命の代償
封魔の扉を開け、中に入る。相変わらず薬品の匂いと重たい空気が、ルミアの心を締め付ける。
時刻は深夜3時前。患者の側に座る関係者は、彼女以外誰もいない。ベッドには眠り続ける子供たち。
彼女はきっと母親で、娘にずっと寄り添ってそこに座り続けていた。座ったままベッドにうつ伏せで眠り、そこで初めて彼女の顔が見えた。
目には涙の跡、ぐちゃぐちゃになった髪。痩せた頬とクマ。肌は荒れて、手は爪が伸び切って変色していた。
(この人だ)
(”シャットダウン”)
闇が彼女とルミアを囲う。彼女はぴくりとも動かない。ルミアは彼女のボサボサの髪の上から、肩に触れて揺らした。
「ねぇ、起きて」
彼女はすぐに目を開けた。生気のない、灰色の瞳を、ゆっくりとルミアに向ける。
「あ…死神がこんなに美しいなんて…」
「死神…ね。その死神があなたの子供を生かしてあげる。だから、あなたに対価をもらうわ」
「へ……ははは…はは…なんでもあげるわ…私の命をこの子にあげてください…夢でもいい…死神様…私は…私は…この子を…助けてください!!」
女性は泣き顔をしていた。苦痛に満ちた、ひどい顔だった。けれど、その涙は乾いて雫が出ない。ルミアを死神と呼び、地面に突っ伏して、声を押し殺し、必死に自分の命を差し出すと懇願していた。
きっと寝ぼけているんだろう、とルミアは思った。けれど、彼女は呪いのような願いの言葉をずっと呟き続け、ルミアに懇願し続ける。
ルミアは心臓が痛くなり、自分の罪を認識した。
(なんて傲慢なことをしているんだろう)
(助けると言って対価を差し出せなんて…自分は一体……)
重ねた罪に心臓を自ら痛めつけている感覚に、言葉が出なかった。けれど、女性は願い続ける。
「シエルはまだ6歳なんです…死神様……どうぞ、私の命を…どうぞ…どうぞ…あの子を…」
ふと、ルミアはシエルと呼ばれた少女に目を向けた。消えいるその目は、しっかりとコチラを見ていた。
口を動かし、何かを言っている金髪の少女。ルミアはその唇の動きを読み取ろうと目を凝らした。
「『お…お…い…え』」
(ずっと言ってる…お、お、い、え?お、お、い…!?)
「『ころして』」
ルミアは膝から地面に崩れ落ちた。助けるために来たルミアは、命を差し出そうとする母親と殺してと頼む少女を前にして、頭がおかしくなりそうだった。ルミアはまだ10歳の少女。これほどの状況に身を置くにはまだ経験も何も足りなさすぎた。
(私は…一体…何を…)
『ルミア。答えなさい。なぜ女神はあなたに再生の力を与えなかったの?』
(知らない…私は女神の心なんて知らない…)
『なら、あなたに慈悲はないの?』
(慈悲?こんなの間違ってる…対価を払えなんて…)
『あなたは助けたいの?終わらせたいの?』
エデンは再生できない。女神とは違う。けれど、慈悲がないわけではない。対価を求めることは、この世界において理だった。
エデンはルミアが苦しむ姿を見て、体を震わせ怒りをあらわにした。
けれど、彼女の救済は、女神の救済ではない。けれど、差し出される対価に救済しようとしただけ。
『もちろん、ルミアが決めることよ。でも、対価のない助けなんてこの世界にあってはいけないの』
(わからない…こんなにも…私は…何も知らない…)
『なら帰りましょう。あなたはこの親子が見た夢だった。助けることができたのに、しなかった。それだけよ』
ルミアはエデンの言葉に疑問を感じた。『助けることができるのにしない』と言われたことへ、不満が溢れた。
(助けることができるなんてどうして言えるの?対価を求めることがどうして助けになるの?)
『サイラスはなんて言ったかしら?命は差し出せないが”なんでもする”って言ったのよ!?あなたに…その親子の苦悩がわかるの!?わからないでしょ!!命を繋いでもらえることに対価を求められても、その子達は——生きていることだけであなたに感謝するのよ!?』
エデンは怒り狂い、ルミアの瞳を覗き込んだ。白い体からゆらゆらと煙のような何かが出ていた。ルミアは恐ろしいとは思わなかった。自分のために怒っていることがわかったから。
(なら…命があることを望んでるんだよね…?)
『死神に縋るくらいなのよ?その少女も”殺して”なんて…本気で言うと思うの?母親を解放してあげたいだけよ。命を粗末にする人間に、理屈なんて通用しないの』
「繋ぐ…か…ねぇ、カナン。顔をあげて」
カナンと呼ばれた黄土色の髪の母親。彼女はルミアの声にゆっくり、顔をあげ、その声に歪んだ顔を向けた。
「私は死神ではないわ。だから、対価にあなたの命はいらないの」
「な、なら何を…何を差し出せばよろしいのでしょうか!?」
「ねぇ、聞いてもいいかしら」
「はい!何なりと…」
「シエルは生きたいと望んでるよね?」
「…もちろんです…もちろんです!!あの子はもっと生きることを望んでます!!!」
「そしてあなたも望んでる。あの子の成長を側で見たいって」
「…もちろんです…あの子は…いい子なんです。私の宝ですから」
ルミアは対価を望まなくても、いいと思っていた。けれど、それでは魔法が行使できない。
(わかってる)
ルミアは魔法をよくわかっている。女神の加護はあっても、今から使うのは闇の魔法だと言うことを。
だから、ちゃんと女性に説明して、あらためて聞くことにした。彼女に選択を委ねるように。
「今からシエルを助けるわ。けど、これはあなたと私の契約なの。今からすることは誰にも言ってはいけない。それにシエルには一度……死んでもらうわ」
「え!?」
「死ぬと言っても仮死状態よ。ほんの数秒。でもそうしないと体を元の状態に戻せないの」
カナンは息を止めた。目を見開いて、理解できない様子。ルミアは当然の反応だと、自分を責めた。唇に力を込めて、今にも泣いてしまいそうな気持ちは、無意識に両手の震えとなっていた。
「でも…助けてくださるのでしょう?あなた様は…助けるとおっしゃった」
「えぇ。そのつもりよ。でも、初めてやるの。どうなるか私にもわからない」
カナンはルミアからゆっくり視線を外した。床に目をやり、体は震えていた。けれど、また顔を上げ、白銀に輝く少女の黒い瞳を真っ直ぐに見つめた。
「それでもいいです。このまま死んでいくのを見るより、あなた様の可能性を信じます」
「信じるのはシエルの生きる力よ。私ではないわ。私は助けようとするだけで——」
「隣のベッドの子は先週亡くなりました。次はこの子の番が来ると…そんなことしか考えられないんです。昼間に王子は”決して希望を捨てるな”と…”祈れ”と……私はもう祈りました。希望なんて見えないんです」
乾いた瞳から溢れ出す、大粒の涙。ルミアは直視できなくなり、病室の天井を見た。姿勢を直し、立ち上がり、カナンの横を通り過ぎる。
呼吸の浅いシエルに無表情で語りかけた。自分を鼓舞するように、心を闇に染めた。
「殺してなんて言わないで。あなたに願われる筋合いはない。でもよく聞いて。シエル」
「私はあなたの生きる手伝いをするだけ。生きると決めるのはあなたよ」
ルミアはシエルに被せられたガラス容器を取り外し、そっと壁に置いた。
そしてエデンに目で合図し、エデンは悲しそうに微笑みを震える主に向けた。
手をシエルの胸に当て、彼女の心臓の鼓動を止める魔法を行使する。精霊の卵が、母体が死んだと勘違いさせるために。
”ジュエルバインド”
シエルの体は撥ね、呼吸が消えていく。声にならない喉を通る空気の音は、ルミアの手を震えさせる。
そして彼女の体から透き通る白い球が出てきた。うっすらと光るその球は煙のようで、息を吹き掛ければ消えるほど。
エデンはその球を闇で覆い、捕まえる。
『いいわ!!』
その言葉にルミアは渾身の治癒魔法をシエルに注いだ。深緑の濃い光がシエルを包み、次第に黄金の粒子がシエルの心臓に収束していく。
(生きて…)
(生きて!)
(生きなさい!!)
「っかぁ!」
シエルは息を吹き返した。呼吸をしながら咳き込み、目を閉じたまま、雫を落とした。その雫は彼女の涙ではなく、ルミアの涙だった。生きているとわかったルミアは、その場に崩れた。
魔力がなくなったわけではなく、終わったと安堵した途端に体の力が抜けてしまったから。
「はぁ!!あぁ…息を…息をしてます!ちゃんと!!治ったんですか!?どう——」
「ちゃんとできたよ。シエルは助かった…」
カナンはシエルを抱きしめ、声を出して泣いた。眠ったままのシエルの顔は、頬を赤く染めて眉間に皺を寄せて苦しそうだった。
「ちゃんと温かい…あぁ…——」
ルミアは深呼吸して、また天井に視線を向ける。その視界にエデンが優しい微笑みで覗く。
『お疲れ様』
(これは精神を削られる方法だわ。助かったから良かったけどさ…)
『ふふふ、まだまだ成長の余地があるのよ。それにあなた無意識に…いや、なんでもないわね』
(ん?卵は?)
『あるわ。ルミアの精霊が増えるのはちょっと嫌だけど』
エデンは黒い球をルミアに見せ、彼女の手にソレを渡した。ルミアはその球に魔力と浄化を込めた。ノックスの時よりも簡単に、その卵を孵化させる。
エデンの闇の球の形が変化していき、形となって光り輝く。闇の魔力の影響なのか、ノックスの時と同じ、黒い姿が現れた。
黒い羽、黒い嘴、青い瞳。
『——あ…主…』
「カラス?」
首を傾げてルミアの前で浮いているその鳥は、カラスにしては羽がふわふわで、つぶらな瞳は青く綺麗に透き通っていた。カラスにしては小さな嘴は、ルミアに向けて小さく動く。
『主……名前…』
(なんか…ノックスとエデンの時と違うね…雰囲気というか…)
『どう違うのかしら?名前を求めてるのは同じよ』
小鳥のようなカラスのような黒い鳥は、ルミアを静かに大人しく見つめて名前を呼ばれるのをひたすらに待っていた。暴れ猫とも、凶暴な純白ドレスとも違う。
(名前…黒…ノックスと被るな…名前…あ、のあ?)
『主、ちゃんと決めてくれ…』
(ノア!)
黒い鳥はゆっくりと羽を広げ、光り輝き、空中を飛んでルミアの肩に止まった。そしてルミアの頬に擦り寄って、その温もりを伝える。
『ノア。主と共に』
静かな精霊もいるのか、とルミアはノアを愛おしく撫でた。死にそうだった命を救えたことで、より一層、ルミアはノアを愛おしく思った。
その後はカナンと闇の魔法で契約をした。この契約はカナンが裏切れば、記憶の一部を失うというもの。カナンは喜びの涙を流して説明を聞いていたが、ルミアの望む対価を言われた時、信じられないという顔をしていた。
「…本当にそれでよろしいんですか?それは…本当に対価でしょうか?」
「対価だよ。だって裏切ればカナンの記憶が無くなるんだよ?」
「裏切らなければいいのでは?」
「……そりゃそうだけど……一生仕えるんだよ?」
「それは願ってもない、喜ばしいことです……本当に侍女として働くだけでいいんですか?」
「秘密を誰にも言わないこと!そこが一番大事なんだから」
「……はぁ」
カナンは困惑しながらも、ルミアに了承していた。エデンは呆れた顔で自分の爪をずっといじっていた。シエルをまたガラス容器に入れて、数日後に迎えを寄越すと伝えた。
ルミアは結界を解き、存在を消した。カナンはルミアが突然消えてキョロキョロと辺りを見回していたが、ふふ、と微笑んでシエルの横に座った。ルミアは他の患者を見ないようにして、音もなく病室を出た。
部屋を出て、辺りを見渡した。暗い月明かりの廊下に、倒れているはずのシドがいなかった。
(シドがいない…)
『仲間が連れてったんじゃない?それより早く帰らないと、朝日が登ってしまうわ』
(うん…そうだね)
肩に乗ったノアは相変わらず無口で、ルミアから離れなかった。エデンと一緒に来た道を闇に隠れながら帰った。
温室では異変はなかった。ノックスが自分も行きたかった、と不貞腐れてクッキーをやけ食いした跡が机の上に残っていたくらい。彼は黒猫姿に戻って、ルミアのベッドで寝ていた。
エデンもルミアも疲れ果てていた。ソファに座って自分で用意したお茶と食事を摂ると、眠気が一気に襲ってくる。けれど、エデンがルミアの気に触るような言葉を投げかけてきた。
『もう2、3人は助けれたんじゃないかしら』
「エデン、言ったでしょ?1人だけって」
『でも心では全員助けたいと思ってるくせに…どうして?』
ルミアは確かにあの病室の患者全てを、シエルのように助けることができた。けれど、シエルを助けることができたから、結果論でしかなかった。同じように患者を一度仮死状態にして、生き返る保証がどこにもなかった。行使はできても、結果がわからないとなると、ルミアは簡単に行動には移せなかった。
「今はまだ、あのやり方には賛成できないんだよ。助かるかどうか、患者次第のところもあるし…何より…もう、私がやりたくない」
『そう。人間らしいところもあるのね』
「は?エデン、その言い方だとまるで私が——」
『私も疲れたわ〜おやすみなさぁ〜い』
「エデン!?」
ルミアは逃げるように去っていった白ウサギになったエデンを見送って、大きなため息をついた。そして首をコクンと後ろに倒して、視界を天井に向けた。眠りたくても、眠くても、まだあの命を差し出そうとするカナンとシエルの顔が頭によぎっていたのだった。




