、最初の言葉が「父よ」。挨拶もなく、いきなり血縁の確認から入る。この子は、たぶん、仕事ができるタイプだ。
アマテラスが、産まれた。
*
右目を洗うと、今度は違った。
冷たい光。月の光のような、正確で、感情を持たない光。暖かさが、一切ない。その中に中性的な輪郭が、結晶みたいに現れる。アマテラスが光が溶けて形になったのだとすれば、こちらは光が凍って形になった——そういう産まれ方をした。
目が開く。けれどその目には感情がなかった。いや——感情がないんじゃない。外に出さないだけだ。月は光るが、熱くない。
ツクヨミ。
ツクヨミは、俺を見て、何も言わなかった。ただ確かに、そこにいた。
「……喋らないのか」
返事はない。
……それでいい。喋らない神が一柱くらい、いてもいい。むしろ安心する。黄泉ではヒサメに心の声まで全部聞かれていたからな。黙っている存在の、なんとありがたいことか。
*
最後に、鼻を洗った。
来る。何かが来る。今度のは——大きい。アマテラスともツクヨミとも、質が違う。
爆発した。
光じゃない。風だ。川の水が四方に飛び、一瞬、逆流した。空が一瞬暗くなった。暗くなったのは光が消えたんじゃない。空気の密度が変わったのだ。嵐の気配。暴力的なまでの生命力。
光の中から現れたのは、男の神だった。アマテラスより大きく、ツクヨミより荒い。腕が太い。声が太い。存在そのものが、太い。
そして、その顔は——泣いていた。
産まれた瞬間から、泣いている。号泣している。何が悲しいのかもわからないまま、産まれ落ちた世界に向かって、全力で泣き叫んでいる。
スサノオ。
「……泣いているのか。産まれた瞬間から」
三柱が、川岸に並んだ。アマテラス、ツクヨミ、スサノオ。光と静寂と嵐。何ひとつ似ていない。それでも全員、俺から産まれた。
……俺の中に、こんなに違うものが入っていたのか。
*
アマテラスが、光を放ちながら、俺を見た。
「——父よ」
……父。俺は父か。世界を作ることしか知らなかった俺が、今度は父になっている。
ツクヨミは何も言わない。ただ、いる。スサノオは声を上げて泣き続けている。
「スサノオ。なぜ泣く」
「……わからない」と、スサノオは泣きながら答えた。「泣きたいから、泣いている」
泣きたいから泣く。理由がないのに泣く。俺はイザナミが死んだとき、泣けなかった。泣くべきときに泣けなくて、代わりに子を斬り、黄泉に降り、禁忌を破った。こいつは、理由もなく泣ける。
それは——少し、うらやましい、と思った。
川の中で、俺は笑った。気がした。久しぶりに、笑えた気がした。
*
川から上がった。三柱の前に立つ。
「役割を与える」
「役割」と、アマテラス。
「おまえたちが産まれた意味だ」
「産まれた意味は、自分で決めるものでは」
……この子は、産まれて間もないのに、もう口答えをする。
「アマテラス。高天原を治めろ。光のあるところを、おまえが統べろ」
アマテラスは頷いた。その頷きに、光が増した。迷いのない頷きだった。
「ツクヨミ。夜の世界を治めろ。光のないところを、おまえが統べろ」
ツクヨミは、何も言わずに頷いた。静かに。確かに。この子はたぶん、一生このままだ。それでいい。
「スサノオ。海原を治めろ。荒ぶるものを——」
「……わかった」
泣きながら頷いた。けれど——
「でも——」
スサノオが、何かを言いかけて、止まった。
*
俺はスサノオの前に膝を折った。同じ目の高さになる。
「言え。何でも言え」
「……怒らないか」
「怒らない」
スサノオは涙を増やしながら、言葉を探していた。産まれたばかりなのに、こいつにはもう「欲しいもの」があるらしい。産まれたばかりなのに、何かが足りないと感じている。
やがて、荒い声がはっきりとした言葉になった。
「——母に、会いたい」
川が止まった気がした。空が止まった気がした。
俺も、止まった。
*
——母に、会いたい。
その言葉が、空気に残っていた。アマテラスもツクヨミも黙っている。川だけが何事もなかったように流れ続けている。
俺は答えられなかった。遠くを見ていた。黄泉のある方向を。
「……怒った?」と、スサノオ。
「……怒っていない」
「会えるか」
その問いには、答えられなかった。会えないとは言えない。会えるとも言えない。
アマテラスが口を開いた。産まれたばかりのくせに、何かを知っているような声で。
「母は——黄泉にいる」
誰も教えていない。なのにこいつは知っていた。俺の左目から産まれた——あの黄泉を見た目から産まれたから、見えるのか。
「なぜ、一緒に帰ってこなかった」と、スサノオ。
その問いが、痛かった。
「——帰れなかったからだ」
「なぜ帰れなかった」
「……俺が見てしまったからだ。見てはいけないものを見た。だから、おまえの母は帰れなかった」
スサノオはしばらく黙って、それから言った。
「……それでも。俺は、会いたい」
その一言に、誰も反論できなかった。アマテラスも。ツクヨミも。俺も。
その気持ちは——わかってしまうから、なお、何も言えなかった。
*
俺はもう一度、スサノオの前に膝を折った。
「……おまえが黄泉に行きたいなら。俺は止めない」
三柱が驚いた。
「止めないのか」と、アマテラス。
「止める資格がない。俺も行ったのだから」
「……父も会いに行ったのか」と、スサノオ。
「ああ」
「会えたか」
沈黙。
「——会えた。しかし、連れ帰れなかった」
「それでも——行ってよかったか」
その問いに、俺は長いあいだ答えられなかった。
川が流れた。風が来た。
そして、最後にその一言が口から出た。
「——よかった」
自分でも驚いた。けれど嘘ではなかった。
……よかったのか。おまえに会えたから。おまえが「よかった」と言ったから。そして——おまえに会いたいと願う子が、産まれたから。
失ってばかりだと思っていた。でも、ここに、こうして、答えがあった。
*
スサノオが涙を拭った。初めて泣き止もうとしていた。完全には止まらないが、努力している。
「……俺も行く。黄泉に」
「危険だ」と、アマテラス。
「父が帰ってきた。父が帰ってきたなら、俺も帰れる」
その理屈に、誰も反論できなかった。
「——一つだけ覚えておけ」と俺は言った。
「何を」
「黄泉には見てはいけないものがある。見ると、おまえも帰れなくなるかもしれない」
「……父は見たのか」
「……ああ」
「それでも帰ってきた」
「……ああ」
スサノオは泣き笑いのような顔をした。
……こいつは、俺に似ている。理屈が通らなくても、行くと決めたら行く。強いのか馬鹿なのか、たぶん両方だ。
俺と同じだ。
*
日が傾いてきた。川の水が橙色に染まる。三柱が、それぞれの方向を向き始めた。
アマテラスは上を向いた。高天原へ。
「——また会おう、父よ」
「ああ」
ツクヨミは横を向いた。夜の世界へ。何も言わずに去り、けれど去り際に一度だけ振り返った。それだけだった。それで十分だった。
……おまえは月のようだ、ツクヨミ。
そしてスサノオは、下を向いた。地下の方向。黄泉の方向を。
「——行ってくる」
まだ少し泣きながら。
「……気をつけろ」と、俺。
「父こそ気をつけろ」
スサノオが去った。
*
一人になった。
川の前に一人で立っている。三柱はそれぞれ去った。けれど今回の「一人」は、黄泉の「一人」とは違った。あの暗い孤独ではない。ここには空がある。風がある。川がある。
川面に自分の顔が映っている。両目が金色。黄泉に降りる前の顔とは違う。何かが変わった顔だ。
……変わった。黄泉に行って変わった。それが正しいことなのかはまだわからない。
遠くで音がした。スサノオが行った方向から。嵐のような音。泣きながら進んでいく、あいつの音だ。
……行ったか。気をつけろ、スサノオ。黄泉はおまえが思うより、ずっと深い。
空を見上げると、月が出始めていた。ツクヨミの光がもう空に現れている。
……おまえの光はここまで届くか、ツクヨミ。
俺の旅は終わった。
けれどもう一つの旅が——泣き虫の嵐の神の旅が、今、始まったところだった。
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