5 噂のはじまり
学園に入学してから、半年が経った。
ゲームの進行上、最初の一年は共通ルートとなっている。攻略対象の好感度を上げたり、主人公の能力を育成したり、必要なアイテムを集めたりする期間だ。
攻略対象ごとの専用ルートに分岐するのは二年目以降で、悪役令嬢であるリコリスが本格的に物語へ関わり始めるのも、その頃だった。
そのため、今のところは大きなイベントもなく、私は比較的のんびりとした学園生活を送っていた。
私の周囲にも変化があり、気の合う友人が何人かできた。
なかでも親しくなったのは、侯爵令嬢のガーベラと伯爵令嬢のローゼだ。
ゲームでは私の取り巻きとして登場し、命令を受けてリリアに様々な嫌がらせをしていた二人だが、今の私たちの間にそのような上下関係はない。少なくとも私は、二人を取り巻きではなく友人だと思っている。
一方、リリアは生徒会のメンバーとの仲を少しずつ深めているようだった。
特定の誰かと親密になっているわけではなく、攻略対象全員の好感度が満遍なく上がっているように見える。
このゲームに逆ハーレムルートなんてなかったはずだけれど、私の知らない物語が絶対に存在しないとは言い切れない。
どのルートに進む可能性があるのかは気になるものの、私が下手に干渉すれば、本来の流れをさらに変えてしまうかもしれない。
そのため、できる限り静観しようと考えていた。
そんなある日のこと。
私が生徒会室に入ると、リゲル殿下に呼び止められた。
「リコリス嬢。最近、リリア嬢の教科書がなくなったり、水をかけられたりしているようでな。本人は何も言わなかったが、どうやらリコリス嬢が取り巻きの令嬢にやらせているという噂がある」
リゲル殿下は、真偽を問いただすような視線を向けてきた。
「何か知っていることがあれば聞きたいのだが、心当たりはあるかな?」
「っ!? わたくしは何も知りません! もちろん、やらせるなんてことはもってのほかですわ!」
私は慌てて首を横に振り、きっぱりと否定する。
リリアに関する噂は、私も初めて聞いた。ガーベラやローゼをはじめ、ほかの誰かにリリアの話をしたこともない。
まさに寝耳に水の話だった。
「ならいい」
リゲル殿下はそれだけ言うと、話は終わりだというように、手元の書類へ視線を戻した。
疑いが晴れたというより、現時点ではこれ以上追及する材料がないだけのようにも感じられる。
私も自分の席へ向かったものの、動揺は簡単には収まらなかった。
ここ最近は平穏な時間が続いていたため、突然持ち上がった不穏な話に、驚きを隠せなかったのだ。
少しするとリリアもやって来て、生徒会の仕事が始まった。
生徒会の仕事といっても、基本的には書類仕事が多い。各活動の報告書や財務報告の確認、陳情の受理、学園の規則との照合などである。そのほかにも、学園で行われる行事の企画や運営を担っていた。
私は書類に目を通しながら、ちらりとリリアの様子を窺う。
リリアはいつも通りに仕事をこなしており、特に変わった様子は見られない。少なくとも、目に見えて落ち込んでいるようには見えなかったため、私は少しだけ安堵した。
それからというもの、私は普段の教室でも、時折リリアの様子を確認するようになった。
けれど、表向きは彼女の身に何かが起きているようには見えない。
——あくまで噂だけなのかしら?
持ち物の中までは確認できないけれど、教科書がなくて授業に困っている様子はない。水をかけられたというわりには、制服や髪が濡れている姿も見たことがなかった。
本人が周囲に悟られないよう振る舞っている可能性もあるが、噂が事実なのか、それとも誰かが意図的に流しているものなのか、今の段階ではまだ判断できない。
その日の座学が終わると、次は音楽の授業だったため、教室を移動することになった。
ところが、移動の途中で忘れ物をしたことに気づき、私は一人で教室へ引き返した。
教室に近づいたところで、中から複数の話し声が聞こえてくる。
「ねぇ、リリアさん。あなた、最近調子に乗っていないかしら?」
「生徒会でも周りの皆様に媚びを売っているようですし……立場をわきまえたらどうですの?」
聞こえてきたのは、私の友人である侯爵令嬢のガーベラと、伯爵令嬢のローゼの声だった。
思わず足を止め、気配を悟られないように教室の中を窺う。
「私は媚びを売っているつもりはないです。あなたたちこそ、リコリス様のことを利用しているだけではないですか?」
「っ!? 言わせておけば!」
「あなた、覚悟なさい! 絶対、後悔させてあげますわ!」
「私は逃げも隠れもしないので、いつでもどうぞ」
リリアはそれだけ言うと、二人に背を向けて教室から出てきた。
私は反射的に、廊下の壁際へ身を隠す。
別に悪いことをしているわけではない。むしろ、堂々と姿を見せて三人を止めるべき場面だったのかもしれない。
それでも、突然の出来事にどう声をかければいいのかわからず、つい隠れてしまった。
リリアは私の存在に気づかないまま、音楽室の方へ歩いていく。
その背中を見送りながら、私は先ほどの会話を頭の中で反芻した。
ガーベラとローゼが、リリアを快く思っていないことは間違いない。
けれど、教科書を隠したり、水をかけたりしたのも二人なのだろうか。
そして何より、リゲル殿下が口にした噂では、私が取り巻きの令嬢たちに命じたことになっていた。
私にとって二人は大切な友人だ。
だからこそ、疑いたくはない。
けれど、先ほどのやり取りを聞いてしまった以上、何も知らなかったことにはできなかった。
このまま放っておけば、私が何もしていなくても、ゲームと同じように悪役令嬢として扱われてしまうかもしれない。
二人に、リリアと揉め事を起こさないよう話すべきなのだろうか。
しかし、こちらから問い詰めれば、二人を疑っていると受け取られかねない。かといって、曖昧な注意だけで素直に聞き入れてくれるかもわからなかった。
考えれば考えるほど、胃の辺りが重くなってくる。
平穏だと思っていた半年間。
けれど、私の知らないところでは、すでに物語が動き始めていたのだ。




