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深夜のコンビニで「死にそうな美女」に豚汁を奢ったら、翌日会社で鬼上司がチラチラ見てくる件  作者: 伊達ジン
第4章 公私混同の同棲生活

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第59話 週末の作り置き戦争

 冬晴れの休日の午前。

 俺はリビングのラグの上に座り込み、小さな黒い猛獣と真剣な睨み合いを続けていた。


「レオ。そろそろそれを離せ。歯茎から血が出るぞ」


「……グルルルゥッ」


 冬毛でモコモコになった豆柴のレオは、前足の間に硬いプラスチック製の『チーズバー』をしっかりと抱え込んでいる。

 いくらチーズの匂いがついているとはいえ、それは食べ物ではない。

 俺が手を伸ばすと、レオは鼻にシワを寄せて低い唸り声を上げた。だが、本気で怒っているわけではない証拠に、背中の後ろで短い尻尾がパタパタと小刻みに揺れている。遊びの延長だと思っているのだ。


「頑固なやつだな。ちょっと見せてみろって」


 俺がフェイントをかけて右から手を伸ばすと、レオは素早くチーズバーをくわえ直し、クルッと背を向けて俺から距離を取った。そして「取れるもんなら取ってみろ」とばかりに、ドヤ顔で振り返る。


「……相変わらず、不毛な戦いをしてるのね」


 寝室から着替えを終えて出てきた雪が、呆れたような声を出した。

 厚手のオフホワイトのニットに、細身のデニムパンツという動きやすい服装だ。手には、犬用のササミジャーキーの袋が握られている。


「ほら、レオくん。おやつと交換よ」


 雪がジャーキーを一枚取り出して見せると、レオの麻呂眉がピクリと動いた。

 三秒ほど「プラスチックのチーズ」と「本物の肉」を脳内で天秤にかけ、あっさりとチーズバーを床に吐き出した。そして、雪の足元へトコトコと駆け寄り、完璧なお座りをして見せる。


「いい子ね」


 雪がジャーキーを与え、その隙に俺はヨダレまみれのチーズバーを回収した。


「俺の苦労は何だったんだ……」


「交渉には適切な対価が必要ってことよ。さあ、一郎。行くわよ」


 雪はスマホの画面をトントンと指先で叩いた。


「今日は週末の買い出し日よ。来週一週間を生き抜くための、重要なミッションなんだから」


★★★★★★★★★★★


 マンションから少し離れた、大型スーパーマーケット。

 入り口でショッピングカートを引き出した俺の隣で、雪はスマホのメモアプリを開き、真剣な眼差しで画面を睨んでいた。


「買い出しのリスト、ちゃんと作ってきたわよ。野菜から回って、サクッと終わらせるからね」


「了解した。……ちなみに、今日の作り置きメニューの予定は?」


「鶏むね肉のサラダチキン、ブロッコリーと人参の温野菜、彩り野菜のピクルス、それに豚肉の味噌漬けよ。タンパク質とビタミンのバランスは完璧に計算してあるわ」


 雪は少し得意げに胸を張った。

 平日の夜、俺が残業で遅くなった時でも、ちゃんと健康的な食事ができるようにと、最近はこうして週末に作り置きを一緒にするのが習慣になっている。

 栄養面でも保存性でも、そのリストに抜かりはない。


「素晴らしい。でも、それだけだと平日の夜が少し味気ない気がするな」


「味気ない?」


「ああ。効率も大事だが、食卓には『遊び心』が必要だ」


 俺たちは野菜コーナーを抜け、鮮魚コーナーへと足を踏み入れた。

 氷の上に並べられた旬の魚介類の中から、俺はある一点に目を留めた。


「おっ。立派な真鱈の白子があるな」


 俺がパックを手に取ると、雪は眉をひそめた。


「リストにないわ。それに、白子なんてどうやって作り置きするの?」


「今夜の晩酌用だ。サッと湯通ししてポン酢でいく。冷えた日本酒に絶対合うぞ」


 俺がプレゼンすると、雪の喉がゴクリと鳴った。

 少し迷う素振りを見せたものの、視線はすでに白子に釘付けだった。


「……予算内なら、許可するわ」


 第一関門突破。

 続いて、精肉コーナー。

 俺の視線は、赤身と脂身が層になった立派な牛すじ肉に引き寄せられた。


「牛すじ肉か。これ、赤ワインとトマト缶で煮込んだら絶品だぞ」


「ちょっと待って。煮込み料理はコンロを一つ長時間占領するわ。並行作業の邪魔になる」


 雪が即座に反論を繰り出してくる。


「コンロは使わない。炊飯器の保温機能を使うんだ。表面を焼いてから、赤ワイン、トマト缶、香味野菜と一緒に炊飯器に入れて放置するだけ。……木曜の夜あたり、仕事から疲れて帰ってきた時に、このトロトロになった牛すじ煮込みがあったらどうだ?」


 俺は雪の目を見据えた。

 木曜日。それは一週間の疲労がピークに達し、最も心が折れそうになる魔の曜日だ。


「……木曜の夜。トロトロの牛すじ……」


「そうだ。バゲットを添えれば完璧なディナーになる」


「……味が染み込んで、絶対に美味しいわね。カゴに入れて」


 雪は小さく息を吐き出し、自ら牛すじ肉をカートに滑り込ませた。


 第二関門も突破。

 俺は心の中でガッツポーズを決め、ついでに安くなっていた大粒の牡蠣のパックを手に取った。


「ちょっと、牡蠣なんていつの間に……」


「牡蠣のオイル漬けだ。低温のオリーブオイルでじっくり煮るんだ。週末に向かって味が深まっていくぞ。金曜の夜、軽くトーストしたバゲットに乗せたら……」


「……分かったわ」


 雪は俺の言葉を最後まで聞かず、食い気味にベーカリーコーナーへ向かい、バゲットを二本引っ掴んできた。

 効率重視の建前も、美味しいものの誘惑には勝てないらしい。

 俺たちは予定の時間を少しオーバーしつつも、充実した戦利品と共にスーパーを後にした。


★★★★★★★★★★★


 帰宅後、キッチンには戦場のような活気が満ちていた。

 俺は黒いエプロンを、雪は色違いのネイビーのエプロンを身につけ、並んで調理台に立つ。


「雪、ピクルス用の野菜のカットは終わったか?」


「ええ。乱切りで揃えておいたわ。保存容器の熱湯消毒も完了してる」


 包丁を握る手つきも、同棲を始めた頃に比べれば随分とスムーズだ。

 俺は小鍋でピクルス液を一煮立ちさせ、カットされたパプリカ、きゅうり、大根が入ったガラス容器に熱いまま注ぎ込んだ。

 これでピクルスは完成。粗熱が取れるのを待ってから冷蔵庫へ移す。


 隣のコンロでは、小さなフライパンで牡蠣のオイル漬けを仕込んでいた。

 塩水で丁寧に洗って水気を拭き取った牡蠣にオイスターソースを少しだけ絡め、たっぷりのオリーブオイルで低温加熱する。ニンニクの香ばしい匂いと、牡蠣の磯の香りがキッチンに立ち込めた。


「……すごくいい匂いね。これ、本当につまみ食いしちゃ駄目なの?」


 雪がフライパンを覗き込みながら、恨めしそうに聞いてくる。


「駄目だ。最低でも三日はオイルに漬け込まないと、本当の美味さは引き出せない。金曜日までの我慢だ」


「……長すぎるわ」


 雪は唇を尖らせて不満をアピールした。

 俺は苦笑しながら、炊飯器に仕込んでおいた牛すじの赤ワイン煮込みのスイッチを確認し、鶏むね肉のサラダチキンの準備に取り掛かる。

 ジップロックの中で塩麹とハーブに漬け込んだ鶏むね肉を、沸騰したお湯に入れ、火を止めて蓋をする。余熱でじっくりと火を通すことで、パサパサにならずしっとりとした仕上がりになるのだ。


 およそ二時間後。

 キッチンのカウンターには、色とりどりのおかずが詰められた透明な保存容器が、軍隊のように整然と並んだ。


 赤や黄色のピクルス。

 しっとりとしたサラダチキン。

 緑が鮮やかなブロッコリーの胡麻和え。

 濃厚な色合いの牛すじ煮込みと、オイルに浸かった牡蠣。


「……壮観ね」


 エプロンを外した雪が、並んだタッパーを見て感嘆の声を漏らした。


「これで来週の平日は、火を使わずに豪華な夕食が食べられるな」


「ええ。私の事前の計画と、一郎のアドリブのおかげね」


 雪は満足げに頷き、一番端にあったタッパーの蓋をそっと開けた。

 中に入っているのは、豚肉の味噌漬けの切れ端を少しだけ焼いたものだ。いわゆる、味見用の切れ端である。


 雪は指先でそれを摘み、パクッと口に放り込んだ。

 モグモグと咀嚼し、目を細める。


「……ん。甘辛くて、ご飯が欲しくなる味ね」


「こら、それは明日のおかずだぞ」


「味見よ、味見。品質管理も私の重要なタスクだもの」


 悪びれもせずに言い訳をして、指先についた味噌をペロリと舐める。

 足元では、レオが恨めしそうな目でお座りをして待機していた。

 俺は茹でたブロッコリーの芯の柔らかい部分を小さく切り、レオの口元に差し出した。

 レオはシャリシャリと音を立ててそれを食べ、嬉しそうに鼻を鳴らした。


 完全に冷めたタッパーに次々と蓋をし、冷蔵庫の棚にパズルのように綺麗に収納していく。

 ずらりと並んだ色とりどりのおかずを眺めながら、俺たちは今夜の晩酌の『白子』に向けて、静かに喉を鳴らした。

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