第62話 女帝の孤独と夜食
21時30分。
営業二課のフロアから、ようやく大半の社員の姿が消えた。
空調の低い駆動音と、遠くでコピー機が稼働する単調な機械音だけが、広々とした無機質な空間に反響している。
私は手元の分厚いファイルに目を通し終え、最後のページに承認印をまっすぐに押し当てた。朱肉の赤い色が紙に吸い込まれるのを確認し、小さく息を吐いてPCをシャットダウンする。
黒く落ちたモニター画面には、前髪をきっちりと夜会巻きにまとめ、完璧なメイクを施した、ひどく疲労の色を滲ませた自分の顔が一瞬だけ映り込んだ。
無意識に視線を向けた先には、斜め前にある橋本一郎のデスクがあった。
彼のモニターは真っ暗で、キャスター付きの椅子は綺麗にデスクの下に収まっている。キーボードもマウスも整然と並べられており、主の不在を静かに、そして雄弁に物語っていた。
その空間だけが、フロアの中でぽっかりと切り取られたように冷たく見え、胸の奥に小さな隙間風が吹き込むのを感じた。
「……李課長、お疲れ様です」
静寂を破る声に顔を上げると、フロアの端で帰り支度をしていた石井ミチルさんが、小走りで近づいてくるところだった。
彼女はオーバーサイズのモヘアカーディガンに身を包み、少し心配そうなヘーゼルナッツ色の瞳を私に向けている。
「お疲れ様、ミチルさん。戸締まり、お願いできるかしら?」
「はい、任せてください! ……あ、橋本先輩なら、今日は現場での対応が長引いてて、会社には戻らないそうです。そのまま現場で徹夜になるかもしれないって」
ミチルさんは、手元のスマホの画面をチラリと見て言った。
「さっき物流の前田からLINEが来て。『橋本先輩が鬼の形相でシステム会社と電話してて、怒声が飛んでて怖くて話しかけられない』って泣いてました。……あのプロジェクト、現場との連携で相当トラブってるみたいですね」
「……そう。彼にも、あまり無理はしないように伝えておいてちょうだい。システム会社への折衝なら、明日私が上層部から直接圧力をかけることもできるから」
「了解です! 伝えておきますね。課長も、冷えますから気をつけて帰ってください」
ミチルさんの明るく気遣いに満ちた声に見送られ、私はコートを手に取り会社を出た。
エレベーターを降り、エントランスの自動ドアを抜けると、真冬の鋭い夜風が容赦なく頬を叩いた。
上質なカシミアのコートの襟をかき合わせ、マフラーに顔を半分埋める。吐く息が、街灯の冷たい光に照らされて白く濃く浮かび上がり、すぐに夜の闇へと溶けて消えていく。
彼が大型プロジェクトのリーダーに指名されてから数週間。
各部署の利害調整と、連日のように発生する現場のシステムトラブル対応で、一郎の帰宅時間は日を追うごとに遅くなっていた。
今日も、この時間になっても帰る目処が立っていない。
頭では分かっている。仕事なのだから。そして彼は、誰よりも責任感が強く、現場の人間を守るために泥臭く奔走できる強さを持った人だから。私が「氷の女帝」として上で数字を管理するなら、彼は現場の最前線で血と汗を流して実務を回す、かけがえのないパートナーだ。
だが、理屈では分かっていても、一人で歩く夜道はひどく寒々しかった。
いつもなら、駅まで少し離れて歩きながらも、彼の広くて大きな背中が視界のどこかにあった。
あるいは、私が先に帰宅していても、彼がキッチンで立てる心地よい包丁の音や、スパイスと出汁の香りが、冷え切った部屋を優しく暖めてくれていた。
冷たいアスファルトをヒールでコツコツと踏みしめながら、足は自然と見慣れた看板の灯りへと向かっていた。
深夜の聖域、『デイリーマート』。
自動ドアをくぐると、暖房の効いた店内の空気と、「いらっしゃいませ」という聞き慣れたアンニュイな声が出迎えてくれた。
レジカウンターに頬杖をついていた長谷川さんは、私の姿を認めると、わずかに目を丸くした。
「……こんばんは、黒猫さん。おや、今夜はソロ活動ですか」
「こんばんは、長谷川さん。……ええ。彼は少し、現場の仕事が立て込んでいて」
「なるほど。旦那様も不在では、今夜の夜食はお休みですね」
長谷川さんの静かな微笑みと、事実をただ並べるだけの言葉に軽く頷き、私は店内を歩き出した。
商品棚を前にして、ふと立ち止まる。
一人でコンビニの棚と向き合うのは、本当に久しぶりのことだった。
以前の私なら、ここで迷わず、最も味が濃くて刺激の強いカップ麺や、極端に甘いチョコレート菓子をカゴに放り込んでいたはずだ。仕事のストレスと極限の疲労を、ジャンクな味覚で強引に上書きし、脳を麻痺させるために。
ふと、目に飛び込んできた真っ赤なパッケージの激辛ラーメンに手が伸びそうになる。
だが、指先がパッケージに触れる直前で、ピタリと止まった。
今の疲れた胃腸に、暴力的な油や唐辛子を入れれば、明日絶対に胃もたれで後悔し、パフォーマンスが落ちることが分かっている。
彼が毎日作ってくれる、出汁の効いた優しい味。計算された栄養バランスと、身体を労る温かい食事の数々が、私の身体をすっかり本来の正常な状態へと作り変えてしまっていたのだ。
「……何を買えばいいのか、分からないわね」
陳列棚を見つめたまま、ポツリと独り言が漏れた。
一郎がいれば、私の顔色を見ただけで「今日はビタミンと鉄分が不足していますね。豚肉とほうれん草の温野菜サラダにしましょう」と、的確にメニューを見繕って、魔法のように美味しい夜食を作ってくれただろうに。
迷った末に私が手に取ったのは、最もシンプルな『塩むすび』だった。
それから、少しだけ贅沢をして『紀州南高梅』のパックを一つ。昨夜彼が作ってくれた、梅出汁茶漬けの優しい酸味を無意識のうちに求めていたのかもしれない。
最後に汁物コーナーで、フリーズドライの『アマノフーズ 蜆のみそ汁』をカゴに入れた。
以前、一郎が「ここのフリーズドライは、出汁の香りと具材の復元力が別格だ。時間がない時はこれに頼るのが正解だよ」と教えてくれたものだ。
会計を済ませ、長谷川さんの「お気をつけて、温かくしてお休みください」という静かな声に見送られ、私はタワーマンションへの帰路についた。
★★★★★★★★★★★
「……ただいま」
重い玄関のドアを開けると、パタパタという軽い足音と共に、黒い毛玉が飛んできた。
愛犬の豆柴、レオだ。
短い尻尾をちぎれんばかりに振って出迎えてくれたレオだったが、私の後ろの空間に視線を巡らせ、そこにいるはずの大きな姿がないことに気づくと、不思議そうに首を傾げて「くぅん?」と悲しげに鳴いた。
「ごめんね、レオ。……今日は、私だけよ」
しゃがみ込んでその丸くて温かい頭を撫でてやると、レオは少し残念そうに耳を伏せたが、すぐに気を取り直して私の手にザラザラとした舌を這わせてきた。
外の風で冷え切っていた指先に、小さな命の確かな温もりが伝わってくる。
リビングに入ると、部屋はひどく静かだった。
完璧に整頓された、チリ一つない広大な空間。
以前は、この無機質な静寂と冷たさが、自分の「城」としての証だった。誰にも邪魔されない、完璧な孤独。それに安堵すら覚えていた。
だが今は、その静けさがただただ、肌寒く、そして居心地悪く感じる。
コートを脱ぎ、窮屈なスーツからゆったりとした部屋着に着替えてキッチンに立つ。
電気ケトルのスイッチを入れると、コポコポというお湯の沸く音だけが部屋に響いた。
お椀にフリーズドライのブロックを入れ、熱湯を注ぐ。
シュワッと音を立ててブロックが崩れ、赤だしの深い香りと、蜆の磯の香りがフワリと立ち昇った。
ダイニングテーブルの定位置に座る。
向かいの席は、空席だ。
私は小さく「いただきます」と呟き、塩むすびの袋を開けた。
一口かじり、熱いみそ汁をすする。
美味しい。
米の炊き加減も絶妙だし、フリーズドライのみそ汁は、お湯を注いだだけとは思えないほど本格的な蜆の旨味が出ている。日本の食品メーカーの技術は、間違いなく世界トップレベルだと改めて感心する。
客観的に見れば、十分に美味しく、クオリティの高い食事だった。
だが。
「……味が、しないわ」
砂を噛むよう、というのとは少し違う。
味覚としては確かに塩気も旨味も感じているのに、それが全く「美味しさ」として心に響いてこないのだ。
ただ、胃袋という臓器に、明日も生き延びて仕事をするためのカロリーと塩分を流し込んでいるだけ。
そんな、ひどく機械的で、空虚な作業に思えた。
以前の私は、これを一人で、無表情でこなしていた。
それが当たり前だった。食事なんて、ただの栄養補給。効率よく済ませて、翌日の過酷な業務のために眠るだけの儀式。
そう思っていたのに。
いつの間にか、彼の作る温かいご飯と、向かいの席での他愛のない会話に慣れきってしまっていたのだ。
「今日の卵焼きは少し甘めだ」
「明日の会議、憂鬱ね」
そんな、なんてことのない言葉のやり取りが、ただ食事をするだけの時間を、特別な「休息の儀式」に変えてくれていたことに、今更ながらに気づかされる。
「一人で食べるご飯って……こんなに、味気なかったのね」
ポツリと呟いた声は、静かなリビングの空気に吸い込まれて消えた。
テーブルの傍にやってきたレオが、心配そうに見上げている。
私は力なく微笑み、買ってきた南高梅を箸で少しずつ崩しながら、ゆっくりとおにぎりを飲み込んだ。
ふと、テーブルの上のスマホが短く震えた。
画面には、一郎からのメッセージ通知。
『すまん、まだ現場だ。システム復旧の目処は立ったが、明日の朝の出荷テストに立ち会う。そのまま現場で徹夜になる。今日は帰れない。先に寝ててくれ』
短い文面から、彼の疲労と、帰れないことへの悔しさが痛いほど滲み出ている。
私は箸を置き、スマホを手にとった。
「……馬鹿。先に寝られるわけないじゃない」
画面を見つめたまま、指先が止まる。
『早く帰ってきて』
『一人でご飯を食べるのは寂しい』
そんな言葉を打ち込みそうになって、慌ててバックスペースキーで消した。
彼が今、どれほど重い責任を背負って戦っているか。現場で矢面に立ち、泥臭く調整に奔走しているか。
同じ会社の人間として、そして上司として、誰よりも分かっているつもりだ。
ここで彼の負担になるような我儘を言うのは、絶対に違う。私がすべきなのは、彼が安心して戦えるように、帰るべき場所を守ることだ。
私は深く息を吸い、短い言葉だけを打ち込んだ。
『了解。無理しないで。明日の朝、着替えを持って会社に行くわ』
送信ボタンを押す。
本当は、ただ会いたかった。
彼が淹れてくれる、少し薄くて酸味の強いコーヒーが飲みたかった。
彼の大きな背中に、額を押し付けて、今日あったくだらないことを愚痴りたかった。
私はスマホを伏せ、少し冷めかけた蜆のみそ汁をすすった。
赤だしの強い塩気が、今日は少しだけ、胸の奥をツンと刺した。
「……大丈夫よ、レオ。パパは、明日にはちゃんと帰ってくるから」
足元で丸くなった小さな背中を撫でながら、私は自分に言い聞かせるように呟いた。




