第60話 夫婦の「秘密のサイン」
冬の冷たい雨が、寝室の窓ガラスを不規則なリズムで叩く音がする。
まだ薄暗い朝。俺は玄関の土間で、リードを持ったまま大きなため息をついた。
「……レオ。そんなに露骨に嫌そうな顔をするな。これでお互い妥協しようじゃないか」
俺の足元でお座りをしているレオは、麻呂眉をハの字に下げて、完全に納得のいかない表情を浮かべていた。
彼の首回りには、昨日ペットショップで買ってきたばかりの新しい雨具が装着されている。
頭からすっぽりとかぶる服タイプのカッパを極端に嫌がる彼のために選んだ、首の周りに透明なビニール素材の円盤がぐるりと広がった、奇妙な形の雨具だ。
「ほら、行くぞ」
俺がドアを開けると、レオは「仕方ないな」というように短い鼻を鳴らし、雨の中へ足を踏み出した。
透明な円盤に、雨粒がパラパラと音を立てて弾ける。
最初は自分の首回りに広がる視界の歪みを気にしてぎこちない足取りだったレオだが、頭が濡れないことに気づくと、次第にいつものペースを取り戻した。
透明な円盤だけが地面の少し上をスライドしていくようで、短い足が一生懸命動いているのが上からは見えない。
すれ違った傘を差した高校生が、目を丸くして「えっ、UFO歩いてる」と声を漏らした。
俺は少しだけ恥ずかしさを感じながらも、濡れたアスファルトの匂いを熱心に嗅ぐ小さな未確認飛行物体のペースに合わせて、静かな雨の朝の散歩を終えた。
★★★★★★★★★★★
14時。営業二課のフロアに併設された第3会議室。
窓の外で降り続く冷たい雨よりも、はるかに冷たく、そして重苦しい空気が室内を満たしていた。
「……プロモーション費用の増額を要求するなら、せめて納得できるだけのコンバージョン予測を出してください。この資料の数字は、ただの希望的観測です。会社の予算は、貴方たちの夢を叶えるためのパトロンのお金ではないのよ」
会議用テーブルの上座。
完璧にセットされた黒髪を揺らし、冷徹な声で販促部の担当者を詰めているのは、我が課の絶対君主である雪だ。
その整った顔には一切の感情が乗っておらず、的確すぎるロジックが相手の逃げ道を完全に塞いでいる。
俺は彼女のすぐ右隣の席で、無表情を保ったまま手元のノートパソコンを叩き、議事録の作成に徹していた。
カタカタ、というタイピング音と、販促部担当者のしどろもどろな言い訳だけが響く。
その時だった。
コツン。
俺の左すねに、何か硬いものが当たった。
(……ん?)
気のせいかと思ったが、数秒後、再びコツンと当たった。
目線を下げずに意識を下半身に集中させると、それは硬いパンプスの先端ではなく、ストッキング越しの柔らかいつま先の感触だった。
ツーッ、と。
そのつま先が、俺のスラックスの生地を撫でるように、すねからふくらはぎへとゆっくり上がってきた。隣の席から、巧妙にテーブルの脚の死角を利用して伸ばされている。
俺は息を呑み、タイピングする指を一瞬だけ止めた。
少し離れた斜め向かいの席では、議事録のサブ担当として入っている後輩の石井ミチルが、真剣な顔で資料にメモを取っている。
もし彼女がペンでも落として机の下を覗き込んだら、一発で社会的な死を迎える状況だ。
俺は顔色一つ変えずに、静かに自分の左足を引いた。
しかし、相手は執拗だった。引いた足の先を追うように、雪のつま先がスラックスの裾口に触れてくる。ヒヤリとした冷たさと、微かな体温。
「……橋本主任補佐。先月の実績データとの照合結果を、画面に出して」
雪が、俺の目を見て冷ややかな声で指示を出した。
「はい。直ちに表示します」
俺も完璧な社畜のトーンで返し、プロジェクターの画面を切り替える。
口では絶対的な上司と部下のやり取りをしながら、机の下では、彼女のつま先が俺の足首に絡みつこうとしていた。
俺は咳払いをするふりをして、両足を深く交差させて椅子の下に隠した。物理的な完全防御だ。
行き場を失った雪の足が、スッと素早く引いていくのがわかった。
同時に、雪がわずかに眉をひそめたのを、俺は見逃さなかった。
★★★★★★★★★★★
その日の夜。
雨は夕方には上がり、タワーマンションの窓からは、冷たく澄んだ冬の夜景が広がっていた。
「……大根、すごく味が染みてるわね」
ダイニングテーブルで、雪が少しだけホッとしたような息を吐いた。
今夜の夕食は、週末に仕込んでおいた作り置きの一つ、『牛すじと大根の赤ワイン煮込み』だ。炊飯器の保温機能を使ってじっくりと火を通した牛すじは、箸で簡単に切れるほどトロトロになっている。
「ああ。バゲットにソースをつけて食べると美味いぞ。赤ワインの酸味とトマトのコクがよく合ってる」
俺はトーストしたバゲットの皿を彼女の前に押しやりながら、自分のグラスのワインを一口飲んだ。
食事のやり取りは穏やかなものだったが、俺の頭の中には午後の会議室での出来事がずっと引っかかっていた。
食後、急須で温かいプーアル茶を淹れてテーブルに戻ると、俺は単刀直入に切り出した。
「……で。午後の会議室のあれは、なんだ」
雪はプーアル茶を注がれた湯呑みを持とうとしていた手をピタリと止め、視線を斜め下に逸らした。
「何のことかしら。販促部への指摘なら、営業二課の利益を守るための……」
「仕事の話じゃない。机の下だ。靴を脱いでまで俺の足に絡みついてくるのは、いくらなんでもやりすぎだ。石井が斜め向かいにいたんだぞ」
俺が少しだけ声を低くして言うと、雪の肩がビクッと跳ねた。
「……嘘。ミチルさん、あの時プロジェクターの操作で後ろを向いてたんじゃ……」
「途中で戻ってきてた。もしペンを落として拾おうとしたら、完全アウトだったぞ。給湯室の時の反省はどうしたんだ」
雪はサーッと青ざめ、両手で顔を覆った。
「……またやっちゃった。どうして私、会社だとああ極端に余裕がなくなるのかしら」
「余裕がなくなる?」
「……隣にいるのに、遠くから『橋本主任補佐』なんて冷たい声で呼ばなきゃいけないのが……なんだか急に、無性に息が詰まりそうになって。机の下のほんの少しだけならバレないかなって、魔が差したのよ」
彼女は両手の隙間から、上目遣いでこちらを見た。
会社での重圧の反動を、こんなギリギリの綱渡りで解消しようとする彼女の不器用さに、俺は小さくため息をつき、頭を掻いた。
「もどかしさを感じてるのは俺も同じだ。でも、足はリスクが高すぎる。……手元で、安全なサインを決めよう」
「サイン?」
「ああ。例えば……ペンのノックを二回鳴らすとか」
「却下。会議中にカチカチ音を立てるのは苛立つわ。それに、ミチルさんあたりが無意識に真似したらややこしいでしょ」
「確かに。じゃあ、眉間を三回揉む」
「私が頭痛に悩まされてるみたいじゃない。もっと自然なやつにして」
雪が湯呑みを両手で包み込みながら首を振る。
「難しいな。……例えば、こうやって資料を読むフリをして両手を組むのはどうだ?」
俺はテーブルの上で、自然な動作で両手を組んでみせた。
「それなら自然ね」
「この時、右の親指が上なら、『今日の作り置きは何だっけ?』の合図だ」
「……貴方、頭の中のご飯の比重高すぎない?」
「否定はしない。じゃあ、左の親指が上なら?」
雪は少し考えて、自分の両手を組んだ。
「『この不毛な会議、早く終わらせて』ね」
「実用的だな。俺がそれを見たら、適当な理由をつけて話をまとめる方向に誘導する」
「悪くないわね。……じゃあ、これは?」
雪は、組んだ両手の人差し指だけをスッと真っ直ぐに伸ばし、小さく交差させた。
「……それは?」
「『……早く帰って、二人きりになりたい』」
雪は少し俯き、耳の先を赤くして言った。
俺は、その控えめな愛情表現に、思わず口角が緩むのを抑えきれなかった。
「……採用だ。それなら、石井が真正面から見ていても絶対に気づかない。ただの考え事の手のポーズにしか見えないからな」
「本当? ……忘れちゃ駄目よ」
「忘れるもんか」
俺たちはテーブル越しに手を伸ばし、お互いの交差した人差し指をそっと合わせた。
★★★★★★★★★★★
翌日の午後。
再び、営業二課のフロアの中央で、張り詰めた空気が漂っていた。
「高木さん、この競合他社の分析データ、全くの的外れよ。やり直し」
「ひぃっ! す、すみません!」
いつものように冷ややかな声で部下を震え上がらせている雪を、俺はすぐ隣の自席から見つめていた。
彼女は資料から目を離さず、机の上で両手を組んでいる。
その手元。
組まれた両手から、人差し指だけが真っ直ぐに伸び、小さく交差していた。
(……なるほど。そういうことか)
俺は誰にも気づかれないように小さく息を吐き、自分の机の上で両手を組んだ。
そして、人差し指を交差させ、彼女の視界の端に入るように、ほんのわずかだけ頷いた。
雪の表情は「氷の女帝」のまま一切崩れなかった。
だが、交差した彼女の人差し指が、トントンと二回、かすかに動いたのを、俺は絶対に見逃さなかった。
今夜は、冷蔵庫で出番を待っている週末の作り置き『牡蠣のオイル漬け』を出してやろう。軽くトーストしたバゲットに乗せれば、きっと彼女は喜ぶはずだ。
俺はそんなことを考えながら、視線をノートパソコンに戻し、静かに議事録の作成を続けた。




