閑話 リゲル・ダフニール
俺はこの国の第一王子にして、王太子であるリゲル・ダフニール。
この日、学園の寮に用意された自室で過ごしていた。
明日の入学式では、生徒会長として挨拶をすることになっている。とはいえ、原稿や進行はすでに全て覚えており、不安はまったくない。
机に向かい、本を読んで寛いでいると、部屋の扉が控えめに叩かれた。
許可を出すと、寮の職員が入室し、手紙を預かったと告げる。俺が視線を向けると、控えていた執事のセバスが一歩前に出て、それを受け取った。
セバスはその場で封を確認し、危険な仕掛けや不審な点がないかを確かめる。
王太子である俺に届く手紙は、たとえ差出人が明らかであっても、無条件に手渡されることはない。形式上のものとはいえ、確認は必要だった。
やがて問題ないと判断したセバスが、恭しく手紙を差し出してくる。
「リコリス様からのお手紙のようですな」
封蝋に刻まれていたのは、オーフィア公爵家の紋章。
差出人は、俺の婚約者であるリコリス・オーフィアだった。
「リコリスから手紙なんて珍しいものだな……」
思わず、そんな言葉が口から漏れる。
リコリスから俺宛てに手紙が届くこと自体、まったくないわけではない。だが、その多くは彼女本人が丁寧に用件を伝えるものではなく、使用人や取り巻きを通じた一方的な要求に近いものだった。
婚約者なのだから会いに来るべきだ。
婚約者なのだから、もっと頻繁に手紙を送るべきだ。
婚約者なのだから、贈り物を用意するべきだ。
そういった言葉を、直接ではなく人伝に聞かされることが何度もあった。
だから今回も、似たような内容だろうと思っていた。
しかし封を開け、実際に目を通してみると、そこに書かれていた内容は予想に反して常識的なものだった。
明日からの学園生活についての挨拶。
久しぶりにお茶会をしたいという誘い。
それから、都合が合えば昼食を共にできないかという申し出。
どれも婚約者としては不自然ではない。むしろ、礼儀正しく整えられた文面だった。
だからこそ、余計に意外だった。
俺とリコリスの婚約は、両家が望んだものだった。
父上とリコリスの父であるオーフィア公爵は、昔からの親友であり、今では国王と宰相という関係でもある。公の場では主君と臣下として振る舞っているが、私的な場では気安く言葉を交わすほどに信頼し合っていた。
その縁もあって、俺とリコリスは幼い頃に婚約した。
年は一つ違い。
家格も申し分なく、王家と公爵家の結びつきを強めるうえでも、この婚約は周囲から祝福されたものだった。
俺自身も、最初からそれを嫌がっていたわけではない。
政略的な意味があることは理解していた。けれど、だからといって最初から義務だけの関係だと割り切っていたわけではなかった。
できることなら、リコリスを一人の女性として大切にしたいと思っていた。
婚約者として共に時間を重ね、いずれ夫婦となるのであれば、そこに少しでも温かな感情があってほしい。幼いながらに、そう願っていた時期もある。
リコリスは、幼い頃から美しい令嬢だった。
プラチナブロンドの髪も、整った顔立ちも、所作も、公爵令嬢として申し分ない。周囲の大人たちは彼女を褒め、将来は王太子妃に相応しい淑女になるだろうと口を揃えていた。
けれど、実際に接していくうちに、俺の中の印象は少しずつ変わっていった。
彼女は俺の前ではよく笑う。
言葉遣いも丁寧で、可愛らしく振る舞おうとしているのも分かる。
だが、自分より家格が下の者に向ける視線は冷たかった。気に入らないことがあれば表情を曇らせ、相手を遠回しに責める。使用人への扱いもぞんざいで、自分が望んだ通りに動かない者には露骨に不満を示し、罰を与えることさえあった。
俺に対しては多少我儘を言うことはあっても、基本的には良い顔をする。
だが、それ以外の者への態度を見れば、彼女がどのような価値観を持っているのかは自然と分かってしまう。
我儘で、傲慢で、自分が優遇されることを当然だと思っている。
そんな貴族令嬢は珍しくない。
だがリコリスは、オーフィア公爵家の長女にして未来の王妃のなる女性だ。貴族階級の頂点に近い場所にいるからこそ、その振る舞いが周囲へ与える影響は大きい。
下の者は逆らえない。
使用人は耐えるしかない。
家格の低い令嬢たちは、たとえ理不尽だと思っても笑って受け流すしかない。
そういう立場にいることを、彼女はどこまで理解しているのだろうか。
少なくとも、これまでのリコリスからは、自覚しているようには見えなかった。
むしろ、公爵令嬢という立場に甘え、自分の振る舞いが許されて当然だと思っているようにさえ見えた。
だからこそ、俺はリコリスに対して恋情を抱くことができなかった。
婚約者として向けていた情は、すでに消えている。
けれど、婚約者としての義務は果たさなければならないだろう。
「返事はどうしますか?」
黙って手紙を読み返していると、セバスが静かに問いかけてきた。
俺はもう一度、文面に目を落とす。
そこにある言葉だけを見れば、断る理由はなかった。
内容は礼儀に適っている。婚約者として挨拶を交わし、学園生活を前に顔を合わせたいという申し出も自然なものだ。
「了承として返してくれ」
俺はセバスにそう伝えた。
「かしこまりました」
セバスは静かに一礼し、返事の準備をするために下がっていく。
その背中を見送りながら、俺はもう一度だけリコリスからの手紙に視線を落とした。
丁寧な文面。
控えめな誘い。
これまでの彼女らしくない、落ち着いた言葉選び。
ただの気まぐれか。
それとも、何かを企んでいるのか。
少なくとも、明日顔を合わせれば、今のリコリスが何を考えているのか多少は分かるだろう。
俺は手紙を机の上に置き、静かに息を吐いた。




