第65話 ミチルの恋の相談
すっきりと晴れ渡った、冬の休日の午後。
リビングの広大な窓から差し込む陽だまりの中で、俺は読みかけのマーケティング理論のビジネス書から目を離した。
ふと視界の端を、黒い毛玉が猛スピードで横切っていったかと思うと、フローリングを小さな爪が叩く、軽快なリズムが響き始めた。
「……タタタタッ」
愛犬の豆柴、レオだ。冬毛ですっかり丸っこいフォルムになった彼は、まるできな粉をまぶした大福のようだ。そんな彼が俺のお気に入りのスリッパを口に咥えたまま、俺の目の前で短い前足を交互に素早く足踏みさせていた。
「タタタタッ、タタタッ」
まるで小さなタップダンスのようだ。犬を飼い始めてから知ったのだが、これは『こいぬすてっぷ』と呼ばれる、嬉しさや期待が極まった時に見せる特有の仕草らしい。
麻呂眉をハの字に下げ、尻尾をプロペラのように振りながら、全身で「遊んで! 追いかけて!」とアピールしてくる。そのつぶらな真っ黒い瞳には、純粋な期待だけが輝いている。
「……お前、それはパパのスリッパだぞ。返せ」
「くぅ〜ん!」
俺が本をサイドテーブルに置いて身を乗り出すと、レオは待ってましたとばかりに身を翻し、スリッパを咥えてラグの上をツルツルと滑りながらソファの裏へと逃げ込んだ。
短い足で必死に逃走を図るそのお尻の丸みがなんとも言えずユーモラスで、俺の口から自然と笑みがこぼれた。
「ふふっ。一郎、完全に弄ばれてるわね」
ダイニングテーブルでノートPCを開いていた雪が、呆れたように、しかしとても穏やかな顔で笑った。
彼女はゆったりとしたモヘアのニットに身を包み、手元には琥珀色のマグカップが置かれている。
先日、家事のやり方を巡る些細なすれ違いから生じた冷戦は、あの琥珀色のマグカップが淹れた少し苦いコーヒーと共に綺麗に溶けて消えた。
今のリビングには、以前にも増して柔らかく、呼吸のしやすい空気が満ちている。休日の午後に相応しい、緩やかで平穏な時間だ。俺はソファに深く背中を預け、このまま少しだけ昼寝でもしようかと考え始めていた。
俺がソファの裏に回り込んでスリッパを回収し、代わりにロープのおもちゃをレオに投げてやった。レオはすぐさま新しい標的に飛びつき、一人で格闘を始めている。
やれやれと息をついて立ち上がった時、リビングのテーブルに置いていた俺のスマホが激しく振動した。
『センパァイ!! 助けてください、命の危機です!! 今から家行っていいですか!? っていうかもうエントランスにいます!!』
画面に表示されたのは、直属の後輩である石井ミチルからの、悲鳴のようなメッセージだった。
時計を見ると、時刻は15時を回ったところ。休日のこんな中途半端な時間に、あのアクティブな後輩が突然押しかけてくるのは尋常ではない。
俺と雪は顔を見合わせ、急いでエントランスのロックを解除した。
★★★★★★★★★★★
「……つまり」
数分後。玄関のドアを開けた瞬間に転がり込んできた石井は、今、我が家のソファで頭を抱え、まるでこの世の終わりのような顔をしていた。俺はそんな彼女に、冷静に状況の確認を行った。
今日の彼女は、ダボッとしたオーバーサイズのパーカーに色落ちしたデニムという、深夜のコンビニで見かけた時と同じ、完全にオフのゲーマースタイルだった。
ただ違うのは、そのヘーゼルナッツ色の瞳が恐怖と混乱で激しく泳いでいることだ。
「毎日深夜にVCを繋いで一緒にFPSゲームをやっている『キルマシーン77』という男から、突然リアルで会ってご飯に行かないかと誘われた。で、今日がその約束の日だと」
「そ、そうです……!」
「相手はネカマだと思っているかもしれないし、最悪の場合シリアルキラーかもしれないから、俺と雪に保護者として監視任務に就いてほしいと?」
「そうです! お願いします、私、男の人とサシでご飯なんて行ったことないんです! 相手がヤバい奴だったら、センパイのその大きな体で私の盾になって守ってください!」
石井は必死に両手を合わせ、ソファに額がつく勢いで拝むように頭を下げた。
どうやら彼女の脳内では、顔も知らないゲーム仲間が、チェーンソーを持った巨漢の殺人鬼に変換されているらしい。
「あのね、ミチルさん」
向かいのソファに座っていた雪が、呆れたように小さくため息をつく。
「いくらゲーム内で気が合うからって、素性も知らない相手と会うなんて警戒心がなさすぎるわ。社会人としてネットリテラシーが欠如してるんじゃないかしら」
「うぅ……正論すぎて反論できません……。でも、半年も毎日一緒に戦ってきた戦友なんです。声の感じだと、絶対いい人だと思うんですけど……」
「……声だけじゃ何も分からないわよ」
雪は厳しくピシャリと言い放ったが、その切れ長の瞳には、微かに保護者のような温かさが混じっていた。
会社では『氷の女帝』として恐れられている彼女だが、こうしてプライベートで頼ってくる部下を見捨てるような薄情な人間ではない。なんだかんだで、彼女も石井のことを可愛がっているのだ。
「時間は?」
「今日の17時、駅前のお洒落なカフェです……。もうすぐです……どうしよう、緊張でお腹痛くなってきた……。私、帰っていいですか……」
石井は完全にパニックを起こし、ソファのクッションを強く抱きしめてガタガタと震えている。
俺は立ち上がり、キッチンへと向かって冷蔵庫を開けた。
「まあ、落ち着け。相手が危険人物なら俺が引き剥がすし、ヤバそうなら雪が即座に論理で詰め切って警察を呼ぶ。お前の上司と先輩を甘く見るな」
俺が言いながらグラスを二つカウンターに置くと、雪が「誰がクレーマー処理班よ」と小さく笑った。
グラスにたっぷりの氷を入れ、フレッシュなミントの葉を手のひらで軽く叩いて香りを出し、底に沈める。
そこに、コンビニで買っておいたエナジードリンク『レッドブル』をグラスの半ばまで注ぎ、残りを強炭酸水で割る。最後に、ハーフカットしたライムをギュッと力強く絞り、果汁を落とした。
マドラーで軽く一回り。氷がグラスに当たって、カランと涼やかな音を立てる。
「ほら、飲め」
俺は淡い黄金色に弾けるグラスを、震える石井の前に置いた。
「……なんですか、これ。すごく爽やかな匂いがします」
「エナドリを炭酸とライムで割った。少しは頭が冷えるだろ」
俺が簡潔に告げると、石井は恐る恐るグラスを両手で持ち上げ、口をつける。
コクリと喉を鳴らすと、彼女の強張っていた肩の力がフッと抜けた。
「……美味しい。レッドブル特有の甘ったるさがなくて、ライムの酸味とミントですごくスッキリしてます。炭酸の刺激で、なんだか頭の中のモヤモヤが晴れていくみたい」
「勝負の前の特効薬だ。気休めくらいにはなる」
俺が自分の分のグラスを呷りながら言うと、石井は深く息を吐き出し、クッションを抱いていた腕を少し緩めた。
「……ありがとうございます。なんだか、少し落ち着きました。……私、行ってきます」
「ああ。少し離れた席で、しっかり見張っておく」
★★★★★★★★★★★
16時50分。駅前の、少し照明を落としたアンティーク調のお洒落なカフェ。
木目調の落ち着いた店内には、静かなジャズが流れている。
石井は窓際の二人掛けの席で、スマホを両手で強く握りしめながら、まだガチガチに緊張して座っていた。
俺と雪は、そこから斜め後ろに三つ離れた、大きな観葉植物の陰になる死角の席でコーヒーを頼み、静かに息を潜めていた。
休日の夕方ということもあり、店内は適度に混み合っており、俺たちが監視していることには誰も気づかないだろう。
「……来たわね」
雪が、メニュー表で顔を半分隠しながら低く囁いた。
店の入り口から、一人の若い男が入ってくる。石井と同年代か、少し上くらいだろうか。
俺は無言で、相手の男の身なりと動きを瞬時にスキャンした。
ネイビーの清潔感のあるウールコートに、シワのないチノパン。髪は短く整えられている。少し線が細く、おとなしそうな体格だが、眼鏡の奥の瞳は誠実そうだ。緊張で少し赤くなっているが、整った顔立ちをしている。
何より、足元の革靴が綺麗に磨かれていた。店員に案内される際にも、軽く会釈をしてから歩き出している。
「……靴は手入れされているし、店員への態度も自然だ。歩き方にも粗暴なところはない。少なくとも、常識の通じない危険人物という線は薄いな」
俺が俺なりの観察結果を小声で伝えると、雪はホッとしたように肩の力を抜いた。
「ええ。それに……彼、さっきからミチルさんと同じくらい、いえ、それ以上に手が震えてるわ。席に着く時、コートの裾をテーブルに引っかけそうになってたし。緊張でガチガチになっているけれど、優しそうな顔立ちの好青年ね」
雪の言う通りだった。
男は石井の向かいに座ると、顔を真っ赤にして何度も頭を下げ、声が裏返りそうになりながら必死に挨拶をしているのが遠目にも分かった。メニューを石井の方へ両手で丁寧に差し出したり、店員が水を持ってきた時に何度も会釈をしているのを見ると、どうやら根は真面目な性格らしい。
石井も同じようにペコペコと頭を下げ返している。
少し離れた席から見ていると、まるで初々しい中学生のお見合いのようだ。
「キルマシーンなんて物騒な名前をつけてるのに、随分と気の弱そうな青年ね」
「ネットの中と現実のギャップなんて、そんなものさ。画面の向こうでは歴戦の勇者でも、リアルではただの緊張した若者だ」
やがて、二人のテーブルに注文したコーヒーが運ばれてくると、少しずつ空気が和らいできた。
男がスマホの画面を見せながら何かを話し始めると、石井の顔がパァッと明るくなり、身を乗り出して笑い始めた。
おそらく、いつもやっているゲームの戦術の話でもしているのだろう。
「あそこのマップの裏取り、最高でしたよね!」
「そうそう! 石井さんのカバーがあったから、あのキルが取れたんですよ」
さっきまでの怯えた小動物のような姿は消え、いつもの明るくてよく通る石井の声が、微かにこちらまで届いた。
男の方も、自分の得意分野の話になると饒舌になるタイプのようで、次第に身振り手振りを交えて楽しそうに語り始めている。
その微笑ましい光景に、俺と雪は顔を見合わせ、自然と安堵の笑みを浮かべた。
「……どうやら、俺たちの出番はなさそうだな」
「ええ。これ以上見張っているのも野暮だわ。帰りましょう」
俺たちは席を立ち、テーブルに伝票と代金を置いた。
すっかり二人の世界に入り込んでいる彼らの視界に入らないように、俺たちは背を丸めて静かにレジへと向かい、店を後にした。
俺は、隣を歩く雪の手を自然に取る。彼女の少し冷たい指先が、俺の大きな手の中でぎゅっと握り返された。
「夕飯、何にする?」
「そうね……。ミチルさんたちの若い熱気を見てたら、なんだかお腹が空いちゃった。温かいシチューがいいわ」
俺たちは繋いだ手の温もりを確かめ合うように肩を寄せ、レオの待つ家へとゆっくり歩き出した。




