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深夜のコンビニで「死にそうな美女」に豚汁を奢ったら、翌日会社で鬼上司がチラチラ見てくる件  作者: 伊達ジン
第4章 公私混同の同棲生活

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第61話 主任補佐の大型プロジェクト

 18時。すでに外は完全に日が落ちて、窓ガラスには蛍光灯に照らされた営業二課のフロアが寒々しく反射している。

 俺はデスクのPCモニターから目を離し、首の後ろに手を当ててゴキリと凝りをほぐした。


「橋本先輩、お疲れ様です……。B案のシステム要件、物流部からまた差し戻し食らいました。あっちの現場の端末じゃ、このフローは処理速度が追いつかないって……前田さんが激怒してます」

「……分かった。明日、俺が直接現場に行って調整する。データだけこっちに転送しておいてくれ」


 涙目の後輩からバインダーを受け取り、重く息を吐き出す。

 ここ数日、俺のデスクには本来の営業の業務とは次元の違う、複雑で膨大なタスクが山のように積まれていた。

 来期に向けた全社的な『次世代基幹システム導入プロジェクト』。

 各部署の利害が真っ向から対立するこの厄介なプロジェクトのリーダーに、なぜか俺が指名されてしまったのだ。


「橋本主任補佐。進捗はどうなっているの」


 背後から、フロアの空気を一瞬で凍らせるような冷ややかな声が落ちてきた。

 振り返ると、完璧なネイビーのスーツに身を包んだ雪が、腕を組んでこちらを見下ろしている。


「申し訳ありません。現在、物流部門との連携部分で仕様の再確認が発生しており、明日の午後までにはリカバリーできる見込みです」

「遅いわ。全体スケジュールの遅延は許されないと言ったはずよ。現場の不満をなだめるのは貴方の仕事でしょう。明日と言わず、今日の内に解決の目処を立てなさい」

「……承知いたしました。直ちに対応します」


 俺は深く頭を下げた。

 周囲の若手社員たちが、「あの橋本先輩でもあんなに詰められるなんて」と震え上がっている気配が肌で伝わってくる。


 雪は鋭い視線をモニターの資料に落としたまま、手元のバインダーの端をトントンと指先で叩いた。

 そして、ふと両手を腹の前で組み直す。

 組まれた両手から、人差し指だけが真っ直ぐに伸びて、小さく交差している。

 その交差した彼女の人差し指が、トントン、と二回、かすかに動いた。


 俺は表情を一切変えることなく、バインダーを受け取る動作の中で、彼女の視界の端に入るように、ほんのわずかだけ頷いた。


「……期待しているわ」


 雪はそれだけを言い残し、ヒールを響かせて課長席へと戻っていった。

 俺は肺の底に溜まっていた濁った空気を静かに吐き出し、再びキーボードに手を伸ばした。


★★★★★★★★★★★


 タワーマンションの自室のドアを開けると、玄関のセンサーライトがパッと点灯した。

 腕時計の針は、午前1時を回ろうとしている。

 冷え切ったコートを脱ぎながら革靴を脱いでいると、リビングの奥からタッタッタッと軽い足音が近づいてきた。


「……ただいま、レオ」


 俺が屈み込むと、豆柴のレオが尻尾を振りながら足元にまとわりついてくる。

 だが、その直後。リビングから現れた人物の姿を認めた瞬間、レオは短い悲鳴を上げて俺の足の間へと素早く逃げ込んだ。


「あ、こらっ! 逃げないの!」


 えんじ色の芋ジャージ姿の雪が、片手に犬用の小さな歯ブラシを持ったまま、鬼の形相でレオを追いかけてきた。


「……ただいま。まだやってたのか」

「おかえりなさい。……もう、この子ったら本当に歯磨きが嫌いみたいで。さっきからずっとリビングを逃げ回ってるのよ」


 雪が恨めしそうに言うと、俺の足の間に隠れているレオは、麻呂眉を限界までハの字に下げて「助けてくれ」とばかりに見上げてきた。

 犬にとっての歯磨きは、爪切りや耳掃除と並ぶ三大苦行の一つだ。


「俺がやるよ。貸してくれ」


 俺は手洗いうがいを済ませてから、リビングのラグの上に胡座をかいて座った。


「ほら、レオ。こっちに来なさい」


 低い声で呼ぶと、レオは数秒の葛藤の末、のろのろと俺の足と足の間に収まるようにオスワリをした。

 俺は左腕でレオの体をしっかりとホールドし、右手の親指と人差し指で、彼の下顎を優しく、しかし逃げられないように固定する。


「……ウゥーッ」


 レオは絶対に口を開けまいと、黒い唇をギュッと固く結んだ。

 目は完全に虚無を向き、耳は後ろにペタンと倒れ、「僕は今、ここにいません」という現実逃避のモードに入っている。


「すぐ終わるからな」


 指先を唇の端に滑り込ませて少しだけ隙間を作り、チキン風味のペーストを塗った歯ブラシを差し込む。

 シャカ、シャカ、シャカ。

 犬歯から奥歯にかけて、手早くブラシを動かす。

 レオは暴れこそしないものの、全身をカチカチに硬直させている。尻尾は後ろ足の間にきっちりと巻き込まれ、ただひたすらにこの理不尽な時間が過ぎ去るのを耐え忍んでいた。


「……相変わらず、手際がいいわね」


 雪がソファに座ってその様子を見ながら、感心したように呟いた。


「よし、終わり。偉かったな」


 ホールドを解いてやると、レオはブルブルッと派手に全身を振るわせ、猛ダッシュでケージの中にある自分のベッドへと逃げ込み、丸くなって背中を向けた。


「さてと。俺も軽く何か腹に入れるかな」

「私も食べる。……待ってたから」


 雪が少し眠そうな目をこすりながら立ち上がった。

 俺はキッチンに向かい、冷蔵庫を開ける。

 深夜の重い胃袋にも優しく、かつ疲れた脳に沁みるもの。


 小鍋に薄めにとった昆布と鰹の合わせ出汁を沸かし、醤油とみりんで軽く味を調える。

 どんぶりに軽くご飯を盛り、大葉の千切り、白ごま、そして細かく叩いた梅干しをたっぷりと乗せる。そこへ、小鍋から熱々の出汁を一気に回しかけた。

 ジュワッという小さな音と共に、かつおと梅の香りがふわりと立ち昇る。

 ものの数分で、『特製・梅出汁茶漬け』の完成だ。


 ダイニングテーブルに向かい合って座り、二人で静かに茶漬けをすする。

 ズズッ、という控えめな音だけがリビングに響く。

 出汁の優しい香りと梅の酸味が、冷え切った体にじんわりと染み渡っていく。

 一日中張り詰めていた神経が、その温かさでゆっくりと解れていくのが分かった。


「……」


 雪は無言で茶漬けを流し込み、ふう、と小さく息を吐いてレンゲを置いた。


「……各部署の調整ってのは、想像以上に骨が折れるな」


 俺がぽつりと言うと、彼女は少しだけ目を丸くしてこちらを見た。


「営業の論理、システム部の都合、現場の不満。……全部が全部、違う方向を向いてやがる。一つのテーブルに乗せるだけで一苦労だ」

「……そうね。みんな、自分の領域を守るのに必死だもの。全体最適なんて言葉は、現場には一番響かないわ」


 彼女は琥珀色のマグカップを手繰り寄せ、少し冷めたお茶を口に含んだ。


「……雪」

「ん?」

「お前、よく毎日こんなのやってたな」


 俺が素直な感想をこぼすと、彼女はマグカップを持ったまま、ピタリと動きを止めた。

 三十人以上の部下を抱え、他部署との摩擦の最前線に立ち、上層部からのプレッシャーを一人で受け止める。

 その重圧の本当の恐ろしさが、自分がその立場に近い場所に立たされて、初めて骨の髄まで理解できた。


「……今更?」


 彼女は少しだけ口角を上げ、意地悪く笑った。


「ああ。今更だ」


 俺は残りの茶漬けを平らげ、箸を置いた。

 疲労で鉛のように重い体だが、不思議と心はささくれ立っていなかった。


「……でも、まあ。……頑張ってるわね」


 彼女はカップの縁を指でなぞりながら、視線を伏せたまま小さな声で言った。


「昼間、貴方が現場とシステム部の間で、嫌な役回り引き受けてるの、見てるから」

「……」

「……前田さんたち、相変わらず文句ばっかりだけど。でも、最後はちゃんと貴方に合わせて動いてる」


 雪はそこで言葉を区切り、少しだけ目を伏せた。


「……だから。あんまり、無理しないで」


 それは、会社での「氷の女帝」としての評価ではなく、ただ一人の人間としての、不器用でまっすぐな労いだった。


「……サンキュ」


 俺が短く答えると、彼女は「別に」と小さく鼻を鳴らした。

 静かなリビングに、ケージの奥からレオが寝返りを打つ音が聞こえる。

 俺は空になったどんぶりを重ね、ゆっくりと立ち上がった。

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