第54話 給湯室の攻防戦
夏の暑さが本格化してきた、ある平日の朝。
我が家のリビングでは、朝の散歩と朝食を終えた小さな暴君が、急速な「バッテリー切れ」を起こしていた。
「……」
豆柴のレオだ。
1歳を過ぎ、すっかり成犬のしっかりとした体格になった彼は、リビングのラグの上に腹ばいになり、前足を投げ出している。
普段なら、何か面白そうなものを見つけては目をキラキラさせて駆け回っている時間帯だ。
だが今の彼は、完全に無の境地に至っていた。
まぶたが、重力に逆らいきれずに半分ほど落ちている。
クリクリとしたつぶらな瞳からは光が消え去り、何を考えているのか全く読み取れない「スーン」とした表情。
いわゆる、柴犬特有の『虚無顔』である。
「……レオ。お前、顔の筋肉死んでるぞ」
俺が顔を覗き込んで声をかけても、彼は微動だにしない。
ただ、ペシッ、ペシッ、と尻尾の先だけが惰性のように床を叩いている。
眠い。だけどパパとママがまだ家にいるから、完全に寝てしまうのはもったいない。
そんな葛藤の末に、表情筋の電源だけをオフにしたエコモードなのだろう。
「……ふふっ。何よその顔。悟りを開いた高僧みたいね」
身支度を終えた雪が、寝室から出てきて吹き出した。
彼女は完璧なネイビースーツに身を包み、髪も夜会巻きにビシッとまとめている。
彼女がしゃがみ込んでレオの頬をツンツンと突くと、レオは「んふぅ」と気の抜けた鼻息を漏らし、そのままコテンと顔を横に倒して完全に夢の世界へと旅立ってしまった。
「あーあ、寝ちゃった。……可愛いから許すけど」
雪は愛おしそうにレオの頭を撫でてから、立ち上がった。
俺もジャケットを羽織り、カバンを手に取る。
「行くか、雪」
「ええ。……今日も暑くなりそうね」
玄関を出ると、容赦ない夏の日差しが降り注いでいた。
俺たちはごく自然な動作で互いの手を握り、駅へと向かう。
そして、会社の最寄り駅の改札が近づくと、どちらからともなくスッと手が離れた。
二人の結婚はすでに社内公認となっているが、職場では互いにプロとして「氷の女帝」と「冴えない部下」の距離感を厳格に保つ。それが彼女の美学であり、俺たちのルーティンだ。
ここから先は、オフィスという戦場だ。
★★★★★★★★★★★
15時。
営業二課のフロアは、冷房が効いているにもかかわらず、どこか熱を帯びたような忙しさに包まれていた。
期末が近づき、各プロジェクトの進捗確認や予算のすり合わせで、誰もがPCモニターに釘付けになっている。
フロアの奥、課長席。
雪は、次々と持ち込まれる決裁書類に猛スピードで目を通し、容赦なく朱を入れていた。
「高田。この見積もり、粗利の計算が間違っているわ。差し戻しよ。……それから石井さん、A社への提案資料、フォントの統一感が皆無ね。私の美学に反するわ。やり直し」
「ひぃっ! す、すみません!」
ミチルが涙目でバインダーを受け取り、逃げるように自席へ戻っていく。
俺の席からは、雪がこめかみを指で強く揉む仕草がはっきりと見えた。糖分とカフェインの枯渇サインだ。
「……課長。少し休憩を入れては?」
俺が立ち上がり、業務的な声のトーンでさりげなく声をかける。
雪は俺をチラリと見て、小さく息を吐いた。
「……そうね。少し頭を冷やしてくるわ」
彼女は席を立ち、給湯室の方へと向かっていった。
俺も、自分のマグカップを持ってその後を追う。
給湯室には、誰もいなかった。
雪はシンクの前に立ち、コーヒーメーカーのボタンを押して、愛用のマグカップにお湯が落ちるのを眺めている。
その背中は、フロアで見せていたピンと張った緊張感が嘘のように、少しだけ丸まっていた。
「……お疲れ。かなり立て込んでるな」
俺が背後から声をかけると、彼女は振り返る途中でふらりとバランスを崩した。
「危ない」
俺がとっさに腕を伸ばして彼女を支えると、彼女は小さくため息をつき、マグカップをシンクの縁に置いた。
「……ええ。少し、立ちくらみがしただけ」
「期末だから仕方ないが……あまり無理はしないでくれよ」
俺が隣に並んだ瞬間。
彼女の冷徹な上司の仮面が、音もなく剥がれ落ちた。
「……はぁ〜、もう疲れたぁ」
彼女は体の力をダラリと抜き、俺の二の腕に自分の頭をコテンと乗せてきた。
声のトーンが、完全に「家」のものになっている。甘ったるく、少し鼻にかかったような声。
「ちょ、雪。ここは会社だぞ」
俺は慌てて背後のドアを振り返った。
幸い、誰も入ってくる気配はない。結婚しているとはいえ、この極端なオンオフの落差をフロアの連中に見られるのは、彼女のプライドが許さないはずだ。
「……ん……わかってる。わかってるけど、ちょっとだけ……。右の肩甲骨のあたりがガチガチなの」
彼女は目を閉じ、俺の腕にすりすりと頬を擦り付ける。
タイトなスーツ姿でそれをやられると、破壊力が異常に高い。
俺は冷や汗をかきながらも無碍にはできず、彼女を支えながら右肩にそっと手を添えた。
スーツ越しでも分かるほどのひどい凝りだ。
俺は親指の腹を使って、肩甲骨の縁をゆっくりと押しほぐした。
「……んぅ……あー、そこそこ。……やっぱり一郎の手、大きくて気持ちいい……」
彼女は目を閉じ、完全に脱力して俺に体を預けている。
「……少しは楽になったか?」
「ん……最高。このまま家に帰って、ベッドにダイブしたい気分だわ……」
彼女がだらしなく頬を緩めた、その時だった。
「お疲れ様でーす! いやぁ、給湯室がアツアツで冷房の意味がないですねぇ!」
背後から、底抜けに明るい声が響いた。
ビクッ! と、雪の体が硬直する。
振り返ると、ドアの隙間からひょっこりと顔を出しているのは、マグカップを持った石井ミチルだった。
彼女のヘーゼルナッツ色の瞳は、これ以上ないほどにニヤニヤと笑っている。
「い、石井さん……!?」
雪は弾かれたように俺から離れ、一瞬で背筋を伸ばし、顔の筋肉を総動員していつもの冷ややかな表情を作った。
だが、遅かった。
彼女の耳の先から首筋にかけてが、ゆでダコのように真っ赤に染まっているのは隠しようがなかった。
「いやぁ、お邪魔してすみません! お茶淹れようと思ったんですけど、あまりにも『新婚の甘いノリ』が炸裂してたんで、声かけるタイミング見失っちゃって!」
ミチルは悪びれもせずに給湯室に入ってくると、自分のマグカップをシンクに置いた。
「さっき、『一郎』って呼びましたよね? 課長。……会社じゃ絶対に見せないそのデレデレっぷり、ごちそうさまですぅ!」
「そ、それは……! 違うわ、今のはその……ただの疲労回復のためのマッサージで……!」
「へえ〜、マッサージで『んぅ……最高』ってあんなに甘えちゃうんですねぇ! 勉強になりますぅ!」
「こら、石井。あまりからかうな」
俺が見かねて助け舟を出すが、ミチルのニヤニヤは止まらない。
「センパイもセンパイですよ! 会社では相変わらず『冴えない部下』のフリして敬語使ってるくせに、二人きりになった途端にあの手つきとタメ口! 完全にスパダリの旦那様じゃないですか!」
ミチルは俺の肩をバシバシと叩き、楽しそうに笑い転げている。
「……もう、知らないっ!」
耐えきれなくなった雪は、マグカップをひったくるようにして持ち、真っ赤な顔で給湯室から逃げ出していった。
カツカツというヒールの音が、いつもより激しく乱れている。
「あーあ、逃げちゃった。……でも、良いもの見れました。ごちそうさまです、センパイ!」
ミチルは満足そうにウインクをし、自分のマグカップにお湯を注ぎ始めた。
俺は深くため息をつき、頭を抱えた。
★★★★★★★★★★★
その日の夜。
マンションに帰宅すると、リビングのソファの上で「遭難者」が丸まっていた。
すっかりお馴染みとなったリラックスウェアに着替えた雪が、クッションに顔を完全に埋め、ジタバタと足を動かしている。
「……あぁぁぁ……! 死にたい……! 恥ずかしすぎる……! 会社では絶対に公私混同しないって決めてたのに、あんなデレデレに甘えきった姿を部下に見られるなんて……私の威厳が……!」
彼女のくぐもった呻き声が、リビングに響き渡る。
レオが心配そうに「きゅぅ?」とクッションの周りをウロウロしているが、彼女は顔を上げようとしない。
「……雪。もう誰も見てないぞ。それに、夫婦なんだから少しくらい甘えてたって、誰も気にしないさ。石井も微笑ましくからかってただけだろ」
俺がなだめるように言うと、彼女はクッションの隙間から片目だけを出して俺を睨んだ。
「それが嫌なのよ! 明日からどんな顔で厳しい指示を出せばいいのよ……!」
「俺のせいか。理不尽だな」
「そうよ、一郎のせいよ。貴方が優しく支えたりするから、つい気が緩んじゃったじゃない」
俺は苦笑しながら、キッチンへと向かった。
こんな時は、物理的な「甘さ」で脳を麻痺させるのが一番だ。
今夜の夜食……というよりお詫びのスイーツは、『即席・本格ティラミス』だ。
ボウルにマスカルポーネチーズと、少しの砂糖、そして八分立てにした生クリームを加えて、滑らかなクリームを作る。
次に、市販のスポンジケーキを一口大に切り、深めのグラスの底に敷き詰める。
そこに、濃いめに淹れたエスプレッソコーヒーをたっぷりと染み込ませる。
「……いい匂い」
コーヒーの香りに釣られて、クッションから顔を上げた雪が、鼻をひくつかせている。
俺はスポンジの上に先ほどのマスカルポーネクリームをたっぷりと乗せ、表面を平らにならした。
最後に、茶こしを使って無糖のココアパウダーを雪のように振りかける。
白と黒の、美しいコントラスト。
「完成だ。……そして、これに合わせる大人のペアリングは」
俺は冷蔵庫から牛乳を取り出し、さらに戸棚から琥珀色のリキュールの瓶を取り出した。
『アマレット』。杏仁豆腐のような、アーモンドの甘い香りが特徴のイタリアンリキュールだ。
氷を入れたグラスにアマレットを注ぎ、冷たい牛乳で割る。
「さあ、どうぞ。恥ずかしさを忘れさせる、極上の甘さだ」
俺がローテーブルにグラスを置くと、彼女はのっそりと起き上がり、スプーンを手に取った。
「……いただきます」
彼女はティラミスを大きくすくい、口に運んだ。
エスプレッソの苦味が染み込んだカステラと、濃厚で滑らかなマスカルポーネクリーム。そしてココアの風味が、口の中で渾然一体となって溶けていく。
「……んっ! 苦くて……甘い。クリームがすごくふんわりしてる」
「アマレット・ミルクも飲んでみてくれ」
彼女はグラスに口をつけ、コクンと喉を鳴らした。
「……あ。アーモンドの香りがする。ティラミスのコーヒーの苦味の後に飲むと、この甘さがすごく優しく感じるわ……」
彼女の強張っていた肩の力が抜け、表情がとろんと緩んでいく。
アルコールと糖分の見事なコンボだ。
俺も自分のティラミスを味わいながら、彼女の顔を眺めた。
「……これからは給湯室に入る前、周囲の安全確認を徹底しよう。俺ももっと気を配るから」
俺が静かに語りかけると、彼女はスプーンを止めて、小さく頷いた。
「……ええ。会社では、私は完璧な上司でいなきゃ。……でも」
彼女はアマレット・ミルクのグラスを両手で持ち、少しだけ上目遣いで俺を見た。
頬が、アルコールのせいか、それとも別の理由か、ほんのりと赤い。
「……今日みたいな『失敗』は……一郎の前でだけよ。……一郎がいるから、私は安心して隙を見せちゃうの」
その言葉は、どんな甘いスイーツよりも、俺の胸を熱く甘く満たしていった。
俺は立ち上がり、彼女の隣に座って、その小さな肩をそっと抱き寄せた。
「……分かった。雪の隙は、家では俺が全部受け止めるよ」
「……言ったわね。なら、もっと肩揉んでちょうだい。今度は誰にも邪魔されないから」
彼女は悪戯っぽく笑い、俺の胸にコテンと頭を預けてきた。
足元では、レオが再び「虚無顔」で眠りに落ちている。
給湯室での攻防戦は俺たちの敗北に終わったが、こうして二人きりで過ごす甘い夜の時間は、誰にも奪えない俺たちだけのものだ。
俺は彼女の髪を撫でながら、アーモンドの甘い香りの余韻を、深く、長く噛み締めていた。




