第7話 敵の執事が落とした鍵
敵の懐から差し出される手を、信じることができるだろうか。
一晩中、考えた。寝台に横になっても、天井の木目ばかり数えていた。ローレンツの言葉は罠かもしれない。ドロテア様が仕掛けた新たな策略かもしれない。マティルデという前例がある。もう、簡単に人を信じることはできない。
ノエルに相談した。翌日の見回りの合間、武器庫の陰で。
「罠の可能性は高い。だが、行かない理由もない」
「どういう意味ですか」
「罠なら、相手の手の内がわかる。情報なら、前に進める。どちらに転んでも、動かないよりはましだ」
「──一人では行きません」
「当然だ。俺が近くにいる」
ノエルの声には迷いがなかった。その確かさが、どれほど心強かったか。この人は、口数は少ないが、言ったことは必ず守る。これまで出会ったどんな人よりも、信頼に値する人間だと思った。
翌日の夕刻。宰相の庭園は、王宮の北側に位置する静かな場所だった。手入れの行き届いた低木の垣根と、古い石のベンチ。人目につきにくく、しかし死角はない。密会には向いているが、待ち伏せには不向きだ──と、ノエルは地形を見て判断した。
ローレンツは、約束の場所にいた。いつもの端正な佇まい。銀縁眼鏡の奥の目は冷静だが、近くで見ると──目の下にうっすらと隈があった。何日も眠れていないのかもしれない。
「来てくれたか」
「罠ではないと、信じていいのですか」
「信じる必要はない。判断は、これを見てからにしてくれ」
ローレンツは懐から、薄い革の手帳を取り出した。使い込まれた革は飴色に変わっている。何年も持ち歩いたものだ。
「五年分の記録だ。ドロテア様が行った取引、密会の相手、金の流れ、指示した内容──すべてを記録してある」
手帳を受け取った。開くと、整然とした字で日付と場所と人名が並んでいた。取引の内容。密会の相手の身分と特徴。金品の受け渡し。それだけではない。ドロテア様がどの貴族を懐柔し、どの役人を脅し、どの法の抜け道を利用したか──すべてが日付順に整理されていた。
「……なぜ──ドロテア様の執事が、こんなものを」
ローレンツの表情が、初めて揺れた。苦しそうな──しかし、どこか覚悟を決めた顔。眼鏡を外し、目頭を押さえた。
「私は、先代の公爵にお仕えしていた。先代は高潔なかただった。公爵家の名誉を何よりも重んじ、民を慈しみ、王国の秩序を守ることに生涯を捧げたかただ。だが──現当主とその娘は、公爵家の名を私利私欲のために使っている」
「……」
「主の不正を止めることこそが、真の忠義だと私は信じている。先代が生きておられたら、必ずそう仰るだろう。──いや、先代がおられたなら、こんなことにはならなかった」
忠誠と良心の狭間。ローレンツは五年間、主の不正を間近で見続けながら、証拠を集め続けていた。毎日、ドロテア様の傍らに立ち、微笑みの仮面の裏で、一文字ずつ記録を残してきた。
「テレーゼという侍女──あの娘が殺されたとき、私は自分の無力を呪った。もっと早く動いていれば、あの娘は死なずに済んだかもしれない。だが、証拠が足りなかった。一人では、どうにもできなかった」
声が低く震えていた。ローレンツは眼鏡をかけ直し、背筋を正した。
「あなたは──味方だったんですね。ずっと」
「敵の中にいなければ、集められない情報がある。表から見える景色と、裏から見える景色は違う」
ノエルが木陰から姿を現した。ローレンツは驚かなかった。おそらく、最初から気配に気づいていたのだろう。
「近衛騎士副隊長か。あなたも、この件に」
「ああ。手帳の中身を確認させてもらう」
ノエルが手帳を受け取り、素早くだが丁寧に目を通す。頁をめくる指が止まることが何度かあった。そのたびに、彼の顎がわずかに引き締まった。怒りを噛み殺している。
「これだけの記録があれば、宮廷裁判に持ち込める可能性がある。ただし──」
「ただし?」
「宮廷監察官の正式な捜査が必要だ。個人の告発では、権力者は動かない。コンラート伯爵に渡す」
三人の間に、静かな決意が満ちた。立場も身分も違う三人が、ひとつの目的でつながった瞬間だった。
◇
コンラート伯爵にローレンツの手帳を託したのは、その翌日のことだった。伯爵の執務室──質素だが整然とした部屋。壁には王国の法律書が並び、机の上には未決の書類がきちんと重ねられている。この人の人となりを表す部屋だ。
伯爵は手帳を受け取り、一頁ずつ丁寧に確認した後、深い息を吐いた。
「よくぞ、ここまで集めた。五年──ローレンツ殿、よく耐えたな」
ローレンツは黙って頭を下げた。
「だが──これを表に出せば、公爵家のみならず王太子殿下をも敵に回すことになる。覚悟はあるか」
「あります」
「お前たちは若い。まだ失うものが少ないから、勇敢になれる。だが俺は──もう、後がない。これが最後の仕事になるかもしれん」
伯爵は窓の外を見た。夕日が白亜の塔を赤く染めていた。その横顔に浮かんだのは、恐れではなく、長年待ち望んだ機会を前にした静かな高揚だった。
「監察官として、正式に動く。だが、時間をくれ。手続きには段階がある。拙速に動けば、証拠もろとも握りつぶされる」
伯爵が手帳を内懐に仕舞い込んだとき、私はなぜか、強い不安を感じた。胸の奥がざわめく。理由のない──理由のない、胸騒ぎ。
「伯爵──お気をつけて」
「案ずるな。この程度のことで怯む歳ではない」
伯爵は笑った。初めて見る、穏やかな笑みだった。厳格な表情しか知らなかったから、笑うとこんなに優しい顔になるのかと驚いた。
その笑顔が、テレーゼの最後の笑顔と重なった。
嫌な予感がした。「最後に見せる笑顔」が──一番優しいということを、私はもう知っている。
翌々日。知らせが届いた。コンラート伯爵が、自室で倒れているのが発見された。




