第3話 手すりの傷は嘘をつけない
テレーゼの手は、あの夜からずっと震えていた。
私がそれに気づかなければよかったのか、それとも、もっと早く気づくべきだったのか。答えは今でもわからない。たぶん、一生わからない。
テレーゼの部屋を一緒に確認した。衣装箪笥の中身がすべて床に散乱し、寝台の敷布もめくられている。枕の中綿まで引きずり出されていた。
ただし、金目のものには一切手がつけられていなかった。テレーゼの銀の髪留め──亡くなった母親の形見だと聞いた──は、化粧台の上にそのまま残されている。
「何か盗られたものは?」
「わからない……でも、ないの。お金も装身具もそのまま。だから余計に怖いの。泥棒なら、お金を持っていくでしょう?」
(物取りではない。何か特定のものを探していた)
直感が囁く。泥棒なら金品を奪う。金品が無事なのに部屋を荒らすのは、探しものがあるからだ。それも──形のある「もの」。書類か、手紙か。テレーゼが何かを持っていると、誰かが疑っている。
「テレーゼ。最近、何か変わったものを手に入れたりしなかった? 手紙とか、書類とか」
テレーゼの瞳が揺れた。唇が開きかけて──閉じた。
「……ううん。何もないわ」
嘘だ。唇を閉じる直前、テレーゼは無意識に胸元に手を当てた。何かを守るような仕草。でも、問い詰めることはしなかった。怯えている人を追い詰めても、口は開かない。
翌日。テレーゼはいつも通りに振る舞おうとしていた。笑顔を作って、仕事をこなして。でも、その笑顔が作りものだと、私にはわかった。
だって歩幅が小さい。いつもの彼女は、もっと大きな歩幅で、はずむように歩く人だ。食事のとき、匙を持つ手が何度も止まった。
「テレーゼ、今夜、少し話せる?」
「……うん。でも、人のいないところで」
彼女はそう言って、小さく頷いた。その頷きが、妙に力強かったことを覚えている。何かを決意した人の顔だった。
約束の時間は来なかった。
夕刻──中庭の石階段で、テレーゼが転落した。
私が駆けつけたとき、彼女は石畳の上に倒れていた。栗色の巻き毛が扇のように広がり、そばかすの散った頬は紙のように白く、丸い瞳は閉じられていた。唇が微かに開いていて、何かを言いかけたまま止まったように見えた。
動かない。呼吸をしていない。
叫びたかった。でも声が出なかった。代わりに、膝から力が抜けて、その場にしゃがみ込んだ。石畳の冷たさが、膝を通して全身に染みた。
周囲から人が集まってきた。宮廷医が駆けつけ、テレーゼは運ばれた。
──手遅れだった。
「石階段の手すりが朽ちていたのだろう。不運な事故だ」
宮廷の判断は迅速だった。驚くほど迅速だった。翌日にはテレーゼの死は「老朽化した手すりによる転落事故」として処理されることが決まった。遺族への弔慰金が即座に算出され、葬儀の手配が進められた。まるで、手順が事前に用意されていたかのような手際の良さだった。
おかしい。
私は、石階段に向かった。立ち入りを禁じる札が下げられていたが、人目がないのを確認して近づく。制限を破る行為だ。見つかれば処分される。でも、足は止まらなかった。
折れた手すりを見た。
手すりの破断面を指でなぞる。工場見学で取引先を訪問したとき、学んだことがある。
金属や木材が自然に劣化して折れるとき、断面は繊維状にほつれる。木材なら、長年の風雨にさらされた部分が変色し、繊維がほつれるように裂ける。
だが、この手すりの断面は──一部がなめらかだった。
(これは……あらかじめ切れ目を入れてあったものが、体重をかけたときに折れたのだ)
膝が震える。でも、目は逸らさない。
さらに観察する。手すりの付け根──根元にうっすらと、金属の道具で削ったような細い溝が走っている。溝の内側は木材の地の色が残っていて、周囲の風化した表面とは明らかに異なる。自然の劣化ではありえない、人為的な加工の跡。
事故ではない。
「何をしている」
背後からの低い声に、心臓が止まるかと思った。振り返ると、黒髪の騎士が立っていた。ノエル副隊長。腰に剣を佩き、深い碧みを帯びた深い瞳がまっすぐに私を見ている。
「立入禁止だ」
「……知っています。でも、見ていただきたいものがあるんです」
私は自分でも驚くほど冷静だった。声は震えていたけれど、目は真っ直ぐにノエルを見ていた。この人は──直感的にわかる。嘘を許さない目をしている。だから、真実だけを言えばいい。
「この手すりの断面を見てください。自然に折れた木材の断面とは異なります。根元に、あらかじめ刃物で削られた痕があります」
ノエルは無言で手すりに歩み寄り、しゃがんで確認した。長い沈黙。彼の指が、溝をなぞった。私が触れたのと同じ場所。同じ動き。この人も──見る目を持っている。
「……確かに。これは人の手によるものだ」
初めて、彼が長い言葉を口にするのを聞いた。
◇
夜。侍従控えの間の片隅で、ノエルと向かい合った。彼は立ったまま、壁に背を預けている。私は椅子に座っていたが、背筋だけは伸ばした。
「なぜ、あれに気づいた?」
「前世で……いえ、以前、似たようなものを見たことがあるだけです」
言い直した。前世のことは言えない。でも、嘘もつきたくなかった。
「テレーゼという侍女は、死の前日に部屋を荒らされていました。物取りではなく、何かを探された形跡がありました。そして、その翌日に転落死。これを偶然と呼ぶには、重なりすぎています」
ノエルの表情は変わらない。けれど、瞳の奥にかすかな光が宿った。
「宮廷は事故として処理する。上に報告しても、覆ることはないだろう」
「わかっています」
「だが」
ノエルは一度だけ目を伏せ、そしてまた私を見た。目を伏せる時間は短かった。迷いではなく、決意を固めるための一瞬だったのだと思う。
「俺は、正しくないことを見過ごせない人間だ。もし──調べるなら、手を貸す」
喉が詰まった。泣きたいわけではない。ただ、この世界で初めて、「信じてもらえた」という感覚が、胸の奥で静かに燃えていた。
「ありがとうございます」
ノエルは頷いただけだった。でも、その沈黙が、どんな言葉よりも頼もしかった。
部屋に戻り、寝台に腰を下ろした。
枕元に、見覚えのない封筒が置かれていた。差出人の名はない。だが──封筒の端に、小さな花の押し印がある。テレーゼがいつも使っていた、矢車菊の印。
手紙はテレーゼからだった。おそらく、死の直前に──約束の夜の前に、万が一に備えて私の部屋に忍ばせておいたのだ。
震える指で封を開けた。中には一枚の便箋。テレーゼの丸みのある字で、たった一行だけ。
『ドロテア様の居室に、東の塔には存在しないはずの紋章が飾られています』




