第10話 あなたには言っていませんが
オスヴァルト宰相の庭園は、どこか懐かしい匂いがした。
石のベンチに腰を下ろした宰相は、杖を脇に立てかけ、深い皺の刻まれた顔で空を見上げた。六十五年の歳月が刻んだ皺は、一本一本が物語のように見えた。
「ニーナ殿。まず、礼を言わねばならん。そして──詫びも」
「詫び……ですか」
「お前を王宮に配属したのは、私だ」
呼吸が止まった。風が低木の葉を揺らす音だけが、庭園に響いていた。
「男爵家の令嬢。目立たぬ家柄。だが──前世の記憶を持つという、特異な存在」
「ご存じ──だったのですか」
「ヴィスタリアには古くからの伝承がある。異なる世を生きた記憶を持つ者は、百年に一度現れると。そして、その者は常人には見えぬものを見抜く目を持つ、と。私は若い頃からこの伝承に興味があってな──国中に耳目を配らせていた」
オスヴァルト宰相は静かに笑った。底の見えない目が、初めて──温かく見えた。
「お前が幼い頃から、他の子供とは違う振る舞いをしていることは掴んでいた。見たこともないはずの文字を書き、知らないはずの計算をする子供。確信を持ったのは、お前が十五の年に、男爵領の洪水を事前に予測して村人を避難させたときだ」
覚えている。あのとき、前世で学んだ地学の知識を使って、地形から浸水域を予測した。誰にも理由は説明しなかった。ただ「嫌な予感がする」とだけ言った。
「ドロテアとアルベルトの暗躍には、数年前から気づいていた。だが証拠がなかった。権力を持つ者が行う不正は、権力の外側からでなければ暴けない。内側にいる者は、みな利害に絡め取られるか、恐怖で口を閉ざす」
「だから──私を」
「そうだ。権力の外にいて、しかし宮廷に入り込める立場。男爵令嬢という、誰もが見過ごす存在。だが、異なる世を生きた目を持つ者──それがお前だった」
怒りが湧いた。利用されたのだ。最初から、将棋の駒のように配置されていた。テレーゼの死も、コンラート伯爵の死も──宰相がもっと早く動いていれば、防げたかもしれない。
「テレーゼは──伯爵は──」
「わかっている。あの娘が死んだとき、私は自分の判断を呪った。夜ごと、あの娘の顔が浮かんだ。もっと早く手を打つべきだった。伯爵のことも同じだ。だが──」
宰相の声がわずかに揺れた。老いた手が膝の上で震えている。見間違いではない。これは演技ではない。この人もまた──苦しんでいたのだ。
「拙速に動けば、すべてが闇に葬られる。それが宮廷の力学だ。証拠を積み上げ、手続きを踏み、逃げ場をなくしてから仕留める。一つでも手順を誤れば、相手は証拠を消し、証人を消し、何事もなかったことにする。それが──権力の恐ろしさだ」
「──わかっています」
本当は、許せない部分もある。でも、わかってしまう。宰相が守ろうとしたのは、個人ではなく──王国という仕組みそのものだ。仕組みが壊れれば、もっと多くの人が苦しむ。真実と体面。忠誠と良心。身分と実力。三つの対立は、宰相の中にも同じように存在していたのだ。
「お前にもうひとつ、伝えなければならないことがある」
宰相が懐から、古い封書を取り出した。見覚えのある青い蝋封。
「コンラート伯爵から預かっていた。お前宛てだ。「その時が来たら渡してくれ」と」
震える手で受け取った。封を切る。コンラート伯爵の、あの端正な筆跡。
『ニーナ殿。これを読んでいるということは、私はもうこの世にいないのだろう。覚悟の上だ。案じなくていい。老いた木は、若い芽のために倒れるのが道理というものだ』
便箋をめくると、続きがあった。
『お前は正しい。真実を追う勇気を、決して失うな。最後に──老いぼれからのお節介を許してくれ。あの騎士を、大切にしろ。良い男だ』
涙が落ちた。
止められなかった。テレーゼを失ったときも、手すりの傷を見つけたときも、マティルデの裏切りを知ったときも──ずっとこらえていた涙が、ようやく零れた。声は出さない。ただ、頬を伝って、膝の上に落ちた。
「泣けるときに泣いておけ。若いうちは、それが力になる」
宰相はそう言って、静かに席を立った。去り際に、私の肩にそっと手を置いた。枯れ枝のような、軽い手。でも、温かかった。
◇
一週間後。正式な審理の結果、ドロテアは公爵令嬢の位を剥奪され、領地の館に幽閉された。アルベルト殿下は王太子の地位を廃され、王国の北端にある修道院への隠棲が決まった。二人の陰謀に加担した者たちも、それぞれ処分を受けた。ザビーネは侍女頭を罷免され、宮廷を追われた。
宮廷は変わり始めていた。ゆっくりと、だが確実に。テレーゼやコンラート伯爵の死が明るみに出たことで、宮廷の中にも「声を上げていいのだ」という空気が生まれ始めていた。
ニーナは侍従見習いの身分から、宮廷監察官補佐に任じられた。コンラート伯爵の後任ではない。まだ若すぎる。でも──伯爵が積み上げた正義の種を、引き継ぐ立場だ。
ローレンツは公爵家を離れ、新たに設立された宮廷貿易監査局の記録官となった。彼の緻密な性格は、記録の仕事にこそふさわしい。
マティルデは──宮廷を去った後、故郷の小さな村に戻ったと聞いた。審理では、彼女自身が証言台に立った。震える声で、すべてを語った。
罪は問われなかった。彼女もまた、権力の構造の中で逃げ場を失っていた人間だったのだ。許すことと忘れることは違う。けれど──理解することはできる。
謁見の間で、私はアルベルト殿下に最後にこう言った。
「あなたには言っていませんが、あなたに会うのはこれが最後です」
それは別れの言葉だった。前世で言えなかった「さようなら」を、今度はちゃんと自分の声で告げるための。
前世では、誰にも別れを告げられなかった。横断歩道の上で、コンビニの紙袋を持ったまま、何の準備もなく世界から消えた。だから今世では──終わりを、ちゃんと終わりにする。区切りをつけて、前に進む。
そして。
夕暮れの中庭で、ノエルが待っていた。いつもの場所。いつもの半歩前。夕日が彼の黒髪を赤く染めていた。
「終わったな」
「はい。終わりました」
並んで歩いた。ノエルの歩幅は、もう私に合わせるまでもなく、自然に同じ速さになっていた。いつからだろう。いつの間にか、隣にいることが当たり前になっていた。
「副隊長」
「ノエルでいい。もう何度も言った」
「……ノエル」
名前を呼んだだけで、心臓がうるさい。こんなに近くにいるのに、まだ足りない気がする。
「コンラート伯爵が、手紙で書いていたんです。「あの騎士を大切にしろ」って」
ノエルの足が止まった。私も止まった。夕日が二人の影を長く伸ばしていた。
「……伯爵が」
「はい」
長い沈黙。風が薔薇の香りを運んでくる。あの夜──密会を目撃した夜と同じ薔薇園。でも、今はもう怖くない。
ノエルが──初めて、自分から手を伸ばした。私の手を、そっと握った。大きくて、硬くて、剣を振るい続けてきた手。でも、震えている。この人も緊張しているのだと気づいて、少しだけ笑ってしまった。
「俺は言葉が下手だ。気の利いたことは言えない。だから──こうする」
それだけだった。それだけで、十分だった。
握り返した。強く。
テレーゼ。コンラート伯爵。ふたりの分まで、この目で見続けると誓う。この手で、守れるものを守り続けると。
ノエルの手の温もりが、ゆっくりと私の指先に染みわたっていった。
ヴィスタリアの空は、どこまでも高く、澄んでいた。
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