表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
3/10

第三話 泥の平野

夢を見た。


 忘れることにした。


 目を覚ますと、ヒサメはもう立って、俺を待っていた。岩の地面に背を預けたまま、俺は自分の左目に手を当てる。一瞬だけ。


 ……変わっていない。


 変わっていないと、思うことにした。思うことにする、というのは、たぶん、もう変わっているということなんだろう。気づかないふりはわりと得意だ。


「今日は深部に入ります」とヒサメ。


「昨日と何が違う」


「幻の——質が、変わります」


「構わない」


 ヒサメが、小さく独り言のように呟いた。


「……そう言えるうちは、いいですね」


 いちいち不吉な奴だ。


     *


 歩くにつれて、泥の色が変わっていった。黒から、赤黒へ。地面に浮かぶ顔の数も、増えている。


 空気が、揺れていた。熱ではない。記憶が形を持ちかけているような、ぬるい揺らぎ。吸い込むと、舌の上に「味」がした。


「ここの泥は、死者の感情が濃い場所です」とヒサメ。「特に——後悔の感情が」


「後悔」


「死ぬ前に言えなかった言葉。やり直したかった記憶。そういうものが、ここに積もっています」


 心当たりがありすぎて、俺は黙った。


     *


 その幻は、優しい顔で始まった。


『ねえ、イザナギ』


 高天原の、白い光。イザナミが笑っている。あの夕暮れの会話だ。


『次は何を産みましょうか』


 知っている。何度も見た幻だ。今さら騙されるか——と思った、その続きがあった。


 イザナミが、振り返る。その顔が、少し違う。目が、暗い。


『……どうして、あのとき』


「何が」


『止めてくれなかったの』


 俺は、足を止めた。


 ……それは。それは、おまえが言うことか。


 幻が消える。赤黒い泥だけが残った。気づくと、俺の拳は固く握られていた。


「深部の幻は、本人の後悔を反映します」と、ヒサメが静かに言う。「死者の記憶と、あなたの記憶が混ざり合う。どちらが本物か——区別する方法は、ありません」


 最悪の仕様だな。


     *


 歩きながら、別の記憶がよぎった。


 カグツチが産まれた、あの夜。炎が広がって、イザナミが「熱い」と呟いた瞬間。俺は炎を掴もうとした。手が焼けても、止めようとした。確かに、止めようとした。


 ——はずだった。


 なのに、記憶の中の俺が、動いていない。ただ突っ立って、炎が広がるのを、見ている。


 違う。俺は動いた。確かに動いたんだ。これは——幻だ。


 額に、汗が滲んでいた。


 本物の記憶と、幻の記憶が、混ざっている。どっちが、本物だ。


 ヒサメが、珍しく正面から俺を見た。笑顔のまま、声だけが少し変わる。


「一つ、教えておきます。深部では——幻を信じた瞬間に、現実になります」


「どういう意味だ」


「幻のイザナミさまが『来ないで』と言ったとき。あなたが本当にそう思われたと、信じた瞬間——その幻は、真実になる」


「黄泉が、記憶を書き換えるということか」


「いいえ。あなた自身が、書き換えます」


 ……俺が、自分で記憶を壊す。そういうことか。


 悪趣味にもほどがある。


     *


 泥の平野の果てで、地面から「それ」が生えていた。


 骨だ。人の骨が、木みたいに地面から伸びている。最初はまばらに。奥へ行くほど、密に。


「未練が強すぎると、体が残るんです」とヒサメ。「魂は溶けても——骨だけが、残る」


 一本の骨が、震えるような声を出していた。


『……帰りたい。……まだ、帰りたい』


 俺は、顔をしかめた。


 ——俺と、同じことを言っている。


「腐骨の森です」とヒサメ。「ここからが、本当の深部です」


     *


 森に入ると、音が変わった。


 風はないのに、骨と骨がぶつかって鳴っている。その音の中に、声が混じっていた。


『……見てほしかった』『……謝りたかった』『……もう一度だけ』


「うるさい」


 思わず口に出た。


 ヒサメの歩調が、いつもより少し速い。


「おまえでも、ここは嫌か」


「嫌いではありません。ただ——声が、多すぎるので」


 一本の骨が、ひときわ大きく声を出した。


『——おまえも、後悔しているだろう』


 俺は、足を止めた。


『止められなかった——そう思っているだろう。カグツチが産まれると、わかっていたはずだ。火の神は、必ず母を焼く。創造神のおまえが、それを知らなかったと?』


 ……違う。知らなかった。


 知らなかった、と、俺は胸の中で繰り返した。何度も。何度も繰り返さなければならない時点で、何かが、まずいのかもしれない。


 剣の柄に、手が伸びていた。斬ってやろうと。


「——斬らないでください」と、ヒサメが素早く止めた。「斬ると、声が増えます。骨は砕けても、声は残る」


 俺は手を離し、歩き続けた。声を無視して。


 無視しきれては、いなかったが。


     *


 森の奥で、幻が来た。今度は、じわじわと。


 イザナミが、正面を向いている。生前の顔。けれど——怒っていた。はっきりと。高天原でも地上でも、見せなかった顔だ。


『なぜ来たの』


「迎えに来た」


『迎えに——? 私が、ここにいたいとは、考えなかったの?』


 俺は、答えに詰まった。


『あなたは——いつも、私の気持ちを聞かなかった』


 幻が消えた。骨の森だけが残る。俺は、動けなかった。


「……幻だ」と、俺はかろうじて言った。


「そうです」とヒサメ。それから、少し間を置いて。「……幻は、嘘ではありません。あなたの中にある問いが、形になっているだけです」


 それが、いちばん効いた。


     *


「おまえは」と俺は聞いた。「イザナミが、俺を恨んでいると思うか」


 ヒサメは、珍しく、すぐに答えなかった。


「わかりません。イザナミさまは、今は違う状態ですから。生前に何を思っていたかは、本人にしか」


「……会えば、わかるか」


「会えば、わかります。ただ——それが、あなたの望む答えかどうかは」


 俺は立ち上がって、また歩き出した。背中が、少し丸まっているのが、自分でもわかった。


 会えばわかる。それだけで、十分だった。今は、それだけを信じることにした。


 ——後ろで、ヒサメが何か呟いた気がした。聞き取れなかった。聞かないほうが、よかった気もする。


     *


 その気配は、番人とは違った。


 もっと、生き物に近い。骨の隙間を、四つ足で、音もなく移動する影。


 ヒサメの笑顔が、固まっていた。


「……来ました」


「何が来た」


「ヨモツシコメです」


「初耳だ。番人と違うのか」


「全く、違います。番人は、黄泉の意志が作った守護者。でもヨモツシコメは——かつて人間だった者が、黄泉に侵食された、成れの果てです」


 骨の隙間から、それは出てきた。


 かつて女だった、何か。腕が六本。頭が大きすぎる。顔に、目が八つ。腐りかけているのに、まだ完全には朽ちていない。生きているような、死んでいるような——どちらでもない恐怖。


「どこを斬れば止まる」


「止まりません」とヒサメ。「ヨモツシコメの核は、感情です。怨念が消えない限り、何度でも再生します」


 最高だな。本当に、最高だ。


     *


 ヨモツシコメは、速かった。


 四つ足のまま、異常な速度で円を描く。突進してくる。俺は踏み込んで胴を斬った。手応えはあった——が、切断面が、黒い何かを溢れさせて、すぐに再生する。


 ヒサメの言った通りだ。


『……生きて、いる。なぜ、生きて——いる』


 感情が、怨念が、こいつを動かしている。ならば——と、言霊を発しようとした、その瞬間。


『——なぜ来たの』


 骨の声に混じって、イザナミの声がした。集中が、乱れる。


 視界が、一瞬、幻に覆われた。怒ったイザナミの顔。


『あなたは、いつも、私の気持ちを聞かなかった』


「今は——今じゃない——!」


 爪が、肩をかすめた。着物が裂け、血が飛ぶ。


 ……まずい。幻を遮断しないと、戦えない。だが、遮断する方法が——わからない。


     *


 ヨモツシコメが、また突進してくる。


 考えるな。


 感じるな。


 ただ、斬れ。


 俺は、感情を閉じた。表情を消す。頭の中を、空っぽにする。妙な話だが、怒りに任せて何も感じなくなった瞬間、左目の曇りが、すっと晴れた気がした。


 幻は、来なくなった。感じなければ、記憶も呼ばれない。


 斬る。再生する。また斬る。機械みたいに、繰り返す。


 すると——ヨモツシコメの動きが、鈍くなってきた。再生が、遅い。


 ……感情を閉じたことで、幻が来なくなった。それが、こいつの力を削いでいるのか。


「——消えろ」


 言霊が、ヨモツシコメを吹き飛ばした。


 が、消えはしない。骨の森の奥へ、弾き飛ばされただけだ。奥で、再生し始める音がする。


「……言いましたよ。死なないと」


「わかっている」


 倒せない敵がいる。黄泉では、そういうことがあるらしい。


 なら——振り切る。それだけだ。


     *


 走りながら、俺は言霊を使った。道を切り開くために。


「——開け」


 骨の森が、道を開く。はずだった。


 なのに、骨の隙間から産まれたのは、道じゃなかった。形のない、小さな光の塊。ゆらゆらと、頼りなく漂っている。


 ……これは、何だ。俺は「開け」と言ったはずだ。


「……初めて、見ましたね」と、ヒサメが光を見て言った。


「何が起きた」


「言霊が、感情に引っ張られました。あなたの言霊は、意志で動きます。でも感情が乱れると——意志とは、別の形を取る」


 光の塊は、形を持てないまま、消えていった。


 俺の言霊が。俺の意志通りに、動かなくなった。


 ……それが、いちばん、こたえた。


     *


「右に曲がってください——!」


 ヒサメの指示で右に折れる。追ってきたヨモツシコメが、曲がりきれずに骨の木へ激突した。


 なるほど。こいつが道を知っている。案内の価値は、確かにある。


 走るうち、骨の森が薄くなり、出口が見えてきた。


『いる——いる——!!』


 背後の声を振り切って、俺たちは森を抜けた。


 ——その瞬間、ヨモツシコメが、森の境界でぴたりと止まった。外に、出てこない。


「ヨモツシコメは、腐骨の森から出られません」とヒサメ。「骨の声が、彼女たちの怨念を養っているので」


 つまり、出たら飢えるわけか。化け物にも、化け物なりの事情があるらしい。


     *


 森の外は、静かだった。黒い岩の地面。骨はない。


 肩の傷を確かめる。深くはない。が、傷口の周りが、少し黒ずんでいた。


「……黒ずんでいますね」とヒサメ。


「問題か」


「すぐには、問題ありません」


「すぐには、と言ったな」


「黄泉に長くいるほど、体が馴染んでいきます。それだけです」


 馴染む。何度も聞く言葉だ。そのたびに、少しずつ、嫌な意味に聞こえてくる。


 俺は傷から目を離し、前を見た。宮殿が、また少し、近くなっていた。


 俺が黄泉に馴染みきる前に。


 イザナミに、辿り着かなければ。


     *


 歩きながら、ヒサメが言った。


「次は、宮殿の手前です」


「手前に何がある」


「禁忌の場所です。——見てはいけないものが、あります」


「それを、俺に言うのか。先に」


「言わなければ、知らずに見てしまいますから」


「見たら、どうなる」


 ヒサメは、一拍置いて、答えた。


「——正気が、戻らなくなります」


 俺は、前を向いたまま、少しだけ笑った気がする。


 正気、か。


 ……今の俺に、それがまだ、残っているのか。


 そっちのほうが、よっぽど怪しい話だった。

ご拝読いただきありがとうございました!

作者のモチベアップのために少しのお手間ですが、ご協力いただけると大変ありがたいです!


「続きをチェックしたい!」

→ 【ブックマークに追加】をポチッと!


「面白かった!」「続きに期待!」

→ 下にある【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】に!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ