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深夜のコンビニで「死にそうな美女」に豚汁を奢ったら、翌日会社で鬼上司がチラチラ見てくる件  作者: 伊達ジン
第4章 公私混同の同棲生活

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第56話 レオのお留守番モニター

 厳しい暑さが少しだけ和らぎ、夕暮れに吹く風に微かな秋の気配が混じり始めた頃。

 俺は、自宅のリビングのラグに寝転がり、小さな黒い毛玉と本気のじゃれ合いを展開していた。


「……こら、レオ。それはパパの指だ。噛む用のおやつじゃないぞ」


 1歳を過ぎ、すっかり成犬のしっかりとした体格になった豆柴のレオは、仰向けになった俺の胸の上で短い前足をバタつかせ、俺の指を甘噛みしようと奮闘している。乳歯の頃のむず痒さはなくなったはずだが、コミュニケーションの一環として噛むフリをするのは相変わらずだ。

 今日は平日だが、俺は昨日完了した大型プロジェクトの振替休日を取得し、家でゆっくりと過ごしていた。妻の雪は、いつも通り完璧なネイビーのスーツに身を包み、「氷の女帝」の仮面を被って会社へ出勤している。


 平日の昼下がり、家の中にいるのは俺とレオだけだ。

 俺は起き上がり、棚から犬用のミルクボーロを取り出した。袋のガサッという音がした瞬間、レオの耳がピンと立ち、黒い瞳が完全にロックオン状態になる。


「ほら、お座り」


 レオはピシッと姿勢を正し、短い尻尾をプロペラのようにブンブンと振りながら、キラキラした目で俺を見上げる。麻呂眉がへの字になり、真剣そのものの表情だ。

 そのあまりの愛らしさに、俺の理性のストッパーはあっさりと決壊した。


「……お前は本当に可愛いな。よし、今日は特別に三つだ。ママには内緒だぞ」


 俺がボーロを手のひらに乗せると、レオは一瞬でそれを平らげ、お礼とばかりに俺の顔をペロペロと舐め回してきた。ザラザラとした舌の感触がくすぐったい。

 俺はレオの柔らかいお腹に顔を埋め、「レオ〜、いい子だなぁ、お腹ぽんぽんだな〜」と、自分でも引くくらいにだらしない声を上げて彼を撫で回した。


 リビングのテレビボードの上に、最近雪が「留守中のレオくんが心配だから」と言って設置した小型のペットカメラが置かれていることなど、この時の俺は完全に忘れていた。


★★★★★★★★★★★


 夜19時。

 俺はキッチンで、中華鍋の重みと油の香りに向き合っていた。

 夕方、雪から「今日は定時で上がれそう」と連絡があったため、彼女の一日の疲労を吹き飛ばす本格中華のディナーを用意することにしたのだ。


 まずは前菜。『きのこの中華風マリネ』だ。

 エリンギ、しめじ、舞茸、そして生キクラゲ。秋の味覚であるたっぷりのきのこを、熱湯でサッと湯通しし、水気をしっかりと切る。

 温かいうちに、黒酢、醤油、ごま油、そして微塵切りにした生姜を合わせた特製ダレで和える。黒酢の芳醇な酸味ときのこの旨味が、疲れた胃腸を優しく目覚めさせてくれるはずだ。


 次はスープ。

 スーパーで見つけた立派な秋ナスを使った、ふんわり卵の中華スープだ。

 乱切りにした秋ナスを、多めのごま油で表面がトロトロになるまでじっくりと炒める。そこに上質な鶏ガラスープを注ぎ、沸騰したところで溶き卵を細く回し入れる。ナスのとろけるような甘みと、卵の優しさが溶け合った、胃に染み渡るスープだ。仕上げに刻んだ青ネギを散らす。


 点心には『手包みシューマイ』。

 粗挽きの豚ひき肉に、たっぷりの玉ねぎの微塵切りを合わせる。味の決め手は、一晩水で戻した干し貝柱とその戻し汁だ。これを肉ダネに練り込むことで、専門店のような上品な海鮮の旨味が加わる。

 薄い皮でヒダを寄せながら一つ一つ丁寧に包み、竹せいろに並べて蒸し上げる。蓋の隙間から、食欲をそそる蒸気がシュンシュンと上がり始めた。


 そして、メインディッシュ。

 俺は鉄の中華鍋をコンロに置き、煙が上がるまで限界まで熱した。


「……ここからは時間との勝負だ」


 大さじ一杯のラードを引く。サラダ油ではなくラードを使うことで、米一粒一粒がコーティングされ、プロの仕上がりになる。

 溶き卵を流し込み、それが半熟になった瞬間に、硬めに炊いた温かいご飯を投入する。

 お玉の背でご飯をほぐしながら、重い中華鍋を大きく振る。


 カンッ、カンッ!

 ジュワアアアッ!


 コンロの火炎が鍋肌を舐め、米が宙を舞う。

 具材は自家製チャーシューの角切りと、刻みネギのみ。余計なものは入れない。

 パラパラになったご飯に、塩と少量の白胡椒で味を調え、最後に鍋肌から醤油を焦がすように回し入れる。

 香ばしい醤油の香りが爆発的に広がり、俺は一気に大皿へと盛り付けた。


「……ただいま」


 絶妙なタイミングで、玄関のドアが開く音がした。


「おかえり。ちょうど出来たところだ」


 俺がエプロン姿のままリビングに向かうと、雪が薄手のトレンチコートを脱ぎながら、鼻をひくつかせていた。外の冷たい空気の匂いを纏った彼女の頬は、少しだけ赤い。


「すごい……お店の前を通った時みたいな、本格的な匂いがするわ」


 彼女は洗面所で手洗いうがいを済ませ、ダイニングテーブルに並んだ料理を見て目を輝かせた。


「プロ顔負けの炒飯に、せいろ蒸しのシューマイ。……最高ね。いただきます」


 雪はまず、きのこのマリネを口に運んだ。

 黒酢の爽やかな酸味が口の中に広がり、彼女の肩の力がすっと抜けるのが分かる。

 続いて、せいろの蓋を開ける。

 ぶわっと立ち上る湯気の中から、艶やかなシューマイが現れた。

 辛子醤油を少しだけつけて、頬張る。


「……んんっ! お肉がプリプリで、すごくジューシー。噛んだ瞬間に、奥から海鮮の旨味が追いかけてくるわ」


「干し貝柱の出汁を練り込んであるからな。噛めば噛むほど旨味が出るだろ」


 そして、彼女は黄金色に輝く炒飯をスプーンですくった。

 パラリとした米粒が、口の中でほどけていく。

 ラードの深いコクと、焦がし醤油の香ばしさ。


「……美味しい。パラパラなのにパサついてなくて、しっとりしてる。それに、このナスのスープ……ナスがトロトロで甘くて、すごく優しい味がするわ。体に染み渡るみたい」


 彼女は夢中でスプーンを動かした。

 俺も自分の炒飯を平らげながら、彼女の満たされた顔を見て安堵の息を吐いた。

 会社での重圧を、この食卓で少しでも軽くできているのなら、これ以上の喜びはない。


★★★★★★★★★★★


 食後。

 俺は口の中の油をすっきりと流すために、急須で温かいプーアル茶を淹れた。

 独特の土のような香りが、食後の胃を落ち着かせてくれる。


 雪はソファに移動し、俺とお揃いの琥珀色のマグカップを両手で包み込みながら、足元にやってきたレオの頭を撫でた。


「……ねえ、一郎」


「ん?」


「今日、お昼休みにペットカメラのアプリを開いたのよ。レオくん、いい子にお留守番してるかなって思って」


 俺はプーアル茶を飲もうとしていた手を、ピタリと止めた。

 嫌な予感がする。


「……そうか。それで?」


 彼女はマグカップの縁越しに、悪戯っぽく笑って俺を見た。その瞳の奥には、確かなからかいの色が浮かんでいる。


「『ママには内緒だぞー』って、ボーロ三つもあげてたでしょ。お腹に顔埋めて、でれでれに溶けた声出して」


 ブフォッ。

 俺は危うくお茶を吹き出しそうになり、激しく咳き込んだ。

 見られた。あの、この世の誰にも見せたくない限界まで気が抜けた姿を、よりによって一番見られたくない相手に。


「あ、あれは……その、マイクの音声も拾うのか、あのカメラ」


「ええ、とってもクリアにね。おかげで、午後の仕事の疲れが全部吹き飛んだわ。会社では絶対に誰も見ることができない、あなたのあの無防備な顔。私だけの特権だと思ってたのに、まさかレオくんに負けるなんてね」


 彼女はクスクスと笑い声を立てた。


「私が自分のデスクでスマホの画面見ながら必死に笑いこらえてたから、ミチルさんが私の顔を見て怯えてたくらいよ。『まさか、私のミスを見つけて処刑の方法を思いついたんじゃ……』って震えてたわ」


 俺は顔から火が出るほど恥ずかしくなり、視線を泳がせた。

 会社でのクールな擬態も、頼れる夫としての威厳も、あの映像の前には粉々に打ち砕かれている。


「……あれは、レオがあまりにも可愛い顔をするから、つい魔が差したというか……」


 俺がしどろもどろに言い訳をすると、雪はカップをローテーブルに置き、俺の隣にすり寄ってきた。

 そして、俺の肩にこてんと頭を乗せる。


「……ずるいわね。あんなに甘やかした声、私にも見せてくれないのに」


 ほんの少しだけ拗ねたような、嫉妬混じりの甘い響き。

 俺は大きく息を吐き、彼女の肩をそっと抱き寄せた。

 プーアル茶の香りと、彼女の髪から微かに香るシャンプーの匂いが混ざり合う。


「……じゃあ、今度は雪を甘やかしてやるよ。望み通りにな」


「……バカ」


 彼女は顔を赤らめて俺の胸を軽く叩いたが、俺の腕の中から離れようとはしなかった。

 足元では、レオが「僕にもおやつをくれ」と短い尻尾を振りながら、俺の膝に前足をかけている。

 俺は苦笑しつつ、腕の中で大人しくなった彼女の頭をそっと撫でた。

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