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第四話 禁忌の手前


「近いのか」


「近づいています」


「どのくらいで着く」


 ヒサメは、少し間を置いてから言った。


「……もう、入っています」


 俺は足を止めて、周りを見回した。景色は変わっていない。暗い地面、黒い天井。なのに、何かが違う。空気の質が、光の届き方が。空間ごと、薄い膜に包まれたような感覚だった。


 境界がどこにあったのかも、わからない。気づいたときには、もう中にいた。


「ここから先は」とヒサメ。「何かが見えても——目を閉じてください」


「見えたら、の話だろう」


「——必ず見えます。問題は、その時にどうするかです」


 相変わらず、含みのある言い方をする。


     *


 禁忌の空間は、一見、何もない場所だった。


 ただ、視界の端に、何かがいる。正面を向いていると、見えない。視線を外した瞬間だけ、何かが動く。光でも影でもない何かが、空間の縁を漂っている。


 正面だけ見ろ。見るな。


「声が聞こえても、答えないでください」と、ヒサメが囁いた。「ここにあるものは、見られることを望んでいます。返事をすると——近づいてきます」


 見てはいけないものが、見てほしいと思っている。


 その矛盾が、いちばん気味が悪かった。


     *


 歩いていると、静寂の中に、音が混じり始めた。


 音楽でも騒音でもない。声の、断片。


『……ねえ』


 俺は、足を止めた。


 聞いたことのある声だった。どこかで——確かに、聞いたことのある。


「答えないでください」と、ヒサメが素早く、小声で。


『……ここにいるのに。見てくれないの』


 拳が、勝手に握られていた。


 知っている。この声を、知っている。知っているから——振り向けない。


 声に、温かさが滲んでくる。


『……イザナギ』


 名前を、呼ばれた。


 体が、一瞬、固まる。ヒサメが、強く首を横に振った。言葉はない。身振りだけで、答えるな、と。


     *


 俺は歩き続けた。前だけを見て。返事をしないで。


 声は、追ってくる。


『……どうして来てくれたの。来たなら——見てよ』


 黙れ。


『……一人で、ずっと。誰も見てくれなかった。あなただけが、来てくれた。なのに——見てくれないの?』


 歩みが、わずかに遅くなった。


 罠だ。罠だと、わかっている。わかっているのに、意識ではなく、体のほうが止まりたがる。


「——イザナギさま。歩いてください」と、ヒサメが囁く。


「……わかっている」


 わかっているのに、だ。


 声が、また変わった。今度は、静かな悲しみ。


『……見なくていい。でも——ここにいることだけ、わかってほしかった』


 沈黙。


 ……おまえは。本当に、おまえなのか。


     *


 俺は、答えなかった。見なかった。ただ、前へ進んだ。


 それが正しかったのか——今でも、わからない。


 声が、遠ざかっていく。


『……またね』


 最後の一言が、温かかった。それが、いちばん怖かった。


 「またね」。この先の宮殿で、また会う、ということか。


「抜けました」とヒサメ。空気が戻る。重さが、消えた。


「……あの声は何だ」


「禁忌の残滓です。かつてここを通った者の——見たかったものが、声になっています」


 俺の、見たかったもの。


 それが、声になっていた。


 ……認めたくないが、たぶん、そういうことなんだろう。


     *


 宮殿が、かなり近くなった。


 道を塞ぐ小さな障害を退けようと、俺は言霊を使った。


「——退け」


 障害は、退かなかった。代わりに、俺の隣に、光の形が産まれた。


「——斬らないでください」と、ヒサメが素早く。「あなたが作ったものです」


 また障害。また言霊。「——開け」。二体目が産まれ、一体目に寄り添った。


「二体目は——愛情でできています」とヒサメ。


 ……なぜ、寄り添う。


 三度目。「——止まれ」。三体目は、尖った形をしていた。怒りだ。


 おまえたちは、俺の悲しみか。愛情か。怒りか——と、胸の中で問いかけた、その瞬間。


「——はい。駄目です。心の声でも」


「……聞こえていたのか」


「感情があるから、何かを作れる。あなたは創造神です。それは——呪いでもあります」


 俺は、後ろを振り返った。


 悲しみ。愛情。怒り。三つの光の形が、俺の後ろを、並んで歩いている。


 俺の感情が、形になって歩いている。それを見ながら、俺が歩いている。


 悪い冗談みたいな光景だった。


     *


 俺は、感情を閉じた。例の、機械みたいになるやつだ。


 すると、創造物たちも、動きを止めた。俺の感情が、こいつらの動力源らしい。


 感情を閉じたまま歩く。が、気づいた。創造物たちの形が、変わっている。不定形だった光の塊が、より具体的な輪郭に近づいている。


 一体が、女の形を持ち始めていた。


 別の一体も、同じ方向へ。全部が——同じ一人に、向かっている。


 正面から、一体を見た。


 その輪郭は——イザナミに、似ていた。


 俺の全ての感情が、おまえに向いている。


 それだけは、わかった。


     *


 その時、何かのきっかけで、言霊が連鎖した。


 一度の言霊に、複数の創造物が応えて産まれる。それが、止まらない。


 俺の周りから、放射状に、光の形が溢れ出す。大小さまざま。十数体。


 止まれ。


 止まれ——!


 止まらない。


 俺の中にあるものが、全部、いっぺんに出てきた。生まれて初めて、自分の力が、完全に制御を失った。


 左目の奥が、今までで、いちばん暗い。


     *


 ——そして、静まった。


 産まれた創造物たちが、ぴたりと止まる。十体以上が、全員、俺を向いていた。感情を閉じた俺を、感情でできた存在たちが、見ている。


 音が、ない。


「このまま、進みます」とヒサメ。


「消せないのか」


「……消す方法は、あります。でも、今は教えません」


「なぜだ」


「宮殿まで——あと少しですから」


 創造物たちが、整列するように、後ろをついてくる。


 俺の後ろを、俺の感情が歩いている。奇妙な行列だと思えるうちは、まだ正気だ。たぶん。


     *


 宮殿は、もう目の前だった。


 暗さそのものが固まったような、巨大な建造物。その扉の向こうに、イザナミがいる。


「……一つ、約束してください」とヒサメ。


「なんだ」


「——一晩だけ、待ってください。イザナミさまが、あなたを迎える準備をします。突然入ると——あなたが危険です」


 俺は扉を見た。向こうから、何かの気配がする。ただ——大きい。


「約束する。一晩、待つ。扉は開けない」


「……ありがとうございます」


 ヒサメが、礼を言った。


 ……こいつが「ありがとう」なんて言うのは、初めてだった。不自然なほど、丁寧に。何かが、引っかかった。


「では、私が中に伝えてきます」


「おまえが入れるのか」


「私は——どこでも入れます」


 扉が音もなく少し開き、ヒサメが中へ消えた。扉が、また閉まる。


     *


 扉が閉まると、初めて、一人になった。黄泉に来て、初めて。


 俺は扉の前に座った。剣は手放さない。感情は、少しずつ戻ってきている。


 創造物たちが、周りに集まって、静止していた。イザナミの輪郭を持つやつが、いちばん近くにいる。


 ……おまえたちは、俺の感情の形だろう。なぜ、俺を守るように、いる。


 答えはない。ただ、そこにいる。


 感情でできた存在が、俺を守っている。おかしい。おかしいと思えるうちは、まだ正気だ——と、また同じことを考えた。同じことばかり考えているのも、たぶん、いい兆候じゃない。


     *


 待つあいだ、俺は周りの創造物を眺めて、ひとつの結論を出した。


 これは全部、俺が壊れているから産まれるものだ。俺の狂気が、形になっただけ。黄泉に長くいすぎて、言霊が歪んだ。それだけの、単純な話だ。


 イザナミに会えば、こんな歪んだものたちも、消えるだろう。


 筋は通っている。納得もできる。


 ——そう思った瞬間、創造物たちが、わずかに揺れた。


 まるで、違う、と言いたげに。


 俺は、気づかなかった。


 もう一度、強く揺れる。何かに反応するように。


 ——何だ。


 何かを、思い出しかけた。掴めない。掴めないまま——記憶のほうから、勝手にやってきた。


     *


 思い出したくなかったのに、思い出した。


 高天原での、ある日のことだ。


 イザナミが、何かを作っていた。手を動かしながら、鼻歌みたいに歌っている。


『……できた、できた』


「何ができた」


『——見てから言う』


 振り向いて、あいつは笑った。手の中にあったのは——小さな、光の塊。形のない、ただ暖かい光。


 今、俺の周りにいる、こいつらと、同じだ。


『これはね、嬉しいの形。感情にも形があると思って、作ってみたの』


 ……記憶が、消える。現実に戻る。宮殿の前。俺を囲む、光の形たち。


 俺は、それを見渡した。


 おまえが、最初にやっていたのか。感情に、形を与えることを。


 創造物たちが——今度は、大きく揺れた。全員が、同時に。


 俺は、おまえの真似を、していたのか。


 狂気じゃ、なかった。


 壊れているわけでも、なかった。


 俺は——おまえを、作ろうとしていたんだ。


 ずっと。気づかないまま。


 ……笑えてくる。世界を作った神が、たった一人の女を作れずに、こんな出来損ないの光ばかり、量産していたわけだ。


     *


 時間が経った——感覚だけがある。


 扉の向こうから、気配がする。イザナミの気配。確かに、そこにいる。


 俺は立ち上がって、扉に近づいた。手を伸ばす。触れる手前で、止める。指先と扉の間、数センチ。その数センチが、やけに遠い。


 約束した。一晩待つと、約束した。


 一晩の、どこまで来た。もう、終わったか。


 扉の向こうで、何かが、すぐ内側にいる。俺を、感じている。


 ……イザナミ。おまえも、俺を感じているか。


 気づくと、手が、扉に触れていた。


 ——開けては、いない。ぎりぎりで。


     *


 扉が、向こうから開いた。


 ヒサメが出てくる。俺は、扉に手を触れたまま、振り向いた。


「……準備が整いました」


「……そうか」


 ヒサメが、扉に触れたままの俺の手を見た。何も言わない。笑顔のまま。その沈黙が、全部を言っていた。


「……触れただけだ」


「……そうですね」


 言い訳が、みっともなく響いた。


「イザナミは、何と言っていた」


「……一つだけ、条件があります」


「条件」


「扉の中では——決して、驚いた声を上げないでください。どれほど、見たものが、予想と違っても。声を上げると——イザナミさまが、傷つきます」


 ……予想と、違っても。


 それは、つまり——どういう意味だ。


 俺は、扉を見た。


「——わかった」


     *


 扉の前に立つ。創造物たちは、後ろで止まっている。入ってこない。


「こいつらは、入れないのか」


「外で待っています」


「……戻ってきたとき、消えているか」


「……わかりません」


 俺は、最後に創造物たちを振り返った。悲しみ。愛情。怒り。後悔。恐怖。全部、イザナミに向いている。


 ——行ってくる。


 創造物たちが、わずかに揺れた。


「準備はいいですか」とヒサメ。


「……声を上げない。それだけだろう」


「それだけです」


 ヒサメが、小さく付け足した。


「——それが、最も難しいのですが」


 ……本当に、最後まで不吉な奴だ。


 俺は扉に手をかけた。今度は、開ける意志を持って。左目は暗く、右目は金色。傷だらけの体。黒ずんだ肩。それでも、手は動く。


 扉を、開ける。会いに、行く。


     *


 扉が、開いた。


 光ではない。闇でもない。向こうから、何かが漏れ出してくる。腐った甘さ——いや、違う。花の匂いに似た、けれど花ではない、何かの匂い。


 後ろで、創造物たちが、震えていた。俺の体は震えていないのに、感情だけが、先に何かを知っている。


「——私は、ここで待ちます」と、ヒサメ。


「……なぜ」


「この先は——二人の場所です」


 俺は、扉の中へ、一歩、踏み込んだ。


     *


 扉の向こうは、暗かった。


 一歩。二歩。目が慣れていく。


 暗さの中に、何かの輪郭が、見え始めた。


 人の形をした、何かの輪郭。大きい。座っている。こちらを、向いている。


 声を上げるな。何を見ても、声を上げるな。


 暗闇の中に、二つの光点が見えた。


 目だ。


 その目が——こちらを、見ている。静かに。動かない。ただ、見ている。


 それは——


 ——おまえの目だ。

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