第三話 泥の平野
夢を見た。
忘れることにした。
目を覚ますと、ヒサメはもう立って、俺を待っていた。岩の地面に背を預けたまま、俺は自分の左目に手を当てる。一瞬だけ。
……変わっていない。
変わっていないと、思うことにした。思うことにする、というのは、たぶん、もう変わっているということなんだろう。気づかないふりはわりと得意だ。
「今日は深部に入ります」とヒサメ。
「昨日と何が違う」
「幻の——質が、変わります」
「構わない」
ヒサメが、小さく独り言のように呟いた。
「……そう言えるうちは、いいですね」
いちいち不吉な奴だ。
*
歩くにつれて、泥の色が変わっていった。黒から、赤黒へ。地面に浮かぶ顔の数も、増えている。
空気が、揺れていた。熱ではない。記憶が形を持ちかけているような、ぬるい揺らぎ。吸い込むと、舌の上に「味」がした。
「ここの泥は、死者の感情が濃い場所です」とヒサメ。「特に——後悔の感情が」
「後悔」
「死ぬ前に言えなかった言葉。やり直したかった記憶。そういうものが、ここに積もっています」
心当たりがありすぎて、俺は黙った。
*
その幻は、優しい顔で始まった。
『ねえ、イザナギ』
高天原の、白い光。イザナミが笑っている。あの夕暮れの会話だ。
『次は何を産みましょうか』
知っている。何度も見た幻だ。今さら騙されるか——と思った、その続きがあった。
イザナミが、振り返る。その顔が、少し違う。目が、暗い。
『……どうして、あのとき』
「何が」
『止めてくれなかったの』
俺は、足を止めた。
……それは。それは、おまえが言うことか。
幻が消える。赤黒い泥だけが残った。気づくと、俺の拳は固く握られていた。
「深部の幻は、本人の後悔を反映します」と、ヒサメが静かに言う。「死者の記憶と、あなたの記憶が混ざり合う。どちらが本物か——区別する方法は、ありません」
最悪の仕様だな。
*
歩きながら、別の記憶がよぎった。
カグツチが産まれた、あの夜。炎が広がって、イザナミが「熱い」と呟いた瞬間。俺は炎を掴もうとした。手が焼けても、止めようとした。確かに、止めようとした。
——はずだった。
なのに、記憶の中の俺が、動いていない。ただ突っ立って、炎が広がるのを、見ている。
違う。俺は動いた。確かに動いたんだ。これは——幻だ。
額に、汗が滲んでいた。
本物の記憶と、幻の記憶が、混ざっている。どっちが、本物だ。
ヒサメが、珍しく正面から俺を見た。笑顔のまま、声だけが少し変わる。
「一つ、教えておきます。深部では——幻を信じた瞬間に、現実になります」
「どういう意味だ」
「幻のイザナミさまが『来ないで』と言ったとき。あなたが本当にそう思われたと、信じた瞬間——その幻は、真実になる」
「黄泉が、記憶を書き換えるということか」
「いいえ。あなた自身が、書き換えます」
……俺が、自分で記憶を壊す。そういうことか。
悪趣味にもほどがある。
*
泥の平野の果てで、地面から「それ」が生えていた。
骨だ。人の骨が、木みたいに地面から伸びている。最初はまばらに。奥へ行くほど、密に。
「未練が強すぎると、体が残るんです」とヒサメ。「魂は溶けても——骨だけが、残る」
一本の骨が、震えるような声を出していた。
『……帰りたい。……まだ、帰りたい』
俺は、顔をしかめた。
——俺と、同じことを言っている。
「腐骨の森です」とヒサメ。「ここからが、本当の深部です」
*
森に入ると、音が変わった。
風はないのに、骨と骨がぶつかって鳴っている。その音の中に、声が混じっていた。
『……見てほしかった』『……謝りたかった』『……もう一度だけ』
「うるさい」
思わず口に出た。
ヒサメの歩調が、いつもより少し速い。
「おまえでも、ここは嫌か」
「嫌いではありません。ただ——声が、多すぎるので」
一本の骨が、ひときわ大きく声を出した。
『——おまえも、後悔しているだろう』
俺は、足を止めた。
『止められなかった——そう思っているだろう。カグツチが産まれると、わかっていたはずだ。火の神は、必ず母を焼く。創造神のおまえが、それを知らなかったと?』
……違う。知らなかった。
知らなかった、と、俺は胸の中で繰り返した。何度も。何度も繰り返さなければならない時点で、何かが、まずいのかもしれない。
剣の柄に、手が伸びていた。斬ってやろうと。
「——斬らないでください」と、ヒサメが素早く止めた。「斬ると、声が増えます。骨は砕けても、声は残る」
俺は手を離し、歩き続けた。声を無視して。
無視しきれては、いなかったが。
*
森の奥で、幻が来た。今度は、じわじわと。
イザナミが、正面を向いている。生前の顔。けれど——怒っていた。はっきりと。高天原でも地上でも、見せなかった顔だ。
『なぜ来たの』
「迎えに来た」
『迎えに——? 私が、ここにいたいとは、考えなかったの?』
俺は、答えに詰まった。
『あなたは——いつも、私の気持ちを聞かなかった』
幻が消えた。骨の森だけが残る。俺は、動けなかった。
「……幻だ」と、俺はかろうじて言った。
「そうです」とヒサメ。それから、少し間を置いて。「……幻は、嘘ではありません。あなたの中にある問いが、形になっているだけです」
それが、いちばん効いた。
*
「おまえは」と俺は聞いた。「イザナミが、俺を恨んでいると思うか」
ヒサメは、珍しく、すぐに答えなかった。
「わかりません。イザナミさまは、今は違う状態ですから。生前に何を思っていたかは、本人にしか」
「……会えば、わかるか」
「会えば、わかります。ただ——それが、あなたの望む答えかどうかは」
俺は立ち上がって、また歩き出した。背中が、少し丸まっているのが、自分でもわかった。
会えばわかる。それだけで、十分だった。今は、それだけを信じることにした。
——後ろで、ヒサメが何か呟いた気がした。聞き取れなかった。聞かないほうが、よかった気もする。
*
その気配は、番人とは違った。
もっと、生き物に近い。骨の隙間を、四つ足で、音もなく移動する影。
ヒサメの笑顔が、固まっていた。
「……来ました」
「何が来た」
「ヨモツシコメです」
「初耳だ。番人と違うのか」
「全く、違います。番人は、黄泉の意志が作った守護者。でもヨモツシコメは——かつて人間だった者が、黄泉に侵食された、成れの果てです」
骨の隙間から、それは出てきた。
かつて女だった、何か。腕が六本。頭が大きすぎる。顔に、目が八つ。腐りかけているのに、まだ完全には朽ちていない。生きているような、死んでいるような——どちらでもない恐怖。
「どこを斬れば止まる」
「止まりません」とヒサメ。「ヨモツシコメの核は、感情です。怨念が消えない限り、何度でも再生します」
最高だな。本当に、最高だ。
*
ヨモツシコメは、速かった。
四つ足のまま、異常な速度で円を描く。突進してくる。俺は踏み込んで胴を斬った。手応えはあった——が、切断面が、黒い何かを溢れさせて、すぐに再生する。
ヒサメの言った通りだ。
『……生きて、いる。なぜ、生きて——いる』
感情が、怨念が、こいつを動かしている。ならば——と、言霊を発しようとした、その瞬間。
『——なぜ来たの』
骨の声に混じって、イザナミの声がした。集中が、乱れる。
視界が、一瞬、幻に覆われた。怒ったイザナミの顔。
『あなたは、いつも、私の気持ちを聞かなかった』
「今は——今じゃない——!」
爪が、肩をかすめた。着物が裂け、血が飛ぶ。
……まずい。幻を遮断しないと、戦えない。だが、遮断する方法が——わからない。
*
ヨモツシコメが、また突進してくる。
考えるな。
感じるな。
ただ、斬れ。
俺は、感情を閉じた。表情を消す。頭の中を、空っぽにする。妙な話だが、怒りに任せて何も感じなくなった瞬間、左目の曇りが、すっと晴れた気がした。
幻は、来なくなった。感じなければ、記憶も呼ばれない。
斬る。再生する。また斬る。機械みたいに、繰り返す。
すると——ヨモツシコメの動きが、鈍くなってきた。再生が、遅い。
……感情を閉じたことで、幻が来なくなった。それが、こいつの力を削いでいるのか。
「——消えろ」
言霊が、ヨモツシコメを吹き飛ばした。
が、消えはしない。骨の森の奥へ、弾き飛ばされただけだ。奥で、再生し始める音がする。
「……言いましたよ。死なないと」
「わかっている」
倒せない敵がいる。黄泉では、そういうことがあるらしい。
なら——振り切る。それだけだ。
*
走りながら、俺は言霊を使った。道を切り開くために。
「——開け」
骨の森が、道を開く。はずだった。
なのに、骨の隙間から産まれたのは、道じゃなかった。形のない、小さな光の塊。ゆらゆらと、頼りなく漂っている。
……これは、何だ。俺は「開け」と言ったはずだ。
「……初めて、見ましたね」と、ヒサメが光を見て言った。
「何が起きた」
「言霊が、感情に引っ張られました。あなたの言霊は、意志で動きます。でも感情が乱れると——意志とは、別の形を取る」
光の塊は、形を持てないまま、消えていった。
俺の言霊が。俺の意志通りに、動かなくなった。
……それが、いちばん、こたえた。
*
「右に曲がってください——!」
ヒサメの指示で右に折れる。追ってきたヨモツシコメが、曲がりきれずに骨の木へ激突した。
なるほど。こいつが道を知っている。案内の価値は、確かにある。
走るうち、骨の森が薄くなり、出口が見えてきた。
『いる——いる——!!』
背後の声を振り切って、俺たちは森を抜けた。
——その瞬間、ヨモツシコメが、森の境界でぴたりと止まった。外に、出てこない。
「ヨモツシコメは、腐骨の森から出られません」とヒサメ。「骨の声が、彼女たちの怨念を養っているので」
つまり、出たら飢えるわけか。化け物にも、化け物なりの事情があるらしい。
*
森の外は、静かだった。黒い岩の地面。骨はない。
肩の傷を確かめる。深くはない。が、傷口の周りが、少し黒ずんでいた。
「……黒ずんでいますね」とヒサメ。
「問題か」
「すぐには、問題ありません」
「すぐには、と言ったな」
「黄泉に長くいるほど、体が馴染んでいきます。それだけです」
馴染む。何度も聞く言葉だ。そのたびに、少しずつ、嫌な意味に聞こえてくる。
俺は傷から目を離し、前を見た。宮殿が、また少し、近くなっていた。
俺が黄泉に馴染みきる前に。
イザナミに、辿り着かなければ。
*
歩きながら、ヒサメが言った。
「次は、宮殿の手前です」
「手前に何がある」
「禁忌の場所です。——見てはいけないものが、あります」
「それを、俺に言うのか。先に」
「言わなければ、知らずに見てしまいますから」
「見たら、どうなる」
ヒサメは、一拍置いて、答えた。
「——正気が、戻らなくなります」
俺は、前を向いたまま、少しだけ笑った気がする。
正気、か。
……今の俺に、それがまだ、残っているのか。
そっちのほうが、よっぽど怪しい話だった。
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