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あなたには言っていませんが、あなたに会うのはこれが最後です。  作者: 渚月(なづき)


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第5話 香辛料は金より重い

疑惑の輪郭が、少しずつ見え始めていた。


ドロテア様の居室にあるとされる、断絶した辺境伯家の紋章。テレーゼがそれを発見し、何者かに部屋を荒らされ、翌日に不審な死を遂げた。偶然ではありえない。だが、直接的な証拠がない。


紋章が実際にそこにあるのか、この目で確かめるすべがない。王族の居住区に侍従見習いが立ち入ることは許されていない。理由もなく東の塔に近づけば、それだけで不審者として処分される。


ノエルに相談した。夕刻の見回りの合間、人のいない武器庫の前で。


「東の塔に入る正当な理由が必要だ」


「近衛騎士なら入れるのでは?」


「巡回区域は決まっている。東の塔は侍女と限られた者しか入れない。不審な動きをすれば、すぐに報告される。この宮廷では、人の動きはすべて誰かに見られている」


行き詰まった。考える。考える。かつての自分なら、どうする? 正面から突破できないなら、正当な業務の中に潜り込む。事務員時代に学んだ処世術だ。


その日の午後、宮廷の宴の準備に駆り出された。王国の貿易商を招いた晩餐会だという。大広間に銀の食器が並べられ、燭台に火が灯される。


配膳の手伝いをしながら、食卓に並ぶ品々を観察する。金の食器、銀の燭台──そして、色とりどりの料理に添えられた香辛料の数々。赤、黄、緑、茶──小さな銀の容器にそれぞれ盛られた粉末が、宝石のように輝いている。


マティルデが、新入りの侍従たちに配膳の作法を説明していた。


「この赤い粉はサフランよ。この世界で最も高価な香辛料のひとつ。クロッカスの一種であるサフランの花のめしべを一本一本手で摘み取って乾燥させるの。一つの花からわずか三本のめしべしか取れないから、ごくわずかな量を得るのに膨大な花が必要なのよ」


かつての記憶と重なった。サフランは現代でも世界で最も高価な香辛料のひとつで、一キログラムを得るためにおよそ十五万本もの花が必要とされる。中世ヨーロッパでは、その価値は同じ重さの金に匹敵し、サフランの偽造品を売った商人が火刑に処されたという記録すら残っている。


「香辛料は、この王国では通貨に準ずる価値があるの。大量の香辛料を管理できる者は、それだけで莫大な権力を持つということよ。特に、東方から運ばれてくる胡椒、肉桂、丁子──これらは領主たちの宴に欠かせない。供給を握る者が、宮廷の力関係をも握る」


マティルデの説明を聞きながら、ふと思った。


(香辛料の貿易を管理している──つまり、莫大な富を動かせる立場にいるのは誰だ?)


晩餐会の席次表を確認する。イベント会社に勤めていた頃、席次表は必ず確認した。誰がどこに座るかで、その宴の本当の目的がわかる。


主賓である貿易商の隣──王太子殿下。そしてその向かいに、ドロテア様。貿易商の左には──空席。席札にはハイリゲン辺境伯の名が書かれていた。


空席。断絶した家の名がある空席。これは儀礼的なものだろうか。それとも──。


(貿易の利権。もしドロテア様が、公爵家の立場を使って香辛料貿易の利権を握ろうとしているなら──)


断絶したハイリゲン辺境伯家。その領地は王国の東端、交易路の要衝にある。東方からの香辛料は、この辺境伯領を通過しなければ王国に届かない。もし、その家の血筋を主張し、断絶した家の領地に対する権利を復活させることができれば──東方貿易のすべてを手中に収められる。


仮説が形を成していく。


ドロテア様は王太子との婚姻で王妃の座を手に入れ、同時にハイリゲン辺境伯家の血筋を根拠に貿易路の利権を獲得する。王権と交易権──二重の権力基盤。それは、王国を実質的に支配するに等しい。


(もしこの仮説が正しいなら、テレーゼは紋章を見つけたことで、この計画の存在に気づいてしまった。だから──消された)


手が震える。でも、まだ仮説だ。証拠がなければ、ただの妄想と変わらない。かつての上司の声が蘇る。「根拠のない推測は報告するな」。その通りだ。


晩餐会の片付けをしていたとき、思いがけないことが起きた。


食堂の裏口で、ノエルが待っていた。壁にもたれて腕を組み、夜風に黒髪が揺れている。私に気づくと、無言で顎をしゃくった。ついてこい、という意味だろう。


月明かりの中庭。二人で並んで歩く。ノエルの歩幅は大きいが、無意識に私に合わせてくれていた。これまでの人生で、歩幅を合わせてくれる人など一人もいなかった。


「東の塔への手がかりが見つかった」


「本当ですか」


「三日後に、東の塔の窓枠修繕がある。その間、一部の部屋の調度品が廊下に出される。監督は宮廷監察官の管轄だ」


「コンラート伯爵──」


「伯爵は信頼できる。俺の亡き母の遠縁にあたる」


初めてノエルが私的なことを口にした。亡き母。その一言に込められた重みが、夜の空気に静かに溶けた。


「副隊長は──なぜ、ここまで力を貸してくれるんですか」


ノエルは少し黙った。夜風が薔薇の香りを運んでくる。


「母は、小さな村の出だった。権力者に逆らえず、理不尽を飲み込んで生きた人だ。病に倒れたとき、村の領主は見向きもしなかった。最後まで──誰にも助けを求めなかった」


「……」


「俺は、理不尽を見て見ぬふりができない。それだけだ」


隣を歩くノエルの横顔は、夜の薄明かりの中で静かだった。温かいとは違う。けれど、確かに、この人は味方だ。嘘のない、まっすぐな味方。


自室に戻る途中、ふと振り返った。ノエルはまだそこに立っていた。私が建物の中に入るのを、見届けるように。


(守ってくれている──)


頬が熱くなったのは、走ったせいだと自分に言い聞かせた。でも、走ってなどいなかった。


その夜、眠る前にテレーゼの手紙をもう一度読んだ。


(テレーゼ。あなたが見つけたもの、私が必ず明らかにする)


三日後。調度品の搬出日。それが、次の勝負の日だ。


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