第2話 蝋封の裏に隠された名前
眠れないまま夜が明けた。
瞼の裏に焼きついた光景が、何度も再生される。月光。薔薇園。金色の髪と銀の髪。封蝋のついた書状。あの場面だけが、まるで絵画のように鮮明に残っている。
(あれは何だったのだろう)
婚約者同士なら、わざわざ真夜中に密会する必要はない。公式の場でいくらでも話せるはずだ。にもかかわらず、人目を避けた。
つまり──知られたくない内容ということになる。隠す必要のないものを隠す人間はいない。何かを隠す行動そのものが、そこに秘密があることの証拠だ。
身支度を整え、侍従控えの間に向かう。石畳の廊下は冷えていて、朝の光が高窓から斜めに差し込んでいた。
廊下ですれ違った女性が、にこりと微笑んだ。黒髪をきっちりと結い上げた、落ち着いた雰囲気の人。
「おはよう。新しい見習いのニーナね? 私はマティルデ。先輩侍従よ。困ったことがあったら何でも聞いて」
声が柔らかい。テレーゼとは違う種類の安心感がある。年上の女性特有の、包み込むような穏やかさ。目尻に小さな皺があり、それが笑うたびに優しく深くなる。
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
「無理しなくていいのよ。最初は誰だって緊張するもの」
マティルデは肩をぽんと叩いて去っていった。温かい人だ、と思った。
(味方が増えるのは、ありがたい。テレーゼとマティルデ。二人いれば、ここでやっていける)
午前中の仕事は、客間の清掃と備品の点検。テレーゼと二人で作業しながら、宮廷の仕組みを教えてもらった。テレーゼは手を動かしながら話すのが上手い人で、退屈な作業もおしゃべりであっという間に過ぎた。
「ねえ、テレーゼ。蝋封って知ってる?」
何気ない質問を装った。テレーゼは銀の燭台を磨く手を止めずに答える。
「もちろん。手紙の封に蝋を垂らして、印章を押すでしょ。この国では、蝋の色で差出人の身分がわかるの。王族は深紅、公爵は紫、伯爵は青、男爵は緑。身分を偽った蝋封を使うのは重罪よ」
蝋封の色が身分証明になる──この世界ならではの文化だ。実際に中世ヨーロッパでも封蝋は重要な認証手段だった。蝋に押す印章は金属製で、家ごとに固有の図柄が彫られている。偽造は困難で、現代のサインや印鑑に相当するものだ。
あの夜の書状に押されていた封蝋の色を思い出そうとする。月明かりの中では色の判別が難しかった。ただ、暗い色だったことは確かだ。深紅か、紫か。
「それと、蝋封には家ごとの紋章が刻まれているの。紋章を見れば、どの家の誰が出したかまでわかる。だから重要な書簡ほど蝋封が大事にされるのよ。封を壊さずに開ける技術を持つ者は、それだけで宮廷に雇われるくらい」
「封を壊さずに?」
「温めた針で蝋を柔らかくして、剥がして、中身を読んで、また封をし直すの。でもね、上手い職人が作った封蝋には、内側に細い糸が仕込んであるのよ。無理に開けると糸が切れて、開封されたことがわかる仕組み」
(なるほど。蝋封は指紋であり、封印であり、防犯装置でもある。この世界の手紙は、思った以上に厳重だ)
昼食の時間。テレーゼと並んで簡素な食事をとっていると、広間の向こうに見覚えのある背中が見えた。長身。黒髪。背筋がまっすぐに伸びた、近衛騎士の制服。
「あの人、誰?」
「ノエル副隊長よ。近衛騎士の中でも腕が立つって評判。でも無口で有名。侍女たちの間では「壁と話すほうがまだ返事がある」って言われてるわ」
テレーゼがくすくす笑った。私もつられて少し笑う。
ノエル。彼が振り返った。目が合う。深い碧みを帯びた深い瞳。表情は無機質で、何を考えているのかわからない。けれど──私を見たその瞬間だけ、ほんのわずかに眉が動いた気がした。何かを認識したような、一瞬の変化。
視線を逸らされた。
(……気のせいかな。それとも、昨夜の私の動きに気づいている?)
考えすぎだ。窓を開けただけで近衛騎士に目をつけられるほど、この宮廷は厳しくないはず──たぶん。
◇
午後の仕事を終え、自室に戻ろうとしたとき、廊下の先で声が聞こえた。
「──あの新入りを見張りなさい」
反射的に足を止め、柱の陰に身を隠す。会社員だった頃と同じだ。コピー室の前で上司の陰口が聞こえたとき、思わず足を止めた──あの感覚。
聞き覚えのある声。低く、冷たく、しかし完璧に制御された声。
「昨夜、中庭に面した東棟の窓が開いていたそうよ。あの位置から薔薇園が見えるのは、新しく入った見習いの部屋だけ」
血の気が引いた。背筋に冷たいものが走る。足の裏に力を込めて、音を殺す。背中を柱に押し付けて、呼吸を浅くする。
「承知いたしました、ドロテア様」
応じた声は知らない女性のものだった。おそらく侍女頭のザビーネという人物。テレーゼが「あの人の前では余計なことを言わないほうがいい」と忠告していた。声は低く平坦で、感情の色が読み取れない。命令に従うことだけに特化したような声だ。
足音が遠ざかるのを待ってから、ようやく息を吐いた。
(見られていた。いや──見たことを、知られている。窓の位置から部屋を特定された)
自室に戻り、扉を閉めた。鍵をかける。手が震えている。座り込んで、膝を抱えた。
会社で働いていた頃の記憶が蘇る。膨大な資料の中から矛盾を見つける作業。上司に報告して、何度も「気にしすぎだ」と言われた。
けれど──細部に宿る違和感は、いつだって何かの兆しだった。発注先の住所が一文字違う。担当者の印影がわずかにずれている。結局それは問題だった。
(逃げるか、見なかったことにするか。それが一番安全だ)
でも。テレーゼの笑顔が浮かんだ。初日に手を差し伸べてくれた、あの温かい手。この宮廷で、ドロテア様の名前を口にしたとき、彼女の瞳の奥に走った恐怖の色。肩が内側に縮こまる仕草。
(テレーゼは何か知っているのかもしれない。でも怖くて言えないでいるのかもしれない)
明日、テレーゼに聞いてみよう。慎重に。それだけだ。それ以上のことは──。
そのとき、扉が控えめに叩かれた。
開けると、テレーゼが立っていた。いつもの明るい表情ではない。頬がこわばり、唇の色が薄い。両手を体の前で組んでいるが、指先が白くなるほど握りしめている。
「テレーゼ?」
「ニーナ、私の部屋……」
声が掠れている。息を吸い直して、もう一度。
「荒らされていたの。引き出しが全部、開けられていた」
テレーゼの手は、私の手よりもずっと冷たかった。




