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あなたには言っていませんが、あなたに会うのはこれが最後です。  作者: 渚月(なづき)


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第4話 紋章が語る血筋と野心

紋章という言葉の意味を、私は深く考えたことがなかった。


家紋、社章、ロゴマーク。かつての世界にも似た概念はあったけれど、この世界では紋章は単なる飾りではない。血筋、領地、婚姻、同盟、戦功、権利──すべてが一枚の盾形の図案に凝縮されている。前世で言えば、戸籍と登記簿と履歴書を一つにまとめたようなものだ。


テレーゼの手紙をもう一度読み返す。


『ドロテア様の居室に、東の塔には存在しないはずの紋章が飾られています』


東の塔──王族とその婚約者が暮らす居住区だ。テレーゼは侍女として、ドロテア様の居室に出入りする機会があったのだろう。そこで、本来あるべきでない紋章を見つけた。そして、その発見が命取りになった。


(紋章学の基本を知る必要がある)


翌日、宮廷の書庫に足を運んだ。侍従は業務に関連する範囲で書庫を利用できる。調度品の管理という名目で、紋章に関する書物を借りた。書庫は石造りの部屋で、革装丁の本が天井まで並んでいた。独特の古い紙の匂いがする。


紋章学──ヘラルドリーと呼ばれる学問体系の基礎を読み進める。


紋章の地色には意味がある。オールは高潔と富。アージェントは清純と平和。ギュールズは勇気と戦い。アジュールは誠実と忠誠。パーピュアは王族の血筋と威厳。セーブルは不屈の意志。


そして紋章に描かれる動物もまた象徴だ。獅子は勇気と王権、鷲は権威と遠見、蛇は知恵──あるいは狡猾さと再生。実際の中世ヨーロッパでも、紋章は厳格に管理されていた。他家の紋章を無断で使うことは重大な侮辱であり、場合によっては戦争の原因にもなったという。


(つまり紋章を見れば、その家がどんな権威を主張し、どんな歴史を持つかがわかる。紋章は、血統書であり、宣言書でもある)


公爵家の紋章は一般に知られている。銀地に紫の百合。清廉と王族との近しさを示す、格式高い図案だ。だが、テレーゼが見つけたのは「存在しないはずの紋章」だ。公爵家のものでも、王族のものでもない、別の何か。


書庫で調べものをしていると、隣の席にいた年配の男性と目が合った。白髪交じりの茶髪。鋭い目。痩せた頬。黒い外套──宮廷監察官の制服だ。不正を監視する役目を負った、宮廷の番人。


「紋章学に興味があるのか、若いの」


「調度品の管理に必要でして。紋章の入った品物を扱うことがあるので」


「ほう。侍従見習いが紋章学を学ぶとは殊勝だ。大抵の侍従は、紋章の区別もつかずに何年も過ごす。私はコンラートだ。宮廷監察官を務めている」


伯爵の肩書を持つ人物だった。テレーゼが「宮廷で唯一、権力に媚びない人」と評していたことを思い出す。厳格で近寄りがたいが、公正さだけは誰もが認めている──と。


「ひとつ教えてやろう。紋章は生き物だ。婚姻や相続のたびに組み替えられる。二つの家が婚姻で結ばれれば、紋章は四分割されて両家の意匠が組み合わされる。だから──ある家の紋章に別の家の要素が混じっていたら、そこには必ず血のつながりか、あるいは権利の主張がある」


(別の家の要素が混じっている紋章──)


コンラート伯爵は、それ以上何も言わずに立ち去った。だが、去り際に一冊の本を指し示した。『歴代紋章変遷録』。分厚い革装丁の、手に持つとずっしりと重い本。


偶然だろうか。それとも──この伯爵は、私が何を調べているか気づいているのだろうか。


本を開くと、ヴィスタリア王国の主要な家の紋章が年代順に記録されていた。公爵家、侯爵家、伯爵家……そして、すでに断絶した家の紋章も。


数時間かけて頁をめくり続け、一つの発見に辿り着いた。


百年前に断絶したとされるハイリゲン辺境伯家。その紋章は──赤地に銀の蛇。蛇は知恵と再生の象徴。赤地は戦いの歴史を示す。東方との交易路を守る要衝を領地としていた一族で、莫大な富と独自の軍事力を持っていたが、後継者が途絶えて断絶した──と記録にはある。


断絶した家の紋章は、原則として使用が禁じられる。それが宮廷の決まりだ。もしドロテア様の居室にこの紋章があったなら──。


(ドロテア様は、断絶したハイリゲン家と何らかのつながりを持っている?)


仮説に過ぎない。証拠はまだない。だが、手がかりは見えた。





夕刻。仕事を終えて廊下を歩いていると、マティルデが追いついてきた。息を切らせている。探していたのだろうか。


「ニーナ、最近疲れてない? 書庫にこもっているって聞いたけど」


心配そうな顔。でも、私の中で小さな警報が鳴った。以前にも、こういう場面を経験したことがある。何気ない質問の中に、探りが混じっていることがある。


(私が書庫で何を調べているか──誰が彼女に伝えた?)


「調度品の由来を調べていただけです。覚えることが多くて」


「そう? 無理しないでね。体を壊したら元も子もないわ」


マティルデは柔らかく笑って去った。指先は温かく、声は優しく、笑顔は穏やかだった。


でも──胸の奥がざわついた。


テレーゼの言葉にはいつも体温があった。話すとき、まっすぐこちらを見てくれた。マティルデは──さっき、「書庫にこもっている」と言ったとき、一瞬だけ視線が右上に動いた。誰かから聞いた情報を反芻していた可能性がある。


(深読みかもしれない。でも、念のため。マティルデには詳しいことは話さないでおこう)


自室に戻ると、机の上にある変化があった。紋章の本から飛び出していた革の栞が、私が挟んだ頁からわずかにずれている。私は栞を「百二十三頁」に挟んだ。今は「百二十六頁」に移動していた。


確信はない。風で動いたのかもしれない。


でも──もし誰かが私の部屋に入り、私が何を調べていたかを確認したのなら。次に狙われるのは、私かもしれない。


テレーゼの最後の笑顔が、脳裏をよぎった。


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