第58話 観測者の新作アート
冬晴れの澄んだ青空から、冷たい日差しがリビングの床に降り注いでいる休日の朝。
俺は、押し入れから引っ張り出してきた人間用の体重計と、メジャーを手に、リビングの真ん中に腰を下ろした。
「よし、レオ。おいで」
俺が声をかけると、日向ぼっこをしていた豆柴のレオが、不思議そうに首を傾げた。
冬毛に生え変わって全体的に一回り大きく、モコモコになったレオは、俺の前に置かれた見慣れない板を警戒し、鼻先を近づけてフンスフンスと匂いを嗅いでいる。
「乗らないわよ、一郎。あの子、自分が何かされるって察知してる顔だわ」
ダイニングテーブルでコーヒーを飲んでいた雪が、呆れたように笑いながら立ち上がった。
彼女はゆったりとしたベージュのニットワンピース姿で、手には犬用の乾燥ササミを握っている。
「ほら、レオくん。美味しいおやつよ」
雪がササミをちらつかせると、レオの麻呂眉がピクリと動き、警戒心よりも食欲が勝ったのか、素直に尻尾を振って近づいてきた。
その隙に、俺はヒョイと彼を抱き上げ、そのまま一緒に体重計に乗る。
「……よし。俺の体重を引いて、っと。少し重くなったか?」
「ええと……前回の記録より、300グラム増えてるわね」
雪がノートにペンを走らせる。
俺がレオを床に下ろすと、彼は「今の何だったんだ」と不服そうに小さくくしゃみをした。
「次は体高と胴回りだ。レオ、じっとしててくれよ」
俺がメジャーを伸ばし、レオの背中から前足の根元にかけて当てようとする。
だが、メジャーの冷たい感触と、体に巻き付けられる感覚がくすぐったいのか、レオは短い体をよじって逃げようとジタバタ暴れ始めた。
前足でメジャーをパンパンと弾き、俺の指を甘噛みして抵抗してくる。
「こら、動くなって。すぐ終わるから」
「ふふ、無理よ。私が気を引くから、その間に素早く測って」
雪がしゃがみ込み、レオの顎の下から耳の後ろにかけてを優しく撫で始めた。
「いい子ね、レオくん」と囁きながら撫でられると、レオは途端に大人しくなり、気持ちよさそうに目を細めて雪の手に頭を押し付けている。
俺はその隙に、素早く胴回りと体高の数値を読み取った。
「……うん、記録完了だ。冬毛のせいか太って見えるけど、数値的には標準のど真ん中だな。健康そのものだ」
「よかった。これからも美味しいご飯をいっぱい食べて、元気に育ってね」
雪がササミをご褒美として与えると、レオは嬉しそうにそれを平らげ、「任務完了!」とばかりに部屋の奥へと走っていった。
俺たちはその丸い後ろ姿を見守りながら、小さく息をついた。
「さて。俺たちも出かける準備をするか」
「ええ。あまり遅くなると失礼だものね」
俺たちは身支度を整えるため、それぞれのクローゼットへと向かった。
今日の午後は、特別な場所へ招待されているのだ。
★★★★★★★★★★★
数日前、俺たちが夜の散歩がてら、あの深夜のコンビニに立ち寄った時のことだ。
レジカウンターに立っていた長谷川さんが、会計を済ませた後、そっと一枚の厚手の封筒を差し出してきた。
中に入っていたのは、彼女の個展の案内状だった。
『ささやかな展示ですが、お時間があればぜひ』。
その落ち着いた声と、彼女の描く世界への純粋な興味から、俺たちは二つ返事で足を運ぶことを決めたのだった。
14時。
俺たちは電車を乗り継ぎ、都内の静かな住宅街にあるギャラリーへと向かった。
冷たい冬の風が通りを吹き抜ける。俺はロングコートのポケットの中で、隣を歩く雪の手をそっと握った。
手袋越しでも伝わってくる彼女の体温が心地よい。
雪はキャメルのチェスターコートに、深緑のストールを巻いている。会社での鋭い空気は鳴りを潜め、休日の穏やかな表情が冬の日差しに照らされていた。
「……ここね」
案内状の地図を頼りに辿り着いたのは、古いコンクリート造りの建物を改装した、隠れ家のようなギャラリーだった。
重厚なガラス扉を開けて中に入ると、外の冷気とは打って変わって、暖かく静謐な空間が広がっていた。
「ようこそ。来てくださって嬉しいです」
奥から、黒いハイネックのセーターを着た長谷川さんが静かに歩み寄ってきた。
普段のコンビニの制服姿とは違い、一人のアーティストとしての洗練された空気を纏っている。それでも、その落ち着いた微笑みは、いつもレジ越しに向けてくれるものと同じだった。
「お邪魔します。素敵な空間ですね」
雪がマフラーを外し、周囲を見渡しながら声をかけた。
漆黒や群青を基調とした抽象画や、流木と金属を組み合わせた立体作品が、スポットライトに照らされて静かに並んでいる。
どれも過度な主張はないが、見る者の心にすっと入り込んでくるような静かな引力があった。
「ありがとうございます。自由に見て回ってください。……奥の壁に、お二人に見ていただきたかった絵を飾っています」
長谷川さんの案内に従い、俺たちはギャラリーの奥へと歩を進めた。
一番奥の壁面。
そこには、他の作品よりも少し大きめのキャンバスが、柔らかな光に照らされて飾られていた。
具体的な風景や人物が描かれているわけではない。抽象画だ。
しかし、その色彩が放つ空気感に、俺は思わず足を止めた。
深い藍色と、透明感のある黒が混ざり合った背景。それは間違いなく、真夜中の暗闇だ。
そしてその中央に、二つの柔らかな光の塊が描かれている。
一つは、どっしりとした温かみを放つ、大きな琥珀色の光。
もう一つは、鋭さを持ちながらも、その琥珀色に優しく溶け込むような、少し小さな深紅の光。
二つの光は、互いの境界線を曖昧にしながらじんわりと混ざり合い、周囲の冷たい闇を押し返すように、ただそこに静かに寄り添っていた。
絵の下には、『深夜の休息』という小さなプレートが添えられている。
「……綺麗な色ね」
雪が、絵を見上げたまま静かに呟いた。
俺も言葉を失い、ただそのキャンバスから伝わってくる温もりに見入っていた。
顔も、服も、背景のコンビニの明かりすら描かれていない。
それなのに、これは俺たちだ。
過去を優しく肯定されたような、静かな温かさがあった。
「私がレジカウンターから見ていた、あの頃のお二人の空気です」
長谷川さんが俺たちの横に立ち、同じように絵を見つめながら静かに口を開いた。
「……お二人の醸し出す温度が、とても綺麗だったので。勝手にモチーフにさせていただきました」
長谷川さんの言葉は、ただ彼女が見た事実を真っ直ぐに伝えていた。
俺は彼女の方を向き、深く頭を下げた。
「……素晴らしい作品です。俺たちの時間が、こんな風に見えていたなんて。言葉になりません」
「ええ。少し気恥ずかしい気もするけれど……すごく嬉しいわ」
雪の横顔は、絵から発せられる光を反射して、とても柔らかく解けていた。
「お二人にそう言っていただけて、嬉しいです。……ゆっくりしていってくださいね」
長谷川さんは静かに微笑み、他のお客様の対応へと戻っていった。
俺たちはその後もしばらく、その絵の前に立ち尽くし、キャンバスの色彩を静かに眺めていた。
★★★★★★★★★★★
夕暮れ時。
ギャラリーを後にした俺たちは、すっかり冷え込んだ冬の街を駅に向かって歩いていた。
「……いい休日だったわね」
雪が、繋いだ手に少しだけ力を込めて言った。
「そうだな。なんだか、昔のアルバムを開いたような気分になったよ」
「……なんだか、不思議ね。こうして明るい時間に、堂々と歩いてるのが」
彼女の白い息が夜空に溶けていく。
俺は彼女の手をポケットの中で引き寄せ、さらにしっかりと握り直した。
帰宅すると、玄関のドアを開けた瞬間にレオが飛んできた。
短い尻尾をちぎれんばかりに振り、「遅いぞ!」と足元にまとわりついてくる。
俺はレオの頭を存分に撫でてやり、手洗いを済ませてキッチンに立った。
外で冷え切った体を温めるために、今夜は冬の味覚をふんだんに使ったメニューを用意している。
『牡蠣と白菜のクリーム煮』だ。
大粒の牡蠣は、塩水で丁寧に洗い、水気を拭き取ってから軽く薄力粉をはたく。
フライパンにバターを熱し、牡蠣の表面をサッと焼いて旨味を閉じ込める。焼き色がついたら一度取り出し、同じフライパンでざく切りにした白菜の芯の部分をじっくりと炒める。
白菜がしんなりとして甘みが出てきたら、小麦粉を振り入れて粉っぽさがなくなるまで炒め合わせる。
そこに冷たい牛乳と生クリームを少しずつ注ぎ、ダマにならないように混ぜていく。
「……すごくいい匂いがする。バターと、海の匂い」
部屋着のスウェットに着替えた雪が、レオを抱きかかえながらキッチンを覗き込んできた。
「もう少しでできるから、座って待っててくれ」
俺はソースにとろみがついてきたところで牡蠣を戻し入れ、隠し味に少量の白味噌を加えた。
白味噌のコクがクリームソースに深みを与え、ご飯にもパンにも合う濃厚な味わいを作り出してくれる。
最後に黒胡椒をたっぷりと振り、風味を引き締める。
オーブンでこんがりと焼いたガーリックトーストを添えれば完成だ。
「いただきます」
ダイニングテーブルに向かい合い、熱々のクリーム煮を口に運ぶ。
雪はスプーンで牡蠣と白菜をすくい、ふーふーと冷ましてからパクリと食べた。
「……んっ。美味しい。牡蠣の旨味がソースに溶け出してるわ。白菜もトロトロで、すごく甘い」
「ガーリックトーストにソースをつけて食べるのも美味いぞ」
彼女は言われた通りにパンをソースに浸し、サクッと音を立てて齧った。
その幸せそうに目を細める顔は、あの絵の中に描かれていた「深紅の光」のように、じんわりとした温かさを帯びていた。
「長谷川さんの絵、本当に良かったな」
俺がポツリと言うと、彼女はパンを飲み込み、静かに頷いた。
「ええ。……私たち、あんな風に見えてたのね。なんだか気恥ずかしいわ」
「そうか? 俺はあの絵を見て、誇らしかったけどな」
「……バカ。大げさなのよ」
彼女は少しだけ顔を赤らめ、スプーンでソースをかき混ぜた。
彼女の飾らない言葉が、湯気と共に静かなリビングに溶けていく。
足元ではレオが、自分のご飯を食べ終えて満足そうに丸くなっていた。




