第63話 レトルトカレーの魔法
丸一日の徹夜と現場対応を終えた、翌日の23時40分。
駅から自宅までの道のりは、まるで泥の沼を歩いているかのように足が重かった。冷え切った夜風がスーツ越しに体温を奪っていく中、街灯の光だけを頼りに重い足を前に進める。
ようやくたどり着いた自室の玄関。重い金属製のドアを開けると、静まり返った暗い空間に自分の大きなため息が落ちた。
連日のシステム導入プロジェクトの重圧は、俺の体力と精神力を削り取るには十分すぎる破壊力を持っていた。
革靴を脱ぐ動作すら億劫で、しばらく土間に立ち尽くしていると、タタタッと軽い爪音が廊下から響いてきた。
「……ワンッ」
豆柴のレオが、短い尻尾をプロペラのように振りながら足元にすり寄ってくる。
遅い帰宅にも関わらず、文句ひとつ言わずに出迎えてくれるこの小さな家族の存在に、少しだけ肩の荷が下りる気がした。
しゃがみ込んでその丸い頭を撫でると、レオは嬉しそうに俺の指先をペロペロと舐める。
「ただいま、レオ。遅くなってごめんな」
コートを脱ぎ、重い鞄を置いてリビングへ足を踏み入れた俺は、思わずその場に足を止めた。
部屋の中に、強烈に食欲を刺激する香りが充満していたのだ。
クミンやコリアンダーといったスパイスの効いた、暴力的なまでに胃袋を煽る香り。
キッチンには、エプロン姿の雪が立っていた。
ネイビーのオフィスカジュアルから、ゆったりとしたグレーのルームウェアに着替えている。
彼女は俺の足音に気づくと、コンロの火を止めて振り返った。
「……おかえりなさい。遅かったわね」
「雪。起きてたのか」
「こんなに遅くまで頑張ってる貴方を放って、私だけ先に寝るわけないじゃない」
彼女はフイッと少しだけ顔を背けながら、オーブントースターから何かを取り出した。
厚手のミトン越しでも熱が伝わってきそうな耐熱皿が、ジュージューと音を立てながらダイニングテーブルの鍋敷きの上に置かれる。
「手洗ってきなさい。……夜食、できてるわよ」
その不器用で真っ直ぐな言葉と、スパイスの香りに、俺の疲労は半分以上吹き飛んでしまった。
★★★★★★★★★★★
洗面所で手を洗い、テーブルに向かう。
目の前に置かれたのは、黄金色に見事な焼き目がついたカレードリア風の一皿だった。
表面でグツグツと沸き立つ溶けかけたチーズ。その焦げた香ばしい匂いの奥から、複雑でスパイシーな香りが立ち昇っている。
徹夜明けで固まっていた胃が、その香りを嗅いだ瞬間に強烈な空腹を訴え始めた。
「いただきます」
スプーンを入れ、たっぷりとすくって口に運ぶ。
熱っ、と一瞬息を呑むが、その直後に濃厚な旨味と刺激が口内を支配した。
ただのカレーではない。チーズのまろやかさの下に、いくつものスパイスの香りが重層的に広がっていく。
「……美味い。なんだこれ。どこかの専門店のテイクアウトか?」
俺が驚いて顔を上げると、向かいの席に座り、頬杖をついていた雪が、少しだけ勝ち誇ったように悪戯っぽく目を細めた。
「スーパーで特売だったレトルトカレーよ」
「レトルト? 嘘だろ」
「本当よ。ご飯とカレーの間にスライスチーズを挟んで、上からもピザ用チーズをたっぷりかけて焼いただけ。……あと、仕上げにクミンとチリパウダー、ほんの少しガラムマサラを振ったわ」
彼女は俺が夢中で食べる様子を、満足そうに眺めている。
「以前、深夜のコンビニで貴方がやってた『足し算』の応用よ。……疲れてる時は、スパイスと暴力的なカロリーが必要なんでしょ?」
彼女の言葉に、俺はスプーンを持ったまま思わず言葉を失った。
彼女は、決して料理が得意なわけではない。コンロを複数同時に使うことすら苦手なはずだ。
それなのに、俺が徹夜で残業しているのを見て、どうすれば俺を癒やせるか彼女なりに必死に考え、かつての俺の「教え」を再現してくれたのだ。
焦げ目を綺麗につけるために、オーブントースターの前で真剣に時間を計っていた彼女の姿を想像すると、胸の奥が熱くなる。
「……ありがとう。最高に美味いよ、これ」
俺が素直に言うと、彼女は少しだけ耳の先を赤くして、視線をテーブルの木目へと逸らした。
「……昨日、一人でご飯を食べたら、全然美味しくなかったの。ただの栄養補給みたいで」
ぽつりと、彼女が小さな声でこぼす。
テーブルの上で、自身の指先を少しだけいじるように触れ合わせた。
「だから……貴方には、ちゃんと『美味しい』って思えるものを食べてほしくて」
余計な装飾を削ぎ落とした、あまりにもストレートで生っぽい彼女の本音だった。
かつては一人で、無表情で食事をこなしていた彼女が、一人で食べるご飯を「美味しくない」と感じるようになった。
そして、帰ってくる俺のために、不器用ながらも精一杯の『美味しい』を用意して待っていてくれた。
「ああ。一人で食う飯より、百倍美味い」
俺はそれ以上何も言わず、夢中でスプーンを動かした。
チーズのコクとスパイスの香りが、限界まで酷使した徹夜明けの身体に、じんわりと染み渡っていく。
どんな高級レストランの料理よりも、この一杯のレトルトカレーが、俺にとっての最高の御馳走だった。
★★★★★★★★★★★
カレーを完食し、俺が淹れた温かいほうじ茶を飲みながら一息つく。
満腹感と温かいお茶の香りが、心地よい眠気を誘い始めていた。
「……それで、今週末の予定なんだけど」
雪が湯呑みを両手で包み込みながら、少しだけ身を乗り出して切り出してきた。
「ああ。現場との調整の山場は越えたから、土日は完全に休めそうだ。どこか行きたいところでもあるのか?」
俺が尋ねると、彼女は真剣な顔でコクッと頷いた。
「ええ。……長谷川さんと、デートしましょう」
「……ぶっ」
俺は危うくほうじ茶を吹き出しそうになり、激しくむせた。
「ゲホッ……は? 長谷川さんって、あのコンビニの?」
「そうよ」
「いや、デートって……。誰が? 俺と、雪と、長谷川さんの三人で?」
俺の混乱をよそに、雪はスマホの画面を操作し、俺に向けた。
そこには、モノトーンの洗練されたデザインの招待状のような画像が表示されていた。
「彼女、空間デザイナーとしての仕事も受けてるって言ってたでしょ? 今週末、彼女が内装を全面的に監修したカフェが、表参道の裏路地にプレオープンするらしいの」
雪は画面をスクロールし、メッセージの文面を見せた。
そこには、長谷川さんらしい飄々とした文章が並んでいた。
『今週末、私の手がけた箱が仮オープンします。マエストロと黒猫さんの極上の空気を、新しい空間の最初のスパイスとしてお借りできませんか? たまには私ともデートしてください。』
「なるほど……そういうことか」
俺は安堵の息を吐きながら、苦笑した。
相変わらず、人を食ったような、彼女らしい誘い文句だ。
「ええ。……でも、悪くない提案だと思わない? 最近、私たちずっと仕事に追われてたし。少しだけ日常から離れた場所で、彼女の『アート』を観測するのも」
雪の言葉に、俺は深く頷いた。
「そうだな。行こうか、三人でのデート」
★★★★★★★★★★★
週末の日曜日。
表参道の喧騒から少し離れた、静かな路地裏。
コンクリート打ちっぱなしの外壁に、錆びた鉄の看板が控えめに掲げられたその店は、一見すると何の店か分からないほど隠れ家的な雰囲気を漂わせていた。
重いガラスのドアを開けると、薄暗い間接照明に照らされた、洗練された空間が広がっていた。
無骨な素材の中に、温かみのあるアンティークの家具が絶妙なバランスで配置されている。
かすかに流れるレコードのジャズが、空間に深みを与えていた。
「いらっしゃいませ。……お待ちしてましたよ」
カウンターの奥から、聞き慣れたアンニュイな声がした。
黒いタートルネックに、少し太めのスラックス。いつものコンビニの制服とは違う、アーティストらしい私服姿の長谷川真琴が、グラスを磨きながら微笑んでいた。
「こんにちは、長谷川さん。素敵な空間ですね」
俺が挨拶をすると、彼女は「ありがとう」と短く返し、俺たちを奥の特等席のソファへと案内した。
「プレオープンなので、メニューはまだ少ないですが……お二人の好みに合わせたものは用意できますよ。どうします?」
長谷川さんがメニューボードを差し出す。
「私は、少し酸味のある浅煎りのコーヒーを」
雪が言うと、俺もそれに合わせた。
「俺は、そのコーヒーに合う甘いものを少しだけ。任せます」
「承知しました」
長谷川さんがカウンターに戻り、静かに準備を始める。
俺たちは、深く沈み込む革張りのソファに体を預けた。
「……本当に、落ち着く空間ね」
雪が店内を見渡しながら、小さく息を吐いた。
「ああ。長谷川さんの頭の中を、そのまま形にしたみたいだ」
「なんだか、深夜のあのコンビニのテラス席を、うんと高級にアップグレードしたような気分だわ」
雪の言葉に、俺は思わず笑ってしまった。
確かに、あの安全で誰にも干渉されない「聖域」の空気が、この洗練された空間にも流れている気がした。
やがて、長谷川さんがトレイを持ってやってきた。
二つのコーヒーカップと、真ん中に置かれた小さな皿。
「エチオピアの浅煎りです。それと、ペアリングには……」
長谷川さんは皿を俺たちの前に置いた。
そこに乗っていたのは、コンビニのレジ横で売られているような、見慣れたパッケージの『ブラックサンダー』だった。
ただし、袋から出され、美しい陶器の皿の上に、粉砂糖とミントを添えてフレンチのデザートのように盛り付けられている。
「……これは」
俺が目を丸くすると、長谷川さんは悪戯っぽく唇の端を吊り上げた。
「私の空間に、少しだけ『日常の記憶』を混ぜてみました。……お二人にとって、大切なアイテムでしょう?」
雪が、顔を真っ赤にして口元を手で覆った。
「……相変わらず、意地悪な人ね」
雪が少しだけ睨むように言うと、長谷川さんはフフッと声を立てて笑った。
「最高の褒め言葉です。……どうぞ、ごゆっくり」
長谷川さんは一歩下がり、カウンターから俺たちを眺める位置についた。
俺はブラックサンダーを半分に割り、雪に手渡した。
「それじゃあ、いただきますか」
「……ええ」
雪は一口齧り、コーヒーを飲む。
「……美味しい。浅煎りの酸味と、チョコレートのジャンクな甘さが、すごく合うわ」
「俺の足し算の魔法より、すごいだろ」
「比べる次元が違うわよ」
俺たちは向かい合い、他愛のない会話を交わしながら、コーヒーの香りをゆっくりと楽しんだ。
カウンターの奥では、長谷川さんが頬杖をつきながら、俺たちのやり取りを心地よさそうに眺めている。
その視線には、かつて深夜のコンビニで向けられていたような好奇心だけでなく、もっと温かく、静かな祝福のようなものが混じっている気がした。
日常の延長線上にある、少しだけ特別な非日常。
俺たちの「三人でのデート」は、忙殺されていた日々の疲れを、ゆっくりと、確実に溶かしていった。




