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あなたには言っていませんが、あなたに会うのはこれが最後です。  作者: 渚月(なづき)


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第1話 王宮には花の匂いと嘘の気配が満ちている

私が死んだのは、横断歩道の真ん中だった。


信号は青。足元にはいつもの通勤用パンプス。左手にはコンビニの紙袋。その瞬間まで、今夜の夕飯のことしか考えていなかった。だから──私は誰にも「さようなら」を言えなかった。


目を開けたとき、そこは見知らぬ天蓋つきの寝台の上だった。窓の外には白い石造りの街並みが広がり、馬車が石畳を走る音が遠くに聞こえた。風に乗って届く花の香り。テレビもスマートフォンもない世界。


転生──という概念を、私は前世で読んだ物語の中でだけ知っていた。


それから十八年。私はこの世界に馴染んだ。名前はニーナ。ヴィスタリア王国の片隅にある小さな男爵家の一人娘。前世の記憶は鮮明なまま残っている。けれど、それを誰かに話したことはない。話したところで信じてもらえるはずもなく、下手をすれば狂人扱いだ。


今日、私は王宮に出仕する。侍従見習いとして。


馬車を降りたとき、目の前にそびえる白亜の王宮に息を呑んだ。正門のアーチには薔薇の彫刻が施され、両脇に近衛兵が直立している。回廊の天井は吹き抜けになっていて、遥か上方に描かれたフレスコ画の天使たちがこちらを見下ろしていた。


(大丈夫。前世で培った段取り力と観察力がある。ここで生き延びてみせる)


案内役の年配の侍従に従い、長い回廊を歩く。壁には歴代の王の肖像画。床には磨き抜かれた大理石。すれ違う人々の衣服は、一着一着が私の実家の月収を超えるだろう仕立てだ。空気の一粒一粒まで格式に満ちている。


侍従控えの間に着くと、先に数名の女性たちがいた。皆、私より良い仕立ての衣服を身につけている。視線が集まる。品定めするような目。私の衣服が安物であること、髪飾りが質素であること──それだけで、身分がわかるのだろう。


「あなたが新しい見習い?」


声をかけてきたのは、栗色の巻き毛にそばかすが散った、人懐こい顔の少女だった。彼女だけが、値踏みではなく純粋な好奇心の目をしていた。


「テレーゼよ。侍女をしているの。よろしくね」


差し出された手は温かかった。この世界に来て初めて、自分から手を握り返した気がする。前世でも、こんなふうに自然に手を差し出してくれた人がいただろうか。


「ニーナです。今日から侍従見習いとして参りました」


「堅いなあ。大丈夫、ここは慣れれば居心地がいいわ。お菓子の余りをもらえるし、お庭も綺麗だし。──ただし」


テレーゼは声を落とした。明るい瞳の奥に、一瞬だけ影が走る。


「公爵令嬢のドロテア様の前では、絶対に目を合わせないこと。あのかたは、気に入らない侍従を一日で辞めさせたこともあるから」


公爵令嬢──王太子殿下の婚約者にして、宮廷の実質的な女主人。テレーゼの表情から読み取れるのは、敬意ではなく畏怖だった。声が小さくなるだけでなく、肩が内側に縮こまっている。体が覚えている恐怖の形だ。


初日の仕事は、宴の間の花を整えることだった。


「ニーナ、この白百合は王族側。薔薇は上位貴族の席ね」


テレーゼが手際よく花瓶を配置しながら教えてくれた。


「花の種類で席がわかるの?」


「そうよ。王族に近い席ほど香りの強い花を置くの。末席には控えめな花。間違えたら大変よ」


西洋の宮廷では、花の配置ひとつが権力の地図になる。上座の花が萎れていれば怠慢、下座の花が華やかすぎれば僭越──どちらも罰の対象になるという。


(前世の会社でも、会議室の席順で派閥がわかったっけ。上座に座る部長の湯呑みだけ新品で、係長のは欠けたまま。どこの世界も同じだ)


花瓶を運んでいるとき、回廊の角で足が止まった。


向こうから歩いてくる女性。銀に近い髪。紫水晶のような瞳。完璧に整った微笑。周囲の空気がひとりでに道を開ける。その場にいた侍従たちが、まるで花が風に伏せるように頭を下げた。


ドロテア公爵令嬢だ。


私も頭を下げた。でも一瞬──ほんの一瞬だけ、視線を上げてしまった。つい癖で、初対面の相手の顔は必ず見てしまう。目を見れば、その人が何を考えているか手がかりが掴める。


彼女の目と合った。


氷。そうとしか表現できない瞳だった。微笑みの形は完璧なのに、目だけが笑っていない。口元と目元の温度差──それは、感情を意図的に制御している人間の特徴だ。


「見慣れない顔ね」


声は穏やかだった。花瓶の水のように澄んでいて、それがかえって底知れない。


「本日より侍従見習いとして参りました、ニーナと申します」


「──そう」


たった二文字。それだけ言って、ドロテア様は通り過ぎた。すれ違いざま、ほんのかすかに、白い花のような香りが鼻をかすめた。


ただ通り過ぎただけだ。なのに、背中に汗が滲んでいた。指先が冷たい。心臓が速い。


テレーゼが小走りで駆け寄ってきた。


「大丈夫? 目、合わせちゃったでしょ」


「……うん。ごめん」


「謝らなくていいの。でも気をつけて。あのかたは、一度目に留めた相手を忘れないから」


「テレーゼは、前にも何かあったの?」


テレーゼは少し黙って、それから首を横に振った。


「聞かないで。──でもね、ここで生き残るコツはひとつだけ。目立たないこと」


テレーゼの声には、経験に基づく重みがあった。同時に、私の腕をそっと掴む指先が微かに震えていることにも気づいた。





その夜。侍従用の小さな個室で寝支度をしていると、窓の外から声が聞こえた。


中庭に面した窓を、そっと開ける。月明かりに照らされた薔薇園の奥──ふたつの人影が立っていた。


(──誰?)


声は低く抑えられていて、内容までは聞き取れない。だが、身振りから見て、穏やかな会話ではなさそうだった。片方が何かを手渡し、もう片方がそれを受け取る。手渡す動作は素早く、受け取る側はすぐにそれを衣服の内側に隠した。


月光が、受け取った人物の横顔を照らした。銀に近い髪。ドロテア様だ。


そしてもう一人──手渡した方が振り返った瞬間、金色の髪が月に光った。宮廷の誰もが知る、完璧な横顔。


呼吸が止まった。


手渡されたのは、封蝋のついた小さな書状だった。ドロテア様はそれを受け取ると、一瞬だけ月に透かすようにして確認し、躊躇なく薔薇の茂みの奥に滑り込んで消えた。


何もかもが一瞬だった。


窓を閉める手が、小さく震えていた。見てはいけないものを見た。そう直感した。


なぜなら──あの書状を手渡した金髪の人物は、王太子殿下に他ならなかったから。


そして、婚約者同士が真夜中に人目を忍んで書状をやりとりする理由を、私はひとつも思いつけなかった。


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