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深夜のコンビニで「死にそうな美女」に豚汁を奢ったら、翌日会社で鬼上司がチラチラ見てくる件  作者: 伊達ジン
第4章 公私混同の同棲生活

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第64話 琥珀色のマグカップ出動

 冬の刺すような寒さが少し和らぎ、柔らかな日差しがタワーマンションの広大なリビングに差し込む土曜日の朝。


 俺は、乾燥機から取り出したばかりの、ほかほかと温かい洗濯物の山と格闘していた。

 フローリングの床に座り込み、洗い立ての柔軟剤の香りに包まれながら、無心で手を動かす。平日の過酷な営業業務でささくれ立った神経が、こうした単調な家事作業によって少しずつ均されていくのを感じていた。


 足元では、愛犬の豆柴・レオが、俺がうっかり落とした黒い靴下を奪い取ろうと、虎視眈々と短い尻尾を揺らしてタイミングを計っている。


「こら、レオ。それはおもちゃじゃないぞ。パパは今、重要なミッションの最中なんだから邪魔するな」


 レオの鼻先から間一髪で靴下を回収し、適当に丸めてカゴに放り込んだ時だった。


「……一郎。ちょっと待って」


 寝室から着替えを終えて出てきた雪が、俺の手元を見てピタリと足を止めた。

 ゆったりとしたグレーのルームウェアに、分厚い黒縁メガネといういつものオフモードの出立ちだが、その目は全くリラックスしていなかった。彼女は、俺が畳んで積み上げたバスタオルの山を、まるで重大な決算書のミスを見つけたかのような、鋭く冷ややかな視線で見つめている。


「どうした?」

「……そのタオルの畳み方、前にも言ったはずよ。端と端をきっちり揃えて、四つ折りにしないと」


 雪は俺の隣に座り込み、俺が畳んだばかりのタオルを無言で一度広げた。そして、神経質なほど正確な手つきで、角と角をミリ単位で合わせるように畳み直していく。


「ほら。こうしないと、洗面所の棚に収納した時に変な隙間が生まれて、無駄なスペースができるわ。それに、角が揃っていないと見た目のノイズになって、非効率よ」


 俺は、無意識のうちに眉間にシワを寄せていた。

 平日の激務をこなし、貴重な休日の朝に自主的に家事を手伝っているつもりだった。それなのに、まるで会社で部下が怒られているようなロジックで詰められると、いくら温厚な俺でも少し言葉が尖ってしまう。


「……タオルなんて、使えば同じだろ。俺だって適当にやってるわけじゃない。ただ、そんなにミリ単位でキッチリしなくても、棚には収まる」

「『押し込む』という行為自体が余計な労力なの。最初から正確に畳めば、取り出す時もストレスがないわ。小さな妥協が、全体のパフォーマンスを落とすのよ」

「会社じゃないんだぞ、雪」


 俺は低く、少し強い声を出してしまった。


「休日の家事くらい、少し適当でいいじゃないか。……そんなに完璧を求められると、息が詰まる」


『息が詰まる』という言葉が口を突いて出た瞬間、しまった、と思った。


 雪の肩がビクッと跳ね、分厚いメガネの奥の瞳が、サッと傷ついたように揺れた。


「……そう」


 雪は、スッと感情を消した「氷の女帝」の顔になった。


「私のルールが細かいって言いたいのね。……分かったわ。じゃあ、私が全部やるから、貴方はもう触らないで」


 彼女は冷え切った声でそう言うと、俺の手から残りのタオルを奪い取り、立ち上がって洗面所へと向かってしまった。

 バタン、と冷たいドアの音がリビングに響き渡る。


 取り残された俺とレオは、ただ無言で顔を見合わせるしかなかった。レオは不思議そうに首を傾げ、先ほどまで執着していた靴下への興味をすっかり失ったように、ペタンと床に伏せた。


★★★★★★★★★★★


 気まずい重圧に耐えかね、俺は頭を冷やすために外へ出た。

 当てもなく表参道のケヤキ並木を歩く。休日の昼下がり、行き交うカップルや家族連れの楽しげな声が、独り歩きの俺の耳にはやけに遠く聞こえた。


 冬の冷たい風がコートの襟元から入り込み、首筋を冷やす。ポケットに両手を突っ込み、深くため息をついた時だった。


「……Osoオソ! 発見!」


 不意に背中をバシッと勢いよく叩かれ、俺はビクッと体を震わせた。

 振り返ると、大きなサングラスを頭に乗せたカルメン・ベガが、冬の寒さを吹き飛ばすような明るい笑顔で立っていた。


「Hola! 休日の昼下がりだって言うのに、なんてお葬式みたいな顔して歩いてるの! 眉間に深いシワが寄ってるわよ、クマさん」

「……カルメンか。奇遇だな。ちょっと、考え事をしていてね」

「No! その『ちょっと』は絶対に放置しちゃダメなやつよ。そんな顔で歩かせるわけにはいかないわ。……今日は私が、とびきり美味しい場所に連れ出してあげる! 最高のバルを見つけたの」


 俺は反論する間もなく彼女に腕を組まれ、路地裏にある隠れ家のようなスペインバルへと強引に連行されてしまった。


 昼下がりから活気のある店内は、ガーリックとオリーブオイルの熱い香りで満ちていた。

 カルメンは慣れた様子でカウンター席を確保すると、サングリアのグラスを二つ頼み、ショーケースに並んだ色鮮やかなピンチョスを次々と注文していく。


「さあ、食べて! アンチョビとオリーブのピンチョスに、マッシュルームの鉄板焼きよ。塩気と酸味が最高なんだから。……で、吐き出しなさい。Lee-sanと何かあったんでしょ?」


 俺は出されたアンチョビの乗ったバゲットを一口齧った。強い塩気とニンニクのパンチが、落ち込んでいた胃袋を強制的に叩き起こし、少しだけ頭がクリアになるのを感じる。


「……顔に書いてあるか?」

「『妻と喧嘩して家を追い出されました』って、デカデカとね。分かりやすすぎるわよ」


 カルメンの観察眼には勝てない。俺は観念して小さくため息をつき、今朝の洗濯物の件を短く話した。


 聞き終えたカルメンは、あっけらかんと笑い飛ばした。


「Hahaha! なぁんだ、そんなこと! 相変わらず完璧主義のLee-sanらしいわね。でもねOso、彼女は怒ってるんじゃないわ。傷ついたのよ。……不器用なLee-sanなりに、家事を分担して貴方の負担を少しでも減らしたかったんじゃない?」


 カルメンはサングリアを美味しそうに飲み干し、俺の肩をポンと叩いた。


「洗濯物の角が数センチずれてたからって、世界が滅亡するわけじゃないでしょ? 意地を張る時間は人生の無駄遣いよ。美味しいケーキでも買って帰って、素直に謝りなさい!」


 その底抜けのラテンの明るい言葉に、俺は思わず毒気を抜かれたように小さく息を吐き出した。


「……ああ。そうだな。ありがとう、カルメン。目が覚めたよ」

「My pleasure!(どういたしまして!) さあ、気分が晴れたなら、イベリコ豚の生ハムも追加よ!」


★★★★★★★★★★★


 夕暮れ。

 街灯が点灯し始めた駅前のケーキ屋で、俺は雪の好きな和栗のモンブランを二つ買い、足早にマンションへと向かった。


「……ただいま」


 静かな玄関。コートを脱いでリビングへ入ると、テーブルの上には、見事に角が揃えられたバスタオルが山積みになっていた。


 そして、キッチンから雪が出てきた。

 その目は少し赤く腫れているように見え、視線を下に向けている。

 彼女の両手には、小さな木製のトレイが握られていた。そこには、琥珀色と瑠璃色の二つのマグカップが乗っており、淹れたてのコーヒーの湯気が細く立ち上っている。


 雪は、少し視線を泳がせながらゆっくりと近づいてくると、琥珀色のマグカップを俺の前にスッと差し出した。


 俺はハッとして、彼女の顔を見た。


『どんなに腹が立っていても、このカップでコーヒーを出されたら休戦する』という、あの日の不器用な約束。


 雪の唇が、微かに震えていた。


「……ごめんなさい」


 消え入りそうな、小さな声だった。


「私、会社での癖が抜けなくて……自分のやり方を押し付けて。貴方がせっかく手伝ってくれたのに……ひどい態度をとって、ごめんなさい」


 俺は何も言わず、差し出された琥珀色のカップを大きな両手で包み込み、一口飲んだ。

 少しだけお湯の温度が高くて、苦味が立っている。でも、体の芯からじわじわと温まる味がした。


「……俺の負けだ。休戦の合図だからな」


 俺はカップをテーブルに置き、雪を真っ直ぐに見た。


「俺こそごめん。あんな言い方、最低だった。……俺も、雪のやり方を少しずつ覚えるよ。だから、もう謝らないでくれ」


 そう言って彼女の小さな体をそっと抱き寄せると、雪の細い腕が、俺の背中にギュッと回った。


「……うん」


 しばらくの間、俺たちは無言で互いの体温を確かめ合った。

 強張っていた彼女の体が、ゆっくりとほぐれていくのが分かる。


 やがて、雪が俺の胸に顔を埋めたまま、ボソリと呟いた。


「……でも、一つだけ言わせて」

「ん?」


 雪は片手で自分のスマホを取り出し、画面を俺の顔の前に突きつけてきた。

 そこには、カルメンのSNSの投稿画面。満面の笑みで俺の腕に抱きつくカルメンと、驚いて間抜けな顔をしている俺のツーショット写真だった。


『Osoと休日ランチ! 落ち込んでたから気分転換させてあげる!』という陽気なテキストが添えられている。


「……私が意地張って悩んでる間に、ラテンの女に取られるかと思って……すごく、焦ったじゃない……っ」


 不満げに上目遣いで睨んでくるその顔がたまらなく可愛くて、俺は思わず吹き出し、彼女の丸い頭を優しく撫でた。


「取られないよ。ただ説教されてただけだ。……それに、俺のコンシェルジュ契約は、あんたとの終身契約だからな」

「……生意気。部下のくせに」


 雪は泣き笑いのような顔をして、俺の胸にぐりぐりと額を押し付けてきた。


「さて、コーヒーが冷める前に、買ってきたモンブランを食べよう。雪の好きな和栗だぞ」


 俺が紙袋を持ち上げて見せると、雪の目がパッと輝いた。


「……うん」


 足元では、険悪な空気が完全に消え去ったことを察知したレオが、「僕も混ぜて!」とばかりに短い尻尾を振りながら、嬉しそうに俺たちの足首にまとわりついていた。

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