第55話 炎の女王の婚活宣言
容赦ない日差しがアスファルトを焦がす、厳しい夏の盛り。ある木曜日の夕方。
営業二課のフロアは、定時を過ぎて少しだけ落ち着きを取り戻していた。
「……ふぅ」
俺は、PCのモニターから目を離し、軽く首を回して凝りをほぐした。
先日、給湯室での雪との「甘い攻防戦」を後輩の石井ミチルに目撃されて以来、俺たちは会社での振る舞いに細心の注意を払っている。
雪は以前にも増して「冷徹な上司」としての威厳を張り詰めさせ、俺もまた「冴えない部下」の擬態を強化していた。
だが、一度決壊してしまった甘い空気は、時折どうしても漏れ出てしまう。
「……橋本主任補佐。このデータ、明日までに集計をお願い」
雪が俺のデスクにファイルを置きに来た。
その声は冷ややかだが、ファイルを置く際、彼女の小指が俺の手の甲をスッと撫でていった。
周囲からは絶対に見えない、一瞬のスキンシップ。
俺は心臓が跳ねるのを必死に抑え、「承知いたしました」と深く頭を下げた。
そんな、密かなスリルを楽しんでいた時だった。
「ちょっと! 橋本くん、今日空いてるわよね!」
フロアに響き渡る、よく通るハスキーボイス。
営業一課の「炎の女王」こと、山下恭子課長だ。
彼女は燃えるような赤いパンプスを鳴らし、一直線に俺のデスクへと向かってきた。
その顔は真剣そのもので、パッチリとした大きな瞳には決意の炎が揺らめいている。
「山下課長。……空いているかと言われれば、今日は特に残業の予定はありませんが」
「よし! じゃあちょっと付き合いなさい! 飲みに行くわよ!」
山下が俺の腕を掴もうとした瞬間、スッと間に割って入る影があった。
雪だ。
彼女は無表情のまま、山下の前に立ち塞がった。
「……山下課長。うちの部下を、平日の夜に強引に連れ回すのはやめていただきたいのだけど。明日の業務に支障が出たら困るわ」
雪の声は氷点下だが、その言葉の裏にははっきりとした「妻としての牽制」が込められていた。
山下はひるむことなく、雪を睨み返した。
「ケチね! 毎晩家で独り占めしてるんだから、たまには貸しなさいよ! こっちだって、人生の重大な岐路に立たされてるんだから!」
「人生の重大な岐路?」
「そうよ! だからドラえも……じゃなくて、橋本くんに相談があるの! お願い、鉄仮面! 一時間、いや二時間で返すから!」
山下は両手を合わせて懇願した。
その必死な様子に、雪も少し毒気を抜かれたようだ。
彼女は小さくため息をつき、俺を見た。
「……どうするの。行くの?」
小声で尋ねられる。
俺は少し考え、頷いた。
「山下課長がここまで言うなら、無碍にはできません。……遅くならないように帰ります」
「……分かったわ。あまり飲みすぎないようにね。……それに、変な気を起こさせないでよ」
雪はチクリと釘を刺し、自席へと戻っていった。
俺はジャケットを羽織り、意気揚々としている山下の後を追ってオフィスを出た。
★★★★★★★★★★★
「……で。人生の重大な相談って、何ですか?」
俺たちがやってきたのは、会社から少し離れた路地裏にある、こぢんまりとした沖縄料理屋だった。
入り口にはシーサーの置物があり、店内には三線の軽快なBGMが流れている。
山下は「こういう暑い日こそ、南国の風を思い切り感じたいのよ」と言って、俺をカウンター席に座らせた。
「とりあえず、オリオンビールの生を二つ! あと、コースでお願い!」
山下が豪快に注文を済ませると、すぐに冷えたビールジョッキが運ばれてきた。
「乾杯!」
チン、とジョッキを合わせ、冷たいビールを喉に流し込む。
すっきりとした喉越しが、一日の疲れを洗い流してくれる。
山下はジョッキを半分ほど一気に空け、「ぷはーっ!」と親父くさい息を吐いた。
深夜のコンビニで見せていた「限界OL」の片鱗が、すでに顔を出している。
「で、相談なんですが」
俺が再び促すと、山下はジョッキをドンとテーブルに置き、俺を真っ直ぐに見た。
「……私、婚活するわ!」
「……は?」
「だから! 婚活よ、婚活! 週末の婚活パーティーに申し込んだの!」
あまりにも唐突な宣言に、俺は言葉を失った。
山下恭子。28歳。
容姿端麗、仕事もできる一課の課長。彼女が本気を出せば、相手などいくらでも見つかりそうなものだが。
「……なぜまた、急に?」
「急じゃないわよ! ずっと考えてたの!」
山下はお通しの『海ぶどうと島豆腐のサラダ』をつまみながら、口を尖らせた。
プチプチとした海ぶどうの塩気と、濃厚な島豆腐の甘みが、ビールの苦味とよく合う。
「だって……悔しいじゃない」
「悔しい?」
「貴方たちよ! 鉄仮面と、貴方!」
彼女は俺を指差した。
「あの仕事しか頭になかった冷血女が、貴方みたいな優しくて料理上手な旦那を見つけて、毎日お弁当まで作ってもらって、キラキラ幸せそうにしてるのよ!? 私の頼りにしてたドラえもんまで奪われて! ……私だって、幸せになりたいのよ!!」
彼女の叫びは、半分が八つ当たりで、半分が本音だった。
あの日、俺たちの関係を知った時の彼女のショックは大きかったのだろう。
だが、それを引きずらずに「自分も幸せになる!」と行動を起こすのが、炎の女王らしいバイタリティだ。
「……なるほど。応援しますよ。で、俺にできるアドバイスって何ですか?」
「決まってるでしょ」
山下は身を乗り出してきた。
「男の胃袋の掴み方を教えてちょうだい!」
……なるほど。
俺はコースの二品目として運ばれてきた『もずくの天ぷら』を箸で割りながら、苦笑した。
サクサクとした衣の中に、磯の香りをたっぷり含んだもずくが詰まっている。塩をつけて食べると、これまたビールが止まらなくなる味だ。
「胃袋を掴む、ですか。……山下課長、普段料理は?」
「……カップラーメンにお湯を注ぐくらいはできるわよ?」
「それは料理とは呼びません」
俺が即答すると、彼女は「うっ」と言葉に詰まった。
深夜のコンビニで、甘いスイーツやジャンクフードばかり漁っていた彼女だ。自炊能力が皆無なのは知っている。
「いいじゃない! 今から練習するの! 鉄仮面だって、最初は料理できなかったんでしょ!?」
「ええ、まあ。彼女は今でも、時々目玉焼きを黒焦げにしますけどね」
「だったら私にもできるはずよ! ……ねえ、男の人が喜んで、しかも私でも作れる『勝負飯』って何? やっぱり、肉じゃが? それともビーフシチュー?」
彼女は目を輝かせて聞いてくる。
だが、俺は首を横に振った。
「その辺りの定番料理は、ハードルが高いですよ。味付けのバランスが難しいし、何より『家庭的アピール』が露骨すぎます」
「じゃあ、どうすればいいのよ!」
「……すみません、大将。『ラフテー』をお願いします。それと、『瑞泉』の古酒を水割りで二つ」
俺は店主に注文を追加した。
数分後、照り輝く琥珀色の『ラフテー』と、琉球ガラスのグラスに入った泡盛の水割りが運ばれてきた。
「……泡盛? 私、強いお酒はちょっと……」
「水割りですから大丈夫です。……まず、ラフテーを食べて、それからこの古酒を飲んでみてください」
山下は言われた通りに、箸で簡単に切れるほど柔らかく煮込まれたラフテーを口に運んだ。
豚の脂の甘みと、醤油、そして黒糖の深いコクが口いっぱいに広がる。
「……んんっ! 柔らかい! 味が中までしっかり染みてる!」
「そこで、古酒です」
彼女はグラスに口をつけ、泡盛の水割りを一口飲んだ。
その瞬間、彼女の目が驚きに見開かれた。
「……あ。……すごい。泡盛のツンとした匂いが全然ない。むしろ、甘い香りがして……豚の脂の甘みとすごく合うわ」
「でしょう。泡盛の古酒は、熟成されることでバニラのような甘い香りが生まれます。それが、豚の脂や黒糖のコクと完璧なマリアージュを引き起こすんです」
俺も自分のグラスを傾け、その芳醇な香りと味わいを堪能した。
ラフテーの濃厚さを、古酒が優しく包み込み、流してくれる。
「……で、これが私の婚活とどう関係あるの?」
山下が不思議そうに首を傾げる。
「つまり、『無理に手の込んだメインディッシュを作らなくてもいい』ということです」
俺はラフテーの皿を指差した。
「男性の胃袋を掴むのに、最初から完璧な肉じゃがやフレンチを作る必要はありません。大切なのは、『お酒に合う、ちょっとした美味しいおつまみ』がサッと出せるかどうかです」
「おつまみ……?」
「ええ。例えば、以前俺がコンビニで教えた『極厚マシマシ・パンケーキ風ロール』のような、ジャンクだけど悪魔的に美味しいアレンジ。あれだって立派な武器になります」
俺の言葉に、山下はハッとしたように顔を上げた。
「山下課長は、美味しいものを食べるのが好きでしょう? その時の貴方のリアクションは、見ている側も幸せな気分にさせます。……だから、まずは自分が食べて美味しいと思う『簡単なおつまみ』を極めるんです」
「……簡単なおつまみ。例えば?」
「そうですね……クリームチーズの醤油漬けとか、アボカドと塩昆布の和え物とか。切って混ぜるだけで、お酒が進む絶品になります。……そういうものをサッと出して、『一緒に飲も?』って言われたら、大抵の男は落ちますよ」
俺が熱弁すると、山下は真剣な顔でウンウンと頷き、スマホを取り出してメモを取り始めた。
「クリームチーズの醤油漬け……アボカドと塩昆布……。なるほど、これなら私でも失敗しなさそう! ……ドラえもん、貴方やっぱり天才ね!」
彼女はパァッと顔を輝かせ、残っていた古酒の水割りをグイッと飲み干した。
「よーし! なんだか自信湧いてきたわ! 今週末のパーティー、絶対いい男捕まえてやるんだから!」
「その意気です。……でも、飲みすぎには注意してくださいよ」
俺たちはその後も、運ばれてきた『ゴーヤチャンプルー』や〆の『沖縄そば』を味わいながら、婚活対策会議を続けた。
苦味の効いたゴーヤと、優しい出汁の味が染みる沖縄そば。
心身を温めてくれる沖縄料理と、山下の前向きなエネルギーのおかげで、俺もすっかり楽しい時間を過ごすことができた。
★★★★★★★★★★★
夜22時。
すっかり上機嫌になった山下をタクシーに押し込み、俺は雪の待つマンションへと帰宅した。
合鍵でドアを開けると、リビングのソファで本を読んでいた雪が顔を上げた。
彼女はすっかりお馴染みとなったリラックスウェア姿だ。
そして、俺がリビングに入った瞬間、彼女の鼻がヒクッと動いた。
「……おかえりなさい」
「ただいま戻ったよ」
「……随分と、ご機嫌な匂いがするわね。豚の脂と、独特のアルコールの匂い。……泡盛?」
相変わらずの嗅覚だ。
俺は苦笑いしながらジャケットを脱いだ。
「ああ。沖縄料理屋に行ってきたんだ。……山下課長、本気で婚活するそうだよ」
「婚活?」
雪は本を閉じ、興味深そうに目を丸くした。
「ああ。俺たちが幸せそうにしているのが悔しかったみたいでさ。……『男の胃袋の掴み方』をレクチャーさせられたよ」
俺が事の顛末を話すと、雪は呆れたようにため息をついた。
「……あの子らしいわね。でも、貴方に料理のアドバイスを求めるなんて、見る目だけはあるわ」
彼女は立ち上がり、俺の胸元にスッと顔を近づけてきた。
そして、俺のシャツの匂いを嗅ぐように深呼吸をする。
「……でも」
彼女は俺のネクタイを軽く引っ張り、上目遣いで俺を睨んだ。
「私の胃袋を掴んだその技術、あまり他の女に安売りしないでよね」
その言葉に含まれた、強烈な独占欲。
俺の心臓が、泡盛のアルコールとは違う熱さでドクンと跳ねた。
会社での冷徹な姿からは想像もつかない、妻としての甘い束縛。
「……俺の料理も、俺自身も、一生お前のものだ。安売りなんてしないさ」
俺が彼女の腰に手を回して引き寄せると、彼女は顔を真っ赤にして、俺の胸に顔を埋めた。
「……ならいいわ。……お酒臭いから、早くシャワー浴びてきなさい」
「はいはい。一緒に入るか?」
「……ばか!」
彼女にポカポカと胸を叩かれながら、俺は幸福な笑みをこぼした。
炎の女王の新たな挑戦を応援しつつ、俺はこの愛する妻との甘く熱い夜を、これからも大切に守り抜こうと心に誓った。




