第一話 産声と断末魔
はっきり言って、世界を作る仕事は、退屈だった。
俺の名はイザナギ。一応、この世界を産み出すために生まれた神、ということになっている。海に矛を突っ込んでかき混ぜて、引き上げる。滴った雫が固まって島になる。以上。これを毎日やる。
誰がやっても同じだろ、と思うのだが、上の連中——高天原のお偉い神々——は「お前たち夫婦にしかできない尊い仕事だ」とか言って、雲の上から優雅に眺めているだけだ。自分では矛一本持たないくせに。
「ねえイザナギ、聞いてる?」
「聞いてる」
聞いていなかった。
隣で大地に手を当てているのが、俺の妻、イザナミ。こいつが触れた場所からは花が咲く。俺の島より明らかに評判がいい。納得いかない。
「次は何を産みましょうか」
「……海を」
「もう産みましたよ。三度も」
知っている。三度目に産んだとき、こいつに同じことを言って同じように笑われた。なのに毎回うっかり「海」と言ってしまう。たぶん俺は、こいつに笑われるのが、そんなに嫌いじゃないんだと思う。
……今のは聞かなかったことにしてくれ。
「続きは明日にしましょう」
イザナミが俺の手に、自分の手を重ねてきた。
俺は空を見上げた。さっき適当に作った夕焼けが、思ったより悪くない色をしていた。
明日。
その言葉を、俺は当たり前に信じていた。
——これが、後で死ぬほど後悔する台詞だと、このときの俺はまだ知らない。
*
「火の神が宿った気がします」
ある日、イザナミが自分の腹を撫でながら、世間話みたいにそう言った。
俺は腹に手を当てて、即座に後悔した。
熱い。
冗談じゃなく熱い。鍋に素手を突っ込んだような熱が、薄い皮膚越しに伝わってくる。こんなものを内側に飼っているのか、こいつは。
「おい、これ——」
「大丈夫ですよ」
イザナミは笑った。額に汗が滲んでいるのに、笑った。
「火は、世界に必要なものでしょう?」
必要かどうかなんて、俺の知ったことか。お前が無事ならそれでいい——とは、口が裂けても言えなかった。言ったら、たぶん一生からかわれる。
だから俺は、いつも通り何も言わなかった。
今でも思う。あのとき、何か言っておけばよかった、と。
*
産み月の夜、俺が作ったこの世界で、初めて嵐が起きた。
俺の作った空が、生まれて初めて荒れていた。稲妻が光るたび、その奥に炎の影が見えた気がした。気のせいだと思いたかった。
「イザナギ」
横になったイザナミが、静かに俺を呼んだ。
「ここにいる」
「産まれたら、名前を付けてくださいね」
「自分で付けろよ。お前のほうがセンスがいい」
「あなたが付けるから、いいんです」
反論できなかった。繋いだ手が、自分でも気づかないうちに震えていた。世界を作るのに迷ったことなんて一度もない、この俺の手が。
夜明け前。
イザナミの体から、光が溢れた。
最初は綺麗だった。金と朱の混じった、見惚れるような光。
でも——色が、変わっていく。金から赤へ。赤から、燃えるオレンジへ。
温かさが、熱に変わる。
「……熱い」
イザナミの笑顔が、わずかに歪んだ。痛い、と。それでも、口には出さなかった。
部屋の隅が、燃え始めた。
炎は生き物みたいに這い、やがて人の形をとった。輪郭だけの、小さな神。それでも確かに目があって、その目が、まっすぐ母を見ていた。
炎がイザナミに絡みつく。着物が焦げる。肌が焼ける。
「やめろ——! 離れろ!」
俺は炎を掴もうとした。手が焼ける。知るか。
「……離れたら」
イザナミは、燃えながら、笑った。
「産まれませんよ」
*
炎が天井まで届く柱になり、その中心から、火の神が産まれ落ちた。
全身が炎でできた、幼い神。金色の目だけが、ぎらついていた。
俺はそいつを見なかった。煙の中、ただイザナミだけを探した。
「イザナミ——! どこだ——!」
いた。
部屋の隅に、横たわっていた。動かない。体の半分が、焦げていた。
声が、出なかった。
*
炎が引いていく。
俺は彼女を抱き上げた。イザナミが薄く目を開ける。けれど、その瞳はもう、何も映していなかった。
「……産まれ、ましたか」
「産まれた」
声が、みっともなく震えた。
イザナミが笑った。それが、最後の笑顔だった。
「……よかった」
その一言を最後に、腕の中の体から、力が抜けていった。指が。首が。瞼が、ゆっくりと閉じる。
「……おい」
俺は囁いた。
「イザナミ。返事をしろ」
返事は、なかった。
握った手が、少しずつ冷たくなる。世界を半分作ったその手が、ただの冷たい何かに変わっていく。
窓の外では、夜明けが来ていた。俺が作った、最初の朝日。腹が立つほど、綺麗だった。
世界の創造は、続いていた。俺が止まっても、世界は止まってくれなかった。
俺は泣かなかった。
涙も、怒りも、何も出てこない。ただ胸の奥で、何かが——音もなく、壊れた。
お前が死ぬなんて。
そんなことが、あっていいわけがないだろう。
*
どれくらい、そうしていたのか。わからない。
気づけば朝日は高く昇り、俺はまだ同じ場所で、冷たくなった彼女を抱えたままでいた。
高天原の神々が、遠巻きにこっちを見ている。誰も近づいてこない。たぶん、近づけないんだろう。
俺は、世界を作ることしか知らない。
だから、こういうときどうすればいいのか——生まれて初めて、何ひとつ、わからなかった。
視界の端で、何かが揺れた。
火の神だ。宙に浮かんで、無邪気に炎をまき散らしている。母を焼いたことも知らずに。何も知らない、まっさらな顔で。
「お前が……」
俺は、ゆっくりとイザナミを地面に横たえた。自分でも驚くくらい、丁寧な手つきだった。
そして、生まれて初めて——本気で、誰かを殺したいと思った。
*
立ち上がった瞬間、空気が変わった。
遠くの神々が、悲鳴を上げて逃げ出す。
「逃げろ——! あの方の言霊が——!」
言霊。俺が言葉ひとつで、物でも概念でも神でも生み出せる、その力。それが今、制御を失いかけている。口を開けば、何が産まれるかわからない。空間がぐにゃりと歪む。
神々は一人残らず逃げた。
賢明だ。それでいい。
誰もいなくなった部屋で、俺は剣を抜いた。火の神は、まだ何も知らずに浮かんでいる。
「お前が産まれたことは、お前の罪じゃない」
俺は静かに剣を構えた。泣いてもいない。怒りすら、もう通り過ぎていた。ただ、やる。それだけだった。
火の神が、ようやく俺を見た。そして、生まれて初めての感情を覚えたらしい。
——恐怖を。
「——それでも、だ」
踏み込む。炎が剣に巻きついて焼く。構うものか。
振り下ろす直前、その幼い顔に、一瞬、母の面影が重なった。手が、揺れた。
お前の中に、お前がいる。
それでも俺は、剣を振り下ろした。
炎が裂けた。悲鳴はなかった。そいつはまだ、声を持っていなかったから。
地面に散った血から、勝手に、新しい神々が産まれ始めた。俺が産もうともしていない神が、次々と。
……創造も破壊も、結局は同じ場所から湧いてくるらしい。
剣を握る手が、焼け焦げて、震えていた。
怒りでは、なかった。
*
全部が終わった部屋で、俺は剣を地面に突き立て、膝をついた。
横たわるイザナミの顔には焦げ跡があったが、表情は穏やかだった。眠っているみたいに。
「……帰ってこい」
俺は彼女の顔を覗き込んだ。まだそこに、何かが残っているんじゃないかと、馬鹿みたいに探していた。
夜になっても、動けなかった。頭上では、俺が作った星が、何食わぬ顔で瞬いている。
——この世界は、俺が作った。
なら。
死人のいる世界だって、どこかに、俺が作ったはずだろう。
目の奥に、光が戻ってくるのを感じた。たぶん、まともな光じゃない。それでも、確かな意志が、そこにあった。
「黄泉、か」
俺は立ち上がった。全身傷だらけのはずが、痛みは感じなかった。
「取り返しに行く」
遠くで、逃げ遅れた神が囁くのが聞こえた。
「よ、黄泉へ……? 誰か止めないと——」
「やめておけ」と、別の声。「あの状態のイザナギさまを、止められると思うか」
正解だ。よくわかってるじゃないか。
*
黄泉比良坂。
地面が裂けて、底の見えない奈落が口を開けていた。光は届かない。空気が、腐った果実みたいな甘ったるい匂いを持っている。地面そのものが、生き物みたいに蠢いている。
近づくだけで、息が重くなった。
崖の端に立って、下を覗き込む。
底が、見えない。
ここから先は、二度と戻れないかもしれない。
——知っている。
俺は、一歩を踏み出した。
崖から、空中へ。
体が落ちていく。光が遠ざかる。下のほうから、何かの気配が這い上がってくる。
俺は、最後にひとつだけ、言霊を落とした。
「——イザナミ」
*
闇の中を、俺は落ち続けた。
黄泉の気配が、体に絡みついてくる。それでも、俺の目はもう、迷っていなかった。
ふと、闇の底に、何かがいるのに気づいた。
目だ。
無数の目が、こっちを見ている。
「……来た」
声がした。誰のものとも知れない、重なり合った声。
「生きた神が——来た」
死の国に、生きた神が、まっすぐ落ちていく。
その先で何が待っているのか。自分がこれからどう壊れていくのか。
——このときの俺は、まだ、何ひとつ知らなかった。
ご拝読いただきありがとうございました!
作者のモチベアップのために少しのお手間ですが、ご協力いただけると大変ありがたいです!
「続きをチェックしたい!」
→ 【ブックマークに追加】をポチッと!
「面白かった!」「続きに期待!」
→ 下にある【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】に!




