表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あなたには言っていませんが、あなたに会うのはこれが最後です。  作者: 渚月(なづき)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
8/10

第8話 伯爵が遺した最後の手紙

「持病の発作」──それが、宮廷が下した結論だった。


またか、と思った。テレーゼのときと同じだ。不審な死を、宮廷は「不運な出来事」として処理する。真実より体面。証拠より秩序。いつだってそうだ。


コンラート伯爵の訃報は、宮廷に大きな動揺をもたらした。宮廷監察官という重職にあった人物の突然の死──さすがに、ただの事故と片付けるには重すぎる。廊下で囁き声が飛び交い、貴族たちの表情が曇り、普段は無関心な者たちまでが不安げに目を見交わしていた。


でも、それだけだ。誰も声を上げない。声を上げれば、自分が次になるかもしれないから。


私は知っている。伯爵は、あの手帳を持っていた。


ノエルとローレンツに、別々に連絡を取った。慎重に。人目につかない場所で、短い言葉だけを交わす。


「手帳は?」


ノエルは首を横に振った。


「伯爵の部屋を確認した。手帳は見つからなかった。部屋は整然としていたが──机の引き出しだけが空だった。中身を持ち去った人間がいる」


胸の奥が冷たくなる。証拠が消えた。五年分のローレンツの記録。テレーゼの死の真相に繋がる唯一の鍵。それが──奪われた。


「──終わりですか」


声が掠れた。拳を握りしめる。テレーゼ。伯爵。二人の死を無駄にするのか。ここで止まるのか。


「いや」


ノエルが懐から、一通の封書を取り出した。青い蝋封。伯爵の紋章。


「伯爵は、用心深い人だった。手帳を預かった夜、これを俺に託していた。「万が一のときのために」と──笑いながら」


封書を開けると、コンラート伯爵の筆跡で記された報告書の写しが入っていた。手帳の内容を要約し、宮廷監察官の権限で作成された正式な書面。日付、印章、監察官の署名──法的に有効な形式を完璧に備えている。


そして、末尾にこう書かれていた。


『この写しを作成するにあたり、原本は別の場所に保管した。万が一私の身に何かあった場合、宰相オスヴァルト殿下の元に原本が届くよう手配済みである。マティルデの動線記録の異常についても記載済み。ニーナ殿の安全を確保されたし』


目が潤んだ。伯爵は──自分の死を予見していたのだ。だからこそ、証拠を二重三重に保全した。手帳の原本は宰相に。写しはノエルに。一方を潰されても、もう一方が残る。


「伯爵は……最初から覚悟していた。自分の命が危ないことも、わかっていて」


「ああ。だから俺たちは、伯爵の意志を無駄にしない」


ノエルの声は低く、静かで、揺るぎなかった。その声の強さに、救われた。


手帳の原本は宰相のもとにある。宰相オスヴァルトは中立の立場だ。彼がこの証拠をどう扱うかが、すべてを決める。


だが、その前に──片付けなければならないことがあった。マティルデのことだ。





翌日、私はマティルデを書庫に呼び出した。人の少ない午後を選んだ。


「相談したいことがあるんです」


マティルデは柔らかく笑って頷いた。いつもの「面倒見のいい先輩」の顔。でも──私にはもう、その笑顔の裏が見えている。


書庫の奥、人のいない一角で向かい合った。分厚い書架が壁のように左右を囲んでいる。外からは見えないが、声は通る。ノエルが隣の書架の陰にいることを、私だけが知っていた。


「ニーナ、大丈夫? コンラート伯爵のことで落ち込んでいるんじゃない?」


「ええ。ショックでした。──ところで、マティルデさん」


「なあに?」


「私が東の塔で刺繍を見たこと、ドロテア様に報告したのはあなたですよね」


空気が変わった。書庫の古い紙の匂いの中に、緊張の気配が混じる。


マティルデの笑顔が、氷のように固まった。一瞬──本当に一瞬だけ、目が泳いだ。唇が震えた。だがすぐに、笑みを取り繕う。年月をかけて身につけた仮面は、そう簡単には剥がれない。


「何のこと? ニーナ、疲れているのよ。最近いろいろあったから、考えすぎになっているんじゃない?」


「先日の夕刻、東の塔から戻った私にあなたは声をかけました。私が「刺繍があった」と答えた直後、あなたはドロテア様にそれを報告しています。その場面を、ノエル副隊長が目撃しています」


マティルデの唇がわずかに震えた。視線が左右に揺れる。逃げ道を探している目だ。


「さらに──コンラート伯爵の報告書に、あなたの動線記録の異常が記載されています。侍従のあなたが、業務時間外にドロテア様の居室に頻繁に出入りしていた記録です。侍従が王族居住区に無断で入ることは、規定違反です」


「……証拠は、あるの」


声が変わった。柔らかさが消え、冷たく硬い声。仮面が剥がれた瞬間の、むき出しの声。


「あります。伯爵が正式な書面として残しました。宰相の手元にも原本があります」


マティルデの顔から、血の気が引いた。膝が折れかけ、書架に手をついて体を支えた。


「私は──仕方がなかったのよ。ドロテア様に逆らえば、私の家族が……弟たちの学費も、母の暮らしも、全部あの方の支援で成り立っていたの。逆らえなかった。逆らったら、すべて失う」


「テレーゼにも、家族がいました」


声が震えた。怒りだけではない。悲しみだ。信じたかった。最後まで、この人は悪い人ではないと信じたかった。


「テレーゼの死に、あなたはどこまで関わっていましたか」


マティルデは答えなかった。ただ、目を逸らした。唇を噛み、こぶしを握りしめた。


それが、答えだった。


「マティルデさん。あなたがこれからどうするかは、あなた自身が決めてください。でも──私は、あなたのしたことを許すつもりはありません。そして──」


一呼吸、置いた。


「あなたの証言が、宮廷裁判で必要になるかもしれません。そのときは──自分の口で、真実を語ってください」


背を向けて歩き出した。涙は──流さなかった。まだ流すわけにはいかない。


マティルデはその夜、宮廷から姿を消した。


部屋の扉を開けたとたん、机の上に見慣れない封書があることに気づいた。白い蝋封に、複雑な紋章。宰相の印。


封を切った。短い文面が目に飛び込む。


『明後日、謁見の間にて。証拠は揃った』


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ