第六話 見た
イザナミが、立ち上がった。
おまえが死んだ夜から——俺が立ち尽くしていたあいだも、カグツチを斬ったあいだも、黄泉に降りたあいだも、ずっと座っていたおまえが。立った。
最初に動いたのは足だった。地面に溶けて根を張っていた、あの足。根が一本ずつ千切れていく。音はない。けれど地面が痙攣していた。
髪が動いた。床じゅうに広がっていた黒髪が、いっせいにめくれ上がる。俺が踏んだとき痛がるように縮んだ、あの髪が。
炎の左腕が揺れた。固まっていた炎が溶けかけ、中の黒い骨が透ける。腹の中では火の粒がいっせいに激しく瞬いた。蛍のように静かだったカグツチの残り火が、母の動きに応えて、燃え上がろうとしている。
それだけで、黄泉が揺れた。
おまえが立っただけで、この国全体が震えている。
その口が開いた。声にならない言葉を形作る。
けれど——俺はすぐに気づいた。あの口の動きは、おまえの意志じゃない。
唇が、勝手に動かされている。
おまえはずっと「来ないで」と言っていた。「見ないで」と。あの目で、あの口の形で、何度も。それが本心だと、俺はもう知っている。
なのに今、おまえの口が形作っている言葉は——
——追え。
——連れ戻せ。
黄泉そのものが、おまえの口を使って、命じている。禁忌を破った生者を逃がさない——それは、女王の意志ではなく、この国の法だ。おまえがどれだけ俺を逃がしたくても、黄泉という場所そのものが、それを許さない。
唇の動きが、一瞬、止まった。そして——もう一語だけ、形を変えた。
——殺すな。
その一語だけが、おまえの言葉だった。
壁が応えた。壁全体が振動し、中から黄泉の神々の影が動き始める。床の髪が波打って、出口の方向へ向きを変えた。矢印みたいに。「そこにいるぞ」と、俺の居場所を指すように。
……髪がナビゲーションシステムになった。最悪の仕様だ。
地面が波打った。宮殿だけじゃない。黄泉の平野全体に波紋が広がる。黄泉の法が、この国の隅々まで伝わった。
逃げろ。
俺の本能が、生まれて初めて、はっきりとそう叫んだ。
*
背後の扉に、言霊を放つ。
「——開け!」
今度は正確に効いた。感情を閉じた瞬間、言霊が俺の意志に戻る。妻を見て心が乱れ、心を閉じることで力が戻る。皮肉だが、使える。
扉が内側から外へ吹き飛んだ。
走る。
——逃げろ。おまえに言われなくても、逃げる。
背後にイザナミの気配。追ってくるのか——いや。追ってくるのは黄泉の神々だ。イザナミ自身は、来ない。
根を引き千切ってまで立ったのに。自分では追わない。
追えと命じたのは黄泉だ。おまえは、ただ「殺すな」と言っただけだ。
それが——おまえにできる、精一杯だったんだろう。
*
廊下も生きていた。走ると床が足を掴もうとする。一歩ごとに膝まで沈む。壁から黄泉の神々の腕が次々と突き出してくる。
「——退け!」
言霊で弾く。出口が見えた。その前に番人が三体。宮殿専属。でかい。
止まらない。止まったら追いつかれる。
一体目——通り抜けざまに核を斬る。二体目——足元をくぐって下から「砕け」。三体目——振り向かず背後に「散れ」。
出口を抜けた。黄泉の平野。
そして——見た。
平野を埋め尽くしている。番人。黄泉の神々。ヨモツシコメ。全部が、俺を向いている。
……あの腕一本で神々を止めた女王の令だ。黄泉の法が女王の口を使えば、そりゃ、こうなる。
*
宮殿の扉の外に、ヒサメが立っていた。ずっと待っていたらしい。
「——お帰りなさい」
「遅い! 走れ!」
ヒサメが走り出す。例の少し変な走り方で——けれど今日は、冗談みたいに速い。
「道は、私が案内します」
「ああ——頼む」
「頼む」が自分の口から出たことに、少し驚いた。
走りながら、ヒサメが聞いてきた。
「イザナミさまを——見ましたね」
「……ああ」
「どうでしたか」
腹の中の火の粒。炎に包まれた腕。地面に溶けた足。壊れているのに美しい、全部。
走りながら、一瞬だけ間を置いて、答えた。
「——きれいだった」
ヒサメは笑顔のまま、いつもと少し違う声で言った。
「……そうですか」
何が込められていたのか——聞き返す余裕は、なかった。
「右——!」
ヒサメの指示で右に曲がる。追手の先頭が曲がりきれずに地面に突っ込んだ。
*
泥の平野を、逆向きに走った。
かつて慎重に歩いた場所だ。幻を踏まないように、泥に触れないよう、一歩ずつ進んだ場所。今は全力で走っている。幻を踏みながら。
『ねえ、イザナギ。次は何を産みましょうか』
蹴り飛ばして走った。
あの頃の俺に教えてやりたい。お前が丁寧に避けて歩いた幻は、後で全力で踏み抜くことになるぞ、と。
泥から死者の腕が伸びてくる。剣で払いながら走る。止まらない。
ヒサメの足が、泥に沈んでいない。俺は膝まで汚れているのに、こいつは表面を滑るように走っている。
……やっぱり、おまえは。
聞きたいことは山ほどあるが、今は走るのが先だ。
*
前方に腐骨の森。以前抜けた場所。けれど骨の木が伸びて道を塞いでいる。
「今日は生きています」とヒサメ。「イザナミさまの——いえ、黄泉の令で」
言い直したのが聞こえた。こいつも、あの令がイザナミの意志でないことを、わかっている。
踏み込むと、骨の木がいっせいに動いた。森全体が一匹の生き物のように襲いかかってくる。
『止まれ』『帰れ』『出るな』
骨の声。以前はこの声に足を止めてしまった。「知らなかったと?」と言われて、胸の奥を抉られた。一度聞いた台詞に二度は引っかからない。
「帰ろうとしている」
走りながら返すと、骨の声が少し静かになった。会話が成立するとは思わなかった。
枝を斬りながら走る。地面からはヨモツシコメ。倒しても再生する。だから倒さない。剣の腹で横に弾く。
「——正解です!」と前方のヒサメ。
以前は馬鹿正直に殺す方法を考えていた。答えは簡単だった。殺さなくていい。通り抜ければいい。
だが二体、三体と湧いてくる。多すぎる。
その時、ヒサメが走るのをやめた。
「何してる——! 走れ!」
「大丈夫です」
あの朽ちた蝋燭を掲げた。
黒い炎が灯った。光を放つのではなく暗さを撒き散らす炎。光を吸い込む火。
ヨモツシコメたちが——止まった。全員。そしてヒサメに向かって、頭を垂れた。
「……おまえは、何だ」
「——後で話します」
こいつの「後で」が来たためしはない。だが今は先に進むしかない。
番人は襲わない。泥に沈まない。ヨモツシコメを従える。どう見ても「案内役」の範疇を超えている。それでもこいつは俺を助けている。
*
骨の森を抜けた。番人が三体、追ってくる。
後ろを見る。五十メートル。走る。三十メートル。
言霊で一体を吹き飛ばす。残り二体。十五メートル。
問題に気づいた。言霊を撃つと足が止まる。止まったぶん距離が縮む。攻撃するほど追いつかれる。
五メートル。番人の顔が見える。
「——左! 岩です!」
岩場に駆け上がった。上からなら言霊がまっすぐ届く。
「——砕け!」
二体同時に撃ち抜いた。最後の一体は岩を登ってきたので蹴り落とした。足が泥の体に沈む感触——最高に気持ち悪い。
*
追手が遠のいた。ヒサメの道案内が、有利な地形を選んでくれている。
走りながら、気づいた。
体が、軽い。傷はある。肩の黒ずみもある。なのに、黄泉に入ったときより、明らかに軽い。
黄泉に降りたとき、俺は死ぬことを恐れていなかった。イザナミに会えればどうなってもいいと思っていた。帰るつもりがなかったから、体が黄泉に沈みたがっていた。
今は——
生きたい。
今、俺は、生きることを選んでいる。
死を悼んで黄泉に落ちた男が、逃げながら、生にしがみついている。
「——それでいいんです」
前を走るヒサメが、振り返らずに言った。
「……聞こえていたのか」
「いつも聞こえています。心の声は、全部」
……それ、もっと早く言え。心の中でいろいろ失礼なことを思ったのを、全部聞いていたということだ。
「気にしていませんよ」
今も聞こえている。もう手遅れだ。
*
黄泉比良坂が見えた。
急な坂が上へ向かっている。坂の上に——光。黄泉に降りてきたとき豆粒みたいに縮んでいった、あの光。今、出口として光っている。
「上」という方向が初めて現れた。黄泉に「上」はなかった。上とは、戻る方向のことだ。
けれど追手が迫っている。坂は急で、登りながらでは戦えない。
「——私が止めます」とヒサメ。「登ってください」
「おまえは」
「どこへでも行けます。上にも、下にも」
「——ありがとう。ヒサメ」
初めて名前を呼んだ。ずっと「おまえ」だったこいつの名前を。
ヒサメの笑顔が、ほんの一瞬、変わった。いつもの貼り付いた笑みではなく、もう少し、本物に近い何かに。
「——行ってください」
黒い炎の蝋燭を追手に向かって掲げる。炎が広がる。追手が止まる。
俺は坂を登り始めた。
*
膝で岩を掴み、手で地面を掻いて、上へ。
振り返ると、黄泉が見えた。泥の平野。腐骨の森。宮殿。
宮殿の暗闇の中から、あの女が、立ったまま、こちらを見ている。腹の火の粒が微かに瞬いているのが、ここからでも見えた——気がした。こんなに離れているのに。でも、見えた気がした。
坂の途中で、声が聞こえた。
禁忌の場所で聞いた声とも、宮殿での声にならない言葉とも違う。初めて、はっきりとした、イザナミの声だった。
『——よかった』
足が止まった。上には光。下には闇。そのちょうど境目に、俺は立っていた。
「……よかった?」
『逃げられて——よかった』
沈黙。
『もう——来ないで』
……そうか。
あの「見ないで」も。唇の形が「来ないで」にも「来て」にも見えたのも。本当はずっと、同じことを言っていた。
来ないで。見ないで。逃げて。
全部、同じ意味だった。
そして——「追え」は、おまえの言葉じゃなかった。おまえの言葉は「殺すな」だけだった。
それが、おまえの精一杯だったんだな。
*
出口に着いた。脇に巨大な岩。千引きの岩。
『……使いなさい』
下からイザナミの声がした。自分を封じる岩を、使え、と。
俺は岩に手をかけた。
「——転がれ!」
岩が坂を転がり落ちていく。追手が散る。岩は坂の途中で止まり、黄泉と生の世界を分けた。
封じた。これで、もう来られない。俺も、行けない。
封石の向こうから、声が来た。
『——聞こえますか』
「……聞こえる」
『私のことを——好きでしたか』
「……ああ」
『今も——好きですか』
「……ああ」
『ならば——来ないでください』
沈黙。
「……それが、好きということか」
『そうです。あなたも、わかっているはずです』
わかっている。たぶん、最初から、わかっていた。
『——生きてください』
それが、最後の言葉だった。
俺は返事をしなかった。返事の代わりに、一歩、光の中へ踏み出した。
*
光の中に出た。
空があった。広い。黄泉に空はなかった。
膝から崩れ落ちた。手が地面を掴む。暖かい。
空を見上げると、両目が金色に戻っていくのがわかった。左目の暗さが薄れていく。
背後の封印の向こうから、ごく小さく、最後の声が聞こえた。
『——また、いつか』
禁忌の場所で「またね」と言ったあの声と、同じ温度だった。
……また、いつか。
その言葉が約束なのか呪いなのか。俺にはまだ、わからなかった。
ご拝読いただきありがとうございました!
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