第9話 謁見の間に真実を並べて
謁見の間に足を踏み入れたとき、自分の足音だけが広い空間に響いた。
大理石の床。高い天井から降り注ぐ光。壁に並ぶ歴代王の肖像画が、こちらを見下ろしている。その視線の重さが、肩にのしかかるようだった。
正面に国王陛下の玉座。その傍らに宰相オスヴァルト。右手にドロテア様と王太子アルベルト殿下。左手にノエルとローレンツ。そして両脇に、立ち会いの貴族たちが列をなしていた。
宮廷裁判──正式には「御前裁定」と呼ばれる。国王臨席のもと、宮廷に関わる重大な不正を裁く場。宰相の進言により、今日この場が設けられた。
「ニーナ殿。前へ」
オスヴァルト宰相の声は穏やかだが、謁見の間の隅々まで届いた。老いてなお張りのある声。この人の言葉には、どこか不思議な重力がある。
一歩ずつ進む。膝が震えている。でも、歩幅は崩さない。テレーゼならきっと「しっかりしなさい」と背中を押してくれるだろう。コンラート伯爵なら「証拠を並べろ。それだけでいい」と言ってくれるだろう。
二人は、もういない。だから──私が、ここに立つ。
「宰相閣下のお許しを得て、申し立てをいたします」
ドロテア様が微笑んだ。完璧な微笑み。氷の瞳。何ひとつ動じていないように見える。銀の髪は今日も一筋の乱れもなく、紫水晶の瞳は冷たく澄んでいた。
アルベルト殿下は、もう少しわかりやすかった。唇の端がわずかに引きつっている。右手が無意識に玉座の肘掛けを握りしめている。
「まず、侍女テレーゼの死について申し立てます。宮廷はこれを事故として処理しましたが、石階段の手すりには人為的な加工の痕跡がありました」
息を整え、続ける。
「自然に折れた木材の断面は繊維状にほつれますが、当該の手すりには刃物で事前に切れ目を入れた痕がありました。根元にも、金属の道具で削った溝が確認されています」
列席の貴族たちの間に、さざ波のようなざわめきが走った。
「手すりの痕跡については、近衛騎士副隊長ノエルが現場を確認し、証言を行います」
ノエルが一歩前に出た。背筋をまっすぐに伸ばし、国王に一礼する。
「確認した。断面と根元の溝は、木材が自然に劣化したものではなく、刃物による人為的な加工と判断する」
短い。だが、近衛騎士の証言には重みがある。この宮廷では、近衛騎士は嘘をつかないという信頼がある。その信頼の上に立つ証言は、他の誰の言葉よりも重い。
「続いて、ドロテア公爵令嬢の居室に、断絶したハイリゲン辺境伯家の紋章が保管されていた件について申し立てます」
ドロテア様の微笑みが、ほんの一瞬──消えた。すぐに取り繕ったが、私は見逃さなかった。瞳が収縮した。動揺。
「断絶した家の紋章を個人が保有し、その血筋を根拠に領地の権利を主張することは、王国法に抵触します。ドロテア様はハイリゲン辺境伯家の血筋を秘密裏に保持し、東方貿易路の利権を獲得するための工作を行っていました」
西洋の裁判制度について、ふと、かつて学んだ知識が蘇る。古代ローマでは、法廷で証拠を提示する順序にも戦略があった。弱い証拠から強い証拠へと積み上げていく。最も強い証拠を最後に提示することで、裁定者の記憶に残るようにする。そして今、最も強い証拠を出す番だ。
ローレンツが前に進み出た。
「公爵家執事として五年間にわたり記録した、ドロテア様の取引の内容、密会の記録、金品の流れをすべてお伝えします。記録の原本は、コンラート伯爵の手配により、宰相閣下のお手元にあります」
ドロテア様がローレンツを見た。あの完璧な仮面が、ついに罅割れた。瞳に感情が走る。驚愕。そして──裏切られたという、剥き出しの怒り。
「ローレンツ。お前が──お前が、私を裏切るの」
「申し訳ありません、ドロテア様。ですが──先代のお志を守ることが、私の務めと信じております。先代は、公爵家の名誉を汚すことを何よりも恥じるかたでした」
ローレンツの声は静かだったが、震えてはいなかった。五年間の決意が、あの声に凝縮されていた。
西洋のテーブルマナーでは、食事中にナイフの刃を相手に向けることは敵意の表明とされる。
そもそも、ナイフの刃を内側に向けて置く作法が生まれたのは、中世の宴席で「私はあなたに刃を向ける意思がない」という平和の意思表示だったという。武器を食卓に持ち込まざるを得なかった時代の知恵だ。
今、この謁見の間で、私たちは刃を突きつけている。証拠という名の刃を。そして、それは正義のために向けられた刃だ。
オスヴァルト宰相が、コンラート伯爵の報告書の原本を広げた。
「宮廷監察官コンラート伯爵が、その職権をもって作成した正式な報告書である。ここに記載された事実と、ローレンツ殿の証言は一致する。さらに、侍従マティルデの動線記録の異常も確認された」
宰相は一度咳払いをし、厳かに続けた。
「王太子アルベルト殿下──弁明はおありか」
アルベルト殿下の仮面が、ついに剥がれた。完璧な笑顔が歪み、焦りの色が浮かぶ。
「これは──でっち上げだ。男爵令嬢ごときの妄言を真に受けるのか。執事の戯言を。証拠とやらも、偽造だろう」
「証拠は妄言ではございません、殿下」
私は深く息を吸った。
「テレーゼは、真実を見つけたから殺されました。コンラート伯爵は、正義を貫こうとしたから命を奪われました。この宮廷で、真実を語ることが命に関わるのなら──それは、王国の恥です」
謁見の間が静まり返った。風の音さえ止まったような沈黙。
国王陛下が、初めて口を開いた。老いた、しかし威厳に満ちた声。
「──宰相。裁定を」
「王太子アルベルト殿下とドロテア公爵令嬢を、宮廷法に基づき拘束いたします。すべての嫌疑について、正式な審理を行います」
ドロテア様が立ち上がった。完璧な微笑みは消え、代わりに──静かな怒りと、奇妙な誇りが入り混じった表情があった。負けを認めてはいない。けれど、この場での決着が覆らないことは理解している。
「ニーナ。男爵令嬢。──覚えておきなさい。私は負けたのではない。ただ、時が早すぎただけよ」
去っていくドロテア様の背中を見送りながら、私は心の中で思った。
(いいえ。あなたは負けたのです。──証拠に)
謁見の間を出たとき、ノエルが隣に立っていた。何も言わない。ただ、半歩前に。
私の足は震えていた。けれど、目は乾いたままだった。まだ──まだ、泣くには早い。
すべてが終わったわけではない。オスヴァルト宰相が、去り際に私に耳打ちした一言が、胸に引っかかっている。
「明日──私の庭園に来なさい。すべて話す」




