第6話 信じた手が刃になる夜
信頼は、壊れるときに一番大きな音を立てる。あの夜まで、私はまだそのことを知らなかった。
調度品搬出の日。コンラート伯爵の協力のもと、ノエルが近衛騎士として修繕の警護にあたり、私は調度品の記録係として東の塔に入ることを許された。伯爵が「記録係は正確な人間を」と推薦してくれたのだ。
東の塔の内部は、想像以上に豪華だった。壁には金糸の織物が掛けられ、天井にはシャンデリアが連なっている。廊下の絨毯だけで、私の実家が建つだろう。
廊下に運び出された品々を、一つひとつ記録していく。燭台、花瓶、額縁、織物、小箱、書見台──。手は震えていたが、仕事は正確にこなした。かつて培った記録能力が、こういうときに生きる。
そして見つけた。
小さな額縁に収められた紋章入りの刺繍。赤地に銀の蛇。ハイリゲン辺境伯家の紋章。他の調度品とは明らかに異質な、古い、しかし丁寧に保存された一品。
手が震えた。テレーゼの手紙は正しかった。
だが、ここで騒ぐわけにはいかない。深呼吸をして、表情を整える。刺繍を記録リストに淡々と書き加え、他の品と同様に扱った。
ただし、刺繍の裏地にさりげなく目をやると──小さな文字で縫い取りがあった。刺繍糸の色を変えて、布地に直接文字が縫い込まれている。
(これは……血筋の証明だ)
西洋の刺繍には、装飾以上の意味がある。中世の女性たちは、文字の読み書きができなくても、刺繍の紋様で家の歴史を後世に伝えた。
薔薇は愛、百合は純潔、蔦は絆、蛇は知恵と再生──紋様の一つひとつが言葉の代わりだった。辺境の地では、公式な記録が残りにくいため、女性たちが刺繍で家系を記録する風習が実際に存在したという。
刺繍の裏地に縫い込まれた文字。それはハイリゲン辺境伯家の末裔の名と、公爵家との血縁関係を示す系譜の記録だった。
(ドロテア様は──ハイリゲン辺境伯家の血を引いている。断絶したはずの家の血筋が、公爵令嬢の中に生きている)
これが、テレーゼが知ってしまった秘密だ。そして、この秘密のために彼女は命を落とした。
記録を終え、東の塔を出た。胸の中に秘密を抱えたまま、表情だけは平静を装う。足は一定の速さで、歩幅も変えない。何も見つけなかった人間の歩き方を、意識して演じた。
マティルデに会ったのは、その帰り道だった。廊下の角を曲がったところで、まるで待っていたかのように。
「お疲れ様、ニーナ。今日は東の塔だったんですってね」
「ええ、調度品の記録です。大変でした」
「何か面白いものはあった?」
世間話のような口調。でも──目が笑っていない。いや、笑ってはいる。でも、その笑顔の奥に何かを探る気配がある。かつて営業部の先輩がやっていたのと同じだ。雑談の中に核心の質問を紛れ込ませる技術。
あのとき、私は間違えた。もっと曖昧に、何も見つからなかったと答えるべきだった。
「特には。古い刺繍がいくつかあっただけです」
「刺繍?」
マティルデの声が、ほんの一瞬だけ硬くなった。唇の動きが止まり、瞳が収縮した。気づいたのは、彼女が去った後だった。あの反応は──「刺繍」という言葉に、意味のある反応をした。
(「刺繍」と言ってしまった──具体的すぎた)
ノエルに報告しようと彼の詰所に向かった。だが途中、廊下で足を止めた。角の向こうから声が聞こえる。
聞き覚えのある声。マティルデだ。
「──はい、東の塔で刺繍を見たと申しておりました。おそらく、紋章に気づいています」
心臓が凍った。壁に手をついて体を支える。息を殺す。
「よろしい。その娘の部屋を調べなさい。記録があるなら回収して。なければ──考えがある」
応じたのは──ドロテア様の声だった。冷たく、なめらかで、一片の感情も混じっていない声。
足が動かない。全身の血が凍りつくような感覚。
(マティルデが──密告していた。最初から。私に親切にしていたのは、情報を引き出すためだった)
信頼していた。相談していた。テレーゼの件で辛いと打ち明けたとき、マティルデは私の背中をさすって「辛かったね」と言ってくれた。あの手が、あの声が──ドロテア様に繋がっていた。テレーゼの部屋を荒らしたのも、私の部屋の栞を動かしたのも、マティルデの手引きだったのだ。
走った。音を殺して、だけど全力で。廊下を曲がり、階段を下り、ノエルの詰所に飛び込んだとき、息が上がっていた。ノエルは剣の手入れをしていた手を止め、私を見た。
「どうした」
「マティルデが──裏切っていました。ドロテア様に、私の行動を全部報告していた」
ノエルの表情が一瞬で変わった。初めて見る、鋭い目。獲物を見つけた鷹のような眼差し。
「今日の記録は持っているか」
「はい」
「渡せ。俺が預かる。お前の部屋はもう安全ではない」
記録を手渡した。ノエルの手は大きくて、硬い。剣を握り続けてきた手だ。けれど、受け取るときに触れた指先は、不思議と温かかった。
「今夜から、夜間の巡回経路を変える。お前の部屋の前を通るようにする」
「そんな──迷惑では」
「迷惑なら、しない」
「……ありがとうございます」
「礼はいらない。──だが、今後は一人で動くな。必ず俺に声をかけろ」
それだけ言って、ノエルは記録を内懐に仕舞った。短い言葉の中に、怒りがあった。私に対してではなく──正しくないことに対しての、静かな怒り。
◇
その夜、案の定、私の部屋に何者かが侵入した形跡があった。机の引き出しが微妙にずれている。だが記録はすでにノエルの手元にある。見つかったのは、何の変哲もない業務用の書類だけだ。
翌日、マティルデは何食わぬ顔で私に話しかけてきた。
「ニーナ、顔色が悪いわ。大丈夫?」
胃の底が冷たくなる。この人の優しさが、今は刃に見える。でも──ここで態度を変えてはいけない。悟られたら、次は私の命が危ない。
「少し寝不足で。ありがとうございます、マティルデさん」
笑った。笑えた。かつて身につけた処世術──本心を隠して笑顔を作る能力が、こんなところで役に立つとは思わなかった。
マティルデが去った後、拳を握りしめた。怒りではない。悲しみだ。テレーゼの死に関わっているかもしれない人物を、私は「温かい人」と思っていた。
(でも──泣くのは、全部終わってからにする)
夕暮れの回廊で、ドロテア様の執事とすれ違った。銀縁眼鏡の、感情を読ませない顔の男。ローレンツ。ドロテア様の影のように、常に二歩後ろに控えている人物。
彼はすれ違いざまに、聞こえるか聞こえないかの声で囁いた。
「──宰相の庭園に、明日の夕刻」
振り返ったとき、ローレンツの背中はもう遠かった。




