第8話 伯爵が遺した最後の手紙
「持病の発作」──それが、宮廷が下した結論だった。
またか、と思った。テレーゼのときと同じだ。不審な死を、宮廷は「不運な出来事」として処理する。真実より体面。証拠より秩序。いつだってそうだ。
コンラート伯爵の訃報は、宮廷に大きな動揺をもたらした。宮廷監察官という重職にあった人物の突然の死──さすがに、ただの事故と片付けるには重すぎる。廊下で囁き声が飛び交い、貴族たちの表情が曇り、普段は無関心な者たちまでが不安げに目を見交わしていた。
でも、それだけだ。誰も声を上げない。声を上げれば、自分が次になるかもしれないから。
私は知っている。伯爵は、あの手帳を持っていた。
ノエルとローレンツに、別々に連絡を取った。慎重に。人目につかない場所で、短い言葉だけを交わす。
「手帳は?」
ノエルは首を横に振った。
「伯爵の部屋を確認した。手帳は見つからなかった。部屋は整然としていたが──机の引き出しだけが空だった。中身を持ち去った人間がいる」
胸の奥が冷たくなる。証拠が消えた。五年分のローレンツの記録。テレーゼの死の真相に繋がる唯一の鍵。それが──奪われた。
「──終わりですか」
声が掠れた。拳を握りしめる。テレーゼ。伯爵。二人の死を無駄にするのか。ここで止まるのか。
「いや」
ノエルが懐から、一通の封書を取り出した。青い蝋封。伯爵の紋章。
「伯爵は、用心深い人だった。手帳を預かった夜、これを俺に託していた。「万が一のときのために」と──笑いながら」
封書を開けると、コンラート伯爵の筆跡で記された報告書の写しが入っていた。手帳の内容を要約し、宮廷監察官の権限で作成された正式な書面。日付、印章、監察官の署名──法的に有効な形式を完璧に備えている。
そして、末尾にこう書かれていた。
『この写しを作成するにあたり、原本は別の場所に保管した。万が一私の身に何かあった場合、宰相オスヴァルト殿下の元に原本が届くよう手配済みである。マティルデの動線記録の異常についても記載済み。ニーナ殿の安全を確保されたし』
目が潤んだ。伯爵は──自分の死を予見していたのだ。だからこそ、証拠を二重三重に保全した。手帳の原本は宰相に。写しはノエルに。一方を潰されても、もう一方が残る。
「伯爵は……最初から覚悟していた。自分の命が危ないことも、わかっていて」
「ああ。だから俺たちは、伯爵の意志を無駄にしない」
ノエルの声は低く、静かで、揺るぎなかった。その声の強さに、救われた。
手帳の原本は宰相のもとにある。宰相オスヴァルトは中立の立場だ。彼がこの証拠をどう扱うかが、すべてを決める。
だが、その前に──片付けなければならないことがあった。マティルデのことだ。
◇
翌日、私はマティルデを書庫に呼び出した。人の少ない午後を選んだ。
「相談したいことがあるんです」
マティルデは柔らかく笑って頷いた。いつもの「面倒見のいい先輩」の顔。でも──私にはもう、その笑顔の裏が見えている。
書庫の奥、人のいない一角で向かい合った。分厚い書架が壁のように左右を囲んでいる。外からは見えないが、声は通る。ノエルが隣の書架の陰にいることを、私だけが知っていた。
「ニーナ、大丈夫? コンラート伯爵のことで落ち込んでいるんじゃない?」
「ええ。ショックでした。──ところで、マティルデさん」
「なあに?」
「私が東の塔で刺繍を見たこと、ドロテア様に報告したのはあなたですよね」
空気が変わった。書庫の古い紙の匂いの中に、緊張の気配が混じる。
マティルデの笑顔が、氷のように固まった。一瞬──本当に一瞬だけ、目が泳いだ。唇が震えた。だがすぐに、笑みを取り繕う。年月をかけて身につけた仮面は、そう簡単には剥がれない。
「何のこと? ニーナ、疲れているのよ。最近いろいろあったから、考えすぎになっているんじゃない?」
「先日の夕刻、東の塔から戻った私にあなたは声をかけました。私が「刺繍があった」と答えた直後、あなたはドロテア様にそれを報告しています。その場面を、ノエル副隊長が目撃しています」
マティルデの唇がわずかに震えた。視線が左右に揺れる。逃げ道を探している目だ。
「さらに──コンラート伯爵の報告書に、あなたの動線記録の異常が記載されています。侍従のあなたが、業務時間外にドロテア様の居室に頻繁に出入りしていた記録です。侍従が王族居住区に無断で入ることは、規定違反です」
「……証拠は、あるの」
声が変わった。柔らかさが消え、冷たく硬い声。仮面が剥がれた瞬間の、むき出しの声。
「あります。伯爵が正式な書面として残しました。宰相の手元にも原本があります」
マティルデの顔から、血の気が引いた。膝が折れかけ、書架に手をついて体を支えた。
「私は──仕方がなかったのよ。ドロテア様に逆らえば、私の家族が……弟たちの学費も、母の暮らしも、全部あの方の支援で成り立っていたの。逆らえなかった。逆らったら、すべて失う」
「テレーゼにも、家族がいました」
声が震えた。怒りだけではない。悲しみだ。信じたかった。最後まで、この人は悪い人ではないと信じたかった。
「テレーゼの死に、あなたはどこまで関わっていましたか」
マティルデは答えなかった。ただ、目を逸らした。唇を噛み、こぶしを握りしめた。
それが、答えだった。
「マティルデさん。あなたがこれからどうするかは、あなた自身が決めてください。でも──私は、あなたのしたことを許すつもりはありません。そして──」
一呼吸、置いた。
「あなたの証言が、宮廷裁判で必要になるかもしれません。そのときは──自分の口で、真実を語ってください」
背を向けて歩き出した。涙は──流さなかった。まだ流すわけにはいかない。
マティルデはその夜、宮廷から姿を消した。
部屋の扉を開けたとたん、机の上に見慣れない封書があることに気づいた。白い蝋封に、複雑な紋章。宰相の印。
封を切った。短い文面が目に飛び込む。
『明後日、謁見の間にて。証拠は揃った』




