敵襲
先ほどまで騒がしかった音質は、信じられないほど静まり返っていた。疲れ果てたルミアは、一直線に天幕のベッドへと倒れ込んだ。そして、異様なほどの静けさが、ルミアを不安にさせる。
(あれ?エデンたちがいない?)
「エデン?…ノックス?…ノア?」
いつも寝る前にベッドの周りで、誰がルミアの腹の上に乗るか、なんて争うはずの彼らが見当たらなかった。
「エデン!?ノックス!?ノア!!」
キョロキョロと周りを見渡し、歩き回り、天幕の外まで探しに行こうと、入り口の布をめくった。
そこには——影のような、紺色の服を着た背の高い男が立っていた。
月の光でしか見えない男の姿。気づけば灯りの魔石が消えている。
服装は異国のような様式で、胸元には、深緑の宝石が埋め込まれたブローチをつけた男。漆黒の髪に翡翠の瞳。見知らぬ不審な男が、ルミアを見つめて、立っていた。
「だれ…?」
ルミアは咄嗟に女神の神眼を使った。
『******************************』
(!?)
浮かび上がった文字は壊れていた。文字として読めず、記号のようなものが羅列してあった。この男の情報だから見れないのか、それとも神眼が使えなくなったのか、判断がつかない。
ルミアは半狂乱に、横に置いてあった植木鉢の植物を必死に鑑定した。
(嘘でしょ!?)
浮かび上がる文字は全く同じで、読み取れなかった。いつもの名前もなければexも現れない。
焦るルミアに、一歩ずつ、近づく不審な男。
彼に視線を戻した瞬間——目の前まで来ていた。急いで魔法を放とうと、手に魔力を込めた。
「なんで!?」
——魔法が使えなかった。
体が強張り、目の前の男の顔すら、恐怖で見れない。ルミアは必死に天幕の中へと逃げようと、後ろに振り返ろうとした。けれど、男はルミアの腕を掴んで逃がさない。
「いやっ!!!」
(やめてっ!!!)
男はルミアを引き寄せ、腰に手を回して無理やり顔を合わせた。ルミアの頭を大きな手で固定し、上に向け、目と目を合わせる。ルミアは両手で拒み、男から離れようともがいた。
「ルミア…俺が…わからないのか?」
「は!?」
男は一瞬眉間に皺を寄せる。その顔は困惑しているように見えた。けれど、すぐに頬を緩めてニヤッと口に弧を描く。ルミアは必死に抵抗しようともがいた。男の力は強く、少女の力は弱かった。
ルミアの頬にそっと手で触れ、感触を確かめるように彼女の額に、男の顔を擦り寄せる。ルミアは背筋にゾクゾクと悪寒が走り、目を閉じた。
(怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い)
「ふふ、まじか…」
謎の男はルミアの鼻に何かを匂わせた。甘い、花のような香り。ルミアは目を開けると、男が何かの小瓶の口を、ルミアの鼻に近づけていた。
(なにこれ!?嗅いじゃった!?嫌、やばい!!嫌!怖い!!)
ルミアの鼻から小瓶を離す男。けれど、片方の手は、彼女を離さない。ルミアは必死に男の胸を両手で離そうと力の限り押し離していた。けれど、次第にその力が出せなくなり、意識が飛びそうになる。
その時、男はルミアの唇に近づき、熱い唇を押し当てた。抵抗する力もないルミアに口付けをした。
「…んんッ」
湿った音が温室に響き、ルミアの意識は飛んだ。
「こんなはずじゃなかったのにな…」
男は小さく呟くと、ルミアを抱き上げ、ベッドへと運んだ。彼女の頬にかかった長い白銀の髪を撫で、何度もキスをする。愛おしいように、眠ったルミアに優しく触れる。もう一度、名残惜しそうに唇を奪う。
そして、ベッド傍に大きな透明な石を置いて——男は去った。
ジャベリンの監視も、精霊の干渉も、ルミアの魔力さえ、機能できなくした男。痕跡もなく、ただ衝動的にルミアに会いに来た、帝国の使者、ジェイド・クァンタム。
*——*——
「どこに行ってたの?」
皇女はジェイドの部屋に勝手に入って、ソファでくつろいでいた。王宮が用意した、迎賓館の一室。彼女はその狭さに文句を言っていたが、ここはグランパール魔法王国。エルドニア帝国とは雲泥の差がある弱小国。
彼女に用意された部屋すら、狭いと文句を言っていた。従者の部屋に押し入って、荒らした部屋で寛ぐ帝国の皇女・ルベリアータ・コーゼス。暗い赤毛が艶っぽく、男を籠絡させるほどの美貌の持ち主。
「少し、散歩に出かけただけですよ。殿下、勝手に人の荷物を漁らないでください」
(あーせっかくルミアに会えたのに…なんであいつ神眼で見えなかったんだ?)
部屋は見事に荒らされていた。開け放たれたトランク。床に転がる書類。引き出しは全て抜かれている。ジェイドはそれらを片付けながら、無表情を貫く。
「だって退屈なのよ。もう…レオったら婚約者に夢中って顔でガードが硬いし、弟なんて挨拶すら返さないのよ?」
「それは殿下が威圧的なのではないですか?大会でも顔を隠してらっしゃいましたし。せっかくの美貌を隠しては意味がないでしょう?」
(抑えられなかったとは言え…不覚にも手を出してしまった…魔石でどうにか誤魔化したが…)
皇女は長い足を淫らに見せ、ソファに横になった。天井を見上げて大きなため息を吐く。
「ジェイドォ…あのルミアって子、なんだったの?」
「彼女は三公爵のアヴァロフ家の娘で、軍部を司る家の才女です。だからこの国の王子の婚約者に選ばれたのです」
(いい加減自分の部屋に帰ってくれないか、殿下)
ジェイドは散らかされた自分の荷物を一つ一つ拾い、トランクに収めて片付けていた。皇女は構わず、ソファで寝返りを打ち、机の上のグラスを指で弾いて音を出した。
「ルベリアータ殿下、焦る気持ちも退屈なのもわかりますが、ここは私の部屋です。そしてここは他国の王宮で——」
「わかってるわよ、そんなこと。だからジェイドがいなくなったのを心配したのよ?ただでさえ気味の悪い国なんだから、勝手にいなくならないでちょうだい」
ジェイドは片付け終わり、皇女の側へと向かい、跪いた。
「大変申し訳ございません。私も情報は聞いておりましたが、確かめたくなってしまいまして」
「で?どこに行ってたの?」
「迷宮の情報を集めておりました。この国は平和そのもの。帝国のような争いなど無く、迷宮自体は小規模。脅威となる魔物もほとんど確認できませんでした」
報告は完璧だった。だが——それは半分だけの真実。
皇女はくすりと笑う。
彼女は座り直し、グラスを片手に取ると、ゆっくりと揺らし、果実水の匂いを嗅いだ。そして面白くもなさそうに、呟く。
「平和ねぇ…」
薄く目を細める皇女。彼女はグラスに視線を落としたまま、吐くように呟いた。
「この国の連中、本気で信じているんでしょう?」
果実水を飲み干し、従者を見る。
「女神なんて、本当にいるって」
ジェイドは皇女に微笑み、まっすぐと見つめた。
「えぇ、それを証明するのが蒼の森の結界のようです」
(その結界も緩み始めた。ルミアは神眼が使えなかった…)
「ほんと、不気味な結界よね。レオに聞いても絵本のおとぎ話なんて見せるのよ?」
「信仰とは、そういうものです」
(つまり女神は力を失い始めた?)
「つまらないわ。まるでお遊戯よ」
ジェイドは皇女から離れ、窓際に立つ。カーテンを開けて部屋に充満した皇女の香水の匂いを換気した。新鮮な故郷の空気を思い切り吸い込み、白銀の少女を思い出す。
(だからルミアに会いに行ったのに…あいつ…)
そこで彼の思考は途切れた。脳裏に浮かぶのは計画でも、計算でもない。
恐怖に震えていた少女の顔。
頬に触れたときの温もり。
(……あいつ)
ほんのわずかに、ジェイドの口元が緩む。
(可愛かったな)




