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第五話 禁忌

暗闇の中の、二つの目。


 その目が——瞬きを、した。


 まぶたが、ゆっくりと閉じて、また開く。それだけの動作。それだけのことで、俺の心臓が、止まりかけた。


 生きている。


 死者の国で、死んだはずのイザナミが、瞬きをした。


 俺は扉の中にいた。背後で、扉はもう閉まっている。後ろには、戻れない。


 声を上げてはいけない。


 それだけを、覚えていた。


     *


 部屋が、生きていた。


 壁が、呼吸していた。石でも木でもない——骨と、肉と、植物が混じり合ったような素材。それが、ゆっくりと収縮を繰り返している。脈打つ壁。よく見ると、骨が格子状に組まれていて、その隙間に、何か粘性のあるものが詰まっていた。ゆっくりと、収縮している。呼吸のリズムで。


 触れるな。絶対に、触れるな。


 床は、黒髪で覆われていた。イザナミの髪が、部屋じゅうに広がって、地面を這っている。


 踏まないように歩こうとして、無理だと気づいた。髪は、床のすべてにある。


 一歩、踏んだ。髪が、わずかに縮んだ。痛がっているみたいに。


 おまえの髪を、踏んでいる。


 ——申し訳ない、と思った。なぜだ。俺は会いに来たんだ。相手の床が髪でできているのは、俺のせいじゃない。なのに、申し訳ない、と思う。


 この部屋は、そういう場所だった。普通の感覚が、少しずつ、ねじれていく。


     *


 部屋の中央に、それは座っていた。


 大きい。生前の倍近い。座った状態で、天井に届きそうなほど。けれど、輪郭は、確かに人間の女のものだった。巨大化しているが、変形はしていない。「人間の美しさが、そのまま拡大された」——そういう、奇妙な正しさがあった。


 近づくにつれ、体の細部が見えてくる。一度に全部は見えない。暗さのせいでもあるし、俺の脳が、情報を処理しきれないせいでもある。見えるのは、断片だけだ。


 まず、右腕。


     *


 床に置かれた右腕は、生前と、変わらず美しかった。


 滑らかな白い肌。細い指。爪の形まで、生きていたときのまま。ただ、白さの質が違う。白磁のような白。温かみのない、完璧な白。


 きれいだ——と、素直にそう思った。


 思ったあと、腕の内側に気づいた。血管のように、黒い細い筋が走っている。血管ではない。ゆっくりと、動いている。脈拍のように、けれど脈拍とは少し、リズムが違う。生前の体のリズムではなく、黄泉のリズムで、動いている。


 さらに、指先。指の第二関節に、小さな黒い点が一つ。点は、ゆっくりと、広がっている。腐敗が、始まりかけている。完璧に美しい腕の、たった一点だけ。


 美しさと、壊れかけているのが、同時にある。どちらか一方なら、まだ、処理できた。両方が同居しているから——おかしくなる。


 触れたい衝動が、湧いた。伸ばしかけた手を、止める。


 触れたら、おまえも俺を感じる。それは——声を上げることと、同じだ。


     *


 右腕から、視線を移す。左腕へ。


 近づく前から、熱を感じた。けれど、炎の音がしない。静かな熱。


 左腕は、肩から先が、炎に包まれていた。


 けれど——燃えていない。炎が、固まっている。動きの途中で時間が止まったみたいに、炎の形のまま、静止している。紅い。橙。金。色だけが、息を吹き返したように鮮やかで、なのに一切動かない。


 カグツチが産まれた、あの夜の炎が——ここに、残っている。


 あの夜、イザナミの体を焼いた炎が、時間ごと固まって、腕に貼り付いている。取れないのか。取ろうとしたのか。それとも——残したのか。


 炎は半透明で、その奥が、透けて見えた。腕の骨が、見える。生前と同じ形の骨。白ではなく、黒い。炭のような色をした、きれいな骨。


 きれいな骨だ——と、思ってしまった。


 骨を「きれいだ」と思う時点で、俺の正気は、だいぶ怪しい。わかっている。わかっていて、止められない。


 炎の腕が、わずかに動いた。固まっていたはずの炎が、指の形に集まる。曲げようとしている。


 ……動いた。俺を、認識したのか。


 炎の腕でも、俺に触れようとしている。右腕の冷たさと、左腕の熱。この体は、矛盾だらけだ。


     *


 視線が、自然と上がっていく。腹のあたり。


 ここが、いちばん——言葉にしにくい。


 白い肌。けれど、白さが均一じゃなかった。部分的に、皮膚が、透けている。曇りガラスみたいに。透けた部分は、左右対称ではなく、不規則に広がっていた。まるで、中からの熱で、少しずつ溶けたみたいに。


 その透けた部分から——内部が、見える。


 最初に見えたのは、動きだった。何かが、規則的なリズムで、蠢いている。呼吸——いや、呼吸ではない。もっと小さな、個別の動き。複数の何かが、それぞれに浮遊している。


 目を凝らして、俺は、息を止めた。


 火の粒だった。


 無数の、小さな炎の粒が、腹の中を漂っていた。


 蛍みたいだった。一つ一つは微かで、暗い体内を、ゆっくりと、ゆっくりと巡っている。ときどき二つがぶつかると、ぱっと明るくなって、また離れて、暗くなる。


 カグツチの残り火だ。


 あの夜、火の神を産み落として、炎に焼かれて死んだ。カグツチ本体は俺が斬った。けれど炎は——母の体の中に、棲み着いたまま、消えなかった。


 腹の中に、あの夜の炎が、まだ、生きている。


 ……いや、「生きている」は、正しくないかもしれない。死者の体の中で、炎だけが、死に損なっている。体は死んでいる。炎は消えていない。この二つが同居している。


 じっと見ていると、火の粒の一つが、透けた皮膚の近くまで浮いてきた。皮膚の内側で、ぼう、と光る。


 その光で、一瞬だけ、内部の構造が見えた。火の粒以外にも、何かがある。薄い膜のようなもの。臓器の痕跡。全部が黒ずんで、けれど形を保っていて、火の粒の光で時折、照らされる。


 体の内側で、カグツチの残り火だけが、ともし火みたいに、母を照らし続けている。


 それが——怖いのに、目が離せなかった。


 あの夜の、最後に残った痕跡。おまえを焼いた炎が、今も、おまえの中にいる。おまえは、それを、抱えたまま死んだのか。抱えたまま、ここに座っているのか。


 俺は一歩、後ずさった。意識より先に、体が退いていた。


 ……声は、上げていない。まだ、守れている。


 口を塞ごうと上がりかけた手を、下ろした。下ろすのに、少し力が要った。


     *


 視線を、下へ。足を見て——足を見て、俺は、自分の口を、手で押さえた。


 足が、ない。


 いや——ある。ただ、膝から下が、地面に溶けていた。


 皮膚の白が、地面の黒に、じわじわと混じっていく。境界の線が、曖昧だった。どこまでが体で、どこからが地面か、わからない。まるで、絵の具が水に溶けていく途中みたいに、輪郭が消えかけている。


 よく見ると、溶けた部分から、細い繊維のようなものが、地面の奥へと延びていた。根だ。皮膚から根が生えて、黄泉の地面に食い込んでいる。


 根を、張っている。黄泉に、根を張っている。


 ……ここが、おまえの庭なのか。


 痛そうではない、と思った。痛みはなさそうだ。ただ、溶けている。自然に。まるで、こうなるのが当たり前みたいに。


 引いて全体を見た。座ったイザナミの、大きなシルエット。右腕は美しく、左腕は炎に包まれ、腹の中で火の粒が漂い、足は黄泉に根ざしている。


 全部が、壊れている。全部が、美しい。どちらか一方なら対処できた。両方だから——俺の正気の基準が、ぐらぐら揺れる。


 おまえは、ここの女王になっていた。


 俺が地上で世界を作っているあいだに、おまえは、死者の国で王座についていた。夫婦そろって、別々の世界の主になっていたわけだ。皮肉な話だ。


 ……笑えない皮肉だ。


     *


 ずっと静止していたイザナミが——動いた。


 右腕が、ゆっくりと、床から持ち上がる。黒い脈管が走る腕。重さのある、緩慢な動き。


 上がった腕の指先が、俺の方を向いた。五本の指が、ゆっくりと開く。


 来い、という合図に見えた。あるいは——止まれ、か。


 俺は、一歩、前に出た。おまえの方へ。


 数歩、近づくと、あらためてスケールが実感できた。俺の目線が、座ったイザナミの腰のあたり。首に黒髪が巻きついている。自分の髪が、自分の首に。締めているわけじゃない。自然に、絡まっている。


 もう、手を伸ばせば届く距離だった。


 触れたら、声が出る。だから、触れない。


     *


 顔の、すぐ前に立っていた。


 視線を上げれば、見える。けれど俺は、意識して、首より下を見ていた。


 見たい。見てはいけない。それは、同じ感情の、表と裏だった。


 伏せた視線の端に、顔の輪郭が入ってくる。鼻の先。口元。それだけで、わかる。


 ——おまえだ。口元が、おまえだ。


 唇は、生前のままの形をしていた。色だけが、蒼くて、乾いている。かすかに、開いていた。何かを言おうとしているみたいに。


 かすかな音がした。声じゃない。呼吸だ。


 死んでいるのに、息をしている。腹の中の火の粒が揺れるのに合わせて、呼吸しているのだと、ふと気づいた。カグツチの炎が、おまえの呼吸を動かしている。殺した炎が、呼吸を支えている。


 なんという皮肉だ。


挿絵(By みてみん)


     *


 唇が、動いた。


 声は出ない。けれど、唇の形が、言葉の形をしていた。読める——気がした。


 「見て」。そう見える。


 「見ないで」。そうも見える。


 どちらか、わからない。


 その瞬間、俺の体が、勝手に反応した。膝が折れかけ、喉の奥から、声にならない声がせり上がってくる。


 出るな。声を、出すな。


 手が、口を塞いだ。意識より先に。


 ……間に合った。まだ、守れている。


 イザナミは、静止していた。何も変わっていない。唇も元の位置に戻っている。まるで、動いていなかったみたいに。


 ……俺が、見間違えたのか。わからない。


     *


 俺は、決めた。見ることにした。顔を。目だけを、上げる。ゆっくりと。


 声は上げない。見るだけだ。それなら、許されるはずだ。


 ——イザナミの顔が、視界に入った。


 その顔を、ここに書くことはできない。言葉にした瞬間に、何かが決定的に壊れる気がするからだ。ただ、俺は見た。見て、そして——表情が、崩れかけた。崩れかけて、かろうじて、踏みとどまった。


 目が、熱くなる。泣いてはいない。泣く、寸前だった。


 声を。上げるな。


 イザナミの目が、俺をまっすぐに見ていた。その目に宿っているのは、悲しみでも怒りでもなかった。


 ——認識だ。「おまえがいる」という、認識。


 ずっと、見ていたのか。


     *


 イザナミの目が、動いた。左へ。右へ。繰り返す。何かを伝えようとしている。


 目の動きを追った。左の先に、扉。右の先にも、扉。


 扉を、示している。出ろ、ということか。それとも——来るな、か。


 イザナミの目が止まった。まっすぐ俺を見て、細くなった。


 笑ったのか。怒ったのか。どちらにも見える。


 ……そういえば、生前から、時々わからなかった。おまえが笑っているのか、呆れているのか。神になっても、読めなかった。黄泉の女王になっても、読めない。永遠に読めない気がしてきた。


     *


 その時、壁が割れた。有機的な壁にひびが入り、そこから何かが這い出してきた。


 黄泉の神だった。人型だが、顔が正面を向いていない。複数の顔が一つの頭に張り付いて、てんでばらばらの方向を向いている。


『生きている——』『生きている者がいる——』


 続いて、もう一体。また一体。手が多すぎる者。目のない者。体が半分透けている者。全員、俺を向いている。


 剣に手をかけた、その時。


 イザナミが、右腕を上げた。神たちに向かって。


 それだけで、全員が、止まった。


 腕一本で。


 やっぱり——おまえは、ここの女王だ。


     *


 神々は壁に戻った。また、二人だけになる。


 イザナミの腕が、床に下りる前に、一瞬だけ、俺の方に向けられた。指先が俺を指して、それから、下りた。


「……ありがとう」


 声を出した。囁きだったが、声を出した。黄泉に来て、イザナミの前で、初めて。


 ……驚いた声じゃない。礼を言う声だ。条件は、破っていない。たぶん。


 イザナミの目が、また細くなった。今度は、口元も動いた。声にならない言葉が、唇の形になる。


 「来ないで」——と言った。それとも——「来て」、か。


 どちらにも、見えた。


     *


 「来ないで」と言ったなら、近づくな。「来て」と言ったなら、近づいていい。


 どちらか、わからない。だから——近づく理由も、引く理由も、両方ある。


 俺は、近づくことにした。


 ……我ながら、ひどい理屈だ。わからないなら引くのがまともな判断で、わからないから近づく、と言い換えているだけだ。でも、まともだったら、そもそも黄泉になんて来ていない。今さらだ。


 一歩、近づいた。「見てはいけない」とは何のためのルールだったか。イザナミが傷つくからだ。ならば、見ることが暴力だ。


 それでも。おまえの顔を、見たい。それが俺の暴力だとしても。


     *


 イザナミの右腕が、また上がった。今度は、俺の顔に向かって。


 止まれ、と思う。思いながら、動かなかった。動けば避けられる。動かない。


 指先が、頬に触れた。一本の指。


 冷たい。体温がない。それでも、指の形は、生前のまま。感触も、生前のまま。


 冷たい。おまえは、冷たい。それでも、おまえの指だ。


 指が、頬から、目の下へと動いた。涙の跡をなぞるように。涙なんて出ていないのに。


 「泣くな」と言っているのか。「泣いていい」と言っているのか。


 ……わからない。おまえのことが、わからない。それも、生前から、変わっていない。


 指が目の端で止まって、ゆっくりと、離れていった。


 また、離れる。黄泉でも、おまえは先に離れる。


     *


 腕が床に戻った。静止する。


 そして、イザナミの目が——閉じた。


 目を閉じた、ということは——見ていない、ということだ。


 今なら。目を閉じている今なら。見ても、傷つけないかもしれない。


 見たい。


 ——けれど、俺は、動かなかった。


 盗み見るように見るのは、違う。そんなふうに、隠れて見るために、ここまで来たんじゃない。


 見るなら、おまえが目を開けているときに。正面から。


     *


 危ういところだった。かろうじて、視線を伏せたままにした。自分の意志で。今回は、耐えた。


 ヒサメの言葉を、思い出していた。


 ——声を上げるとイザナミさまが傷つきます。それが、最も難しいのですが。


 「声を上げると傷つく」——と、あいつは言った。じゃあ、声だけか。「見る」ことは、傷つけないのか。


 それとも——「見る」こともまた傷つける行為で、「声」はその傷が外に出た衝撃に過ぎないのか。


 ……見ること自体が、禁忌なのか。


 わからない。わからないまま——俺の視線は、また、上がり始めていた。


 もう一度だけ。今度こそ、声を上げない。声さえ上げなければ、傷つけない。


 だから——見ていい。


 ……我ながら、見事な狂気の論理だった。


     *


 視線が、上がっていく。ゆっくりと。


 首。首の付け根。顎の下。


 顎が見えた。生前のままの形。けれど、薄い皮膚の下に、骨がうっすらと透けている。


 きれいだ——と、思った。


 もう、それを思うことに、驚かなかった。この部屋に入ってから、俺の「きれい」の意味は、ずっと壊れ続けている。


 視線が、さらに上がる。口元。


 目はまだ閉じている。見られていない。今なら——


 今なら。目を開けていない今なら。見ても——


 ——その瞬間。


 イザナミの目が、開いた。


 視線が上がりきる。ちょうど、その瞬間に。


 目が、開いた。


 そして。


 俺は、「見た」。


     *


 視界が、白くなった。


 光じゃない。「見た」衝撃が、視界を真っ白に塗り潰した。


 その白の中で、音がした。


 自分の声だった。


 ——声が、出ていた。出て、しまった。


 白がゆっくりと消えていく。現実が戻ってくる。宮殿の内部。座ったイザナミ。


 その目が、俺をまっすぐに見ていた。何かが、変わっていた。


 怒りでは、ない。悲しみでも、ない。


 その目は——「知っていた」と言っていた。


 「こうなると、知っていた」。「おまえがわたしを見ると、知っていた」。


 ……知っていたのか。


 俺が、見ると。


 最初から、知っていたのか。

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