第二話 黄泉比良坂
落ちている間、俺はわりと冷静に物事を考えていた。
たとえば——この穴、底はあるのか、とか。途中で気が変わって登りたくなっても、もう手遅れだな、とか。どうにも後ろ向きな考えばかりが浮かんでくる。落下というのは、人を哲学的にするらしい。
頭上を振り返ると、入り口の光が豆粒ほどに縮んでいた。あれが、俺の知る「生」の世界の、最後の光だ。
やがて落下の速度が、ふっと緩んだ。水の中を沈むみたいに。
重力が、違う。
俺は、黒い土の上に降り立った。
——いや、「土」と呼んでいいのか、これは。微かに光って、脈打っている。足の裏から、無数の囁きみたいなものが這い上がってくる。
「地面が、生きてるのか」
顔を上げて、俺は口をつぐんだ。
空がない。あるのは黒い岩の天井だけ。地平線まで続く、果てのない黒い平野。その遠くに、宮殿らしき影がひとつ。
これが、黄泉。死者の国。
——俺が作った世界の、裏側ってわけか。
足元の土に、ぼこ、ぼこ、と顔が浮かんでは消える。死者の顔だ。地面に溶けている。
息を吸うと、甘い匂いがした。腐った果実みたいな、それでいて不思議と不快じゃない甘さ。
その「不快じゃない」が、いちばん気に入らなかった。
慣れるな。ここの何にも、慣れるな。
*
俺は歩き出した。一歩、二歩。
……景色が、変わらない。
ちゃんと歩いている。土も踏んでいる。なのに、宮殿の影が一向に近づかない。
「空間が、まともじゃないな」
立ち止まって周りを見回すと、一か所だけ、やけに影の濃い場所があった。そこだけ、空気が違う。
その影の中から、二つの目が、こっちを見ていた。子供の背丈ほどの高さに。
「迷ってますか?」
俺は反射的に剣の柄へ手をやった。
「——誰だ」
影から、それは出てきた。
十歳くらいの子供。けれど、目がない。瞼のあるべき場所が、つるりとした皮膚で塞がれている。そのくせ口だけは、にこにこと笑っていた。手には、火のついていない朽ちた蝋燭。
控えめに言って、最悪に不気味だった。
「こんにちは」と、それは言った。「珍しいですね。生きた神が降りてくるなんて」
「おまえは何だ」
「ヒサメといいます」
「黄泉の住人か」
「さあ——どうでしょう」
はぐらかしやがった。目がないのに器用な奴だ。
ヒサメと名乗った子供は、火の消えた蝋燭を、すっと差し出してきた。
「案内してあげましょうか。この国は方向が変わるんです。一人では、たどり着けませんよ」
「なぜ案内する」
「おもしろいから」
即答だった。少なくとも、嘘をつく気はないらしい。不気味なのは変わらないが。
俺は少し考えた。信用はできない。それは間違いない。だが、道案内が要るのも事実だ——さっき歩いて、痛いほどわかった。
「条件がある」
「どうぞ」
「俺を騙したら、殺す」
ヒサメは笑顔のまま、ほんの少しだけ黙った。
「……面白い条件ですね。ここでは死なない者もいますけど——まあ、いいでしょう」
聞き捨てならない前置きを、さらっと流された。
ヒサメが歩き出すと、火のついていない蝋燭のまわりだけ、ぼんやりと明るい。理屈は聞かないことにした。どうせ「さあ」しか返ってこない。
「イザナミさまに、会いに来たんですよね」
「……知っているのか」
「ここでは皆、知っていますよ。生きた神が来た——もう、この国全体が感じてます」
言われて見渡すと、確かに何かがこっちを見ている気がした。地面の脈動が、さっきより少し速い。
黄泉が、俺を認識した。歓迎されている気配は、微塵もしないが。
*
ヒサメが先導すると、今度はちゃんと景色が動いた。歩いた分だけ、前に進む。
当たり前のことが、この国ではありがたい。それだけで、ここの理不尽さが知れる。
やがて地面が、黒から泥色に変わった。じゅく、と足が沈む。
「泥の平野です」とヒサメ。
「何がある」
「記憶です。死者の記憶が染みてます。触れると——見えますよ。触れなければ、大丈夫……かもしれません」
「かもしれません」の多い子供だ。
俺は泥を踏まないよう、慎重に進んだ。が、道が狭い。どうしても、足の裏が泥に触れる。
その瞬間。
視界に、何かが割り込んできた。
『ねえ、イザナギ。次は何を産みましょうか』
イザナミだった。生前の顔。温かい目。あの夕暮れの——
俺は、危うく笑いかけた。
幻だ。
首を振ると、映像は消えた。
「見えましたか」と、ヒサメが前を向いたまま言う。
「……ただの幻だ」
「そうです。——でも、本物と区別できますか?」
俺は、答えなかった。
たぶん、それが答えだった。
*
しばらく進むと、静寂が、やけに耳についた。
静かすぎる場所では、自分の足音だけが異物みたいに響く。
俺は剣の柄に手をかけた。
「……来る」
「気づきましたか。早いですね」
地面が揺れ、泥の中から腕が伸びてきた。やたらと長い腕。続いて、全身が泥でできた、顔のない化け物が立ち上がる。三メートルは超えている。
「黄泉の番人です。生きた者を感知すると出てきます。倒せますか?」
「倒す必要があるか」
「通してくれないと思いますよ」
なら、仕方ない。
俺は剣を抜いた。番人が腕を横薙ぎに振るう。図体のわりに——遅い。
しゃがんで躱し、踏み込んで胴に剣を叩き込む。手応えはあった。が、切り口がぬるりと塞がっていく。
「泥を切っても、意味がないか」
俺は距離を取って観察した。斬っても無駄。殴っても、泥は形を変えるだけ。
なら——形じゃない。泥を動かしている、何かだ。
顔のないのっぺりとした胸の、中心。そこだけが、微かに光っていた。
あそこか。
俺は番人の腕を足場に駆け上がった。払い落とそうと腕が動く。間に合わない。
「言霊——」
口を開く。光の言葉が、溢れる。
「貫け」
剣が光を帯び、胸の核を、まっすぐ撃ち抜いた。
体が泥に崩れ、地面へ還っていく。あとには、何も残らなかった。
消えた。だが、これは「死んだ」のか? ここでは、死の意味すら違うのかもしれない。
パチ、パチ、と音がした。
ヒサメが拍手していた。無表情で。感情のこもらない、その拍手のほうが、化け物より怖い。
「さすがですね」
「……次も来るか」
「たくさん来ます。奥へ進むほど、強く、多く」
最高だな。
剣を納めながら、俺は自分の手を見た。
……震えている。
疲労か。それとも、別の何かか。
*
番人のいた場所を通り過ぎても、痕跡ひとつ残っていなかった。黄泉は、何も覚えていない。
「おまえは、戦わないのか」
「私は案内役ですから」
「番人は、おまえを襲わなかった。なぜだ」
「……さあ、なぜでしょうね」
また「さあ」だ。こいつの「さあ」を集めたら、辞書が一冊できる。
「イザナミは、どんな状態だ」
ヒサメの足が、少しだけ止まった。
「変わっています」
「……詳しく言え」
「それは、直接見たほうがいいでしょう。言葉では、正確に伝わらないものですから」
俺は前を向いた。自分の顔が、わずかに強張るのがわかる。
変わっている。どう、変わったのか。
知りたい気持ちと、知りたくない気持ちが、同時にあった。
こんな感情は、生まれて初めてだった。
*
その後も、番人は来た。今度は三体まとめてだ。
核の位置は個体ごとに違うらしく、いちいち探させられる。手間な奴らだ。おまけに、泥の腕が肩をかすめた拍子に、泥が皮膚へ染みこんできた。払っても、落ちない。
これは、まずいやつだ。
「言霊——砕け」
三方向に光の刃を展開し、三体の核を同時に砕く。爆音とともに、泥が四散した。
決まったのはいい。だが、肩の泥は、まだそこにある。
「黄泉の泥に触れましたね」と、近づいてきたヒサメ。
「問題があるか」
「記憶が、少し見えやすくなります」
「それだけか」
「……今のところは」
その「今のところは」が、いちばん厄介なんだ。
それでも俺は立ち上がった。泥のついた手を見て、それから、先を見た。
「構わない。進む」
ヒサメが、ぽつりと呟いた。
「……止まれない人でしたか」
*
遠くに、宮殿が見えてきた。
「宮殿」と呼ぶには、奇妙すぎた。生きた建物みたいに、形が絶えず変わり続けている。暗さそのものが集まって固まった——そういう建造物だった。
あそこに、イザナミがいる。
そう思った瞬間、俺の足が——止まった。一歩が、出ない。
怖い。
初めて、正直にそう思った。
「まだ遠いですよ」とヒサメ。「今日中には着きません」
「黄泉に、昼夜はあるのか」
「ありません」
「では、どれくらいかかる」
ヒサメは、少し考えてから言った。
「あなたが、どれだけ正気でいられるか——によります」
どういう意味だ、と聞いたら、「進めばわかります」と返ってきた。
こいつの返事は、いつもそうだ。
*
歩き続けるうちに、また幻が見えた。
今度は、泥に触れてもいないのに。ただ歩いているだけで、イザナミの姿が浮かぶ。
『……来ないで』
さっきとは、違う言葉だった。
来ないで——?
お前が、それを言うのか。俺を呼んだのは、お前との約束だろう。
「黄泉に馴染んできた証拠です」と、ヒサメが静かに言った。「いいことなのか、悪いことなのかは——わかりませんが」
俺は自分の手を見た。泥の痕が、少し色を変えて、皮膚に馴染み始めている。
俺は——変わって、いるのか。
*
「おまえは、何者だ。本当のことを言え」
「本当のことは言っています」
「全部は言ってないだろう」
「……鋭いですね」
ヒサメは、前を向いたまま続けた。
「私は、この国に長くいます。死んだのかもしれません。覚えていないんです、最初のことが。ただ——ここにいる。ずっと。誰かが来るのを、待っていた気がします」
「俺を、か」
「さあ。でも——来てよかったと思っていますよ」
その横顔から、一瞬だけ、笑みが消えた。本当に、一瞬だけ。
俺はこいつを信用していない。それは変わらない。
ただ——嘘はついていない。全部を言っていないだけだ。
それは、俺も同じか。
*
開けた場所で、ヒサメが足を止めた。泥ではなく、黒い岩の地面。
「ここで少し休んでください」
「黄泉で眠れるのか」
「眠れます。ただ——夢は見ます。黄泉の夢は、記憶の夢です。見たくないものも、見えますよ」
「……構わない」
俺は岩に背を預けて座った。剣は手放さない。目を閉じる。
眠りに落ちる、その瞬間——
あいつの声が、聞こえた気がした。
*
夢の中は、真っ白だった。
その中に、イザナミが立っている。生前の姿。けれど——こちらに背を向けていた。
『……来ないでよかったのに』
振り返らない。
俺は近づこうとした。が、距離が縮まらない。さっきの平野と、同じだ。何をどうしても、近づけない。
「——イザナミ」
『あなたは、もう変わり始めている』
「何が変わった」
『——目が』
足元の泥に、自分の顔が映っていた。
左目が——黒く、濁っていた。
*
目を開けた。
傍で、ヒサメが笑顔のまま座っていた。
「よく眠れましたか」
「……ああ」
俺は、そっと自分の左目に触れた。
何も、変わっていない。
——と、思いたかった。




