第53話 時差出勤の終わり
長く鬱陶しかった梅雨が明け、本格的な夏の猛烈な暑さがアスファルトを白く焦がし始めた、ある平日の朝。
バルコニーの大きな窓越しに、ジリジリとした強烈な太陽光が差し込む我が家のリビングでは、朝から奇妙な音が響き渡っていた。
カラカラ、コロロンッ。
ダダダダッ!
「……レオ。朝から元気だな」
俺がキッチンでコーヒーケトルに浄水を注ぎながら声をかけると、リビングの端から黒い弾丸が勢いよく飛び出してきた。
1歳を過ぎ、すっかり成犬のしっかりとした体格になった豆柴のレオだ。
彼の黒い口元には、イガイガの突起がついた見慣れない物体がくわえられている。
それは、昨夜ドラム式洗濯機の中に転がっていた『洗濯ボール』だ。衣類の絡みを防ぐための実用的なアイテムだが、レオはそれを自分用の新しいおもちゃだと完全に勘違いしているらしい。
「わふっ! くぅ〜ん!」
レオは俺の足元に洗濯ボールをポトリと落とし、「投げて!」とばかりに短い尻尾をプロペラのように高速で振った。
少し硬めのプラスチック素材でできたそのボールは、床に落ちると予測不能な不規則な跳ね方をする。それがどうやら、彼の狩猟本能を激しく刺激してやまないようだ。
「しょうがないな。一回だけだぞ」
俺がボールを拾い上げ、リビングの奥へ向かって軽くアンダースローで転がした。
カラカラッ、という乾いた音を立ててボールが転がる。
レオの耳がピンと立ち、麻呂眉がキュッと中心に寄った。
「ワンッ!」
彼はフローリングで豪快に爪を滑らせながら、猛ダッシュでボールを追いかける。
そして、ボールがテーブルの太い脚に当たって予期せぬ方向へ跳ね返ると、レオは空中で見事に体を捻り、見えない敵と戦うようにボールに力強く飛びかかった。
「……ふふっ、本当に楽しそうね」
奥の寝室から、静かな声がした。
寝起きの目をこすりながら現れた彼女は、大きめの白いTシャツにショートパンツという、限界まで力の抜けたラフな姿で、レオの無邪気なアクロバットを見て柔らかく微笑んでいる。
「おはよう、雪。どうやらあの洗濯ボール、すっかりあいつのお気に入りになったみたいだな」
俺がコーヒー豆を挽く手を止めて微笑み返すると、彼女は少しだけ呆れたように息を吐いた。
「そうみたいね。……でも、それ、あとで綺麗に洗ってから洗濯機に戻さないとダメよ」
彼女は苦笑いしながら、ダイニングテーブルの定位置についた。
俺は挽きたてのマンデリンにゆっくりとお湯を注ぎ、部屋中に芳醇で深い苦味のある香りを充満させる。
厚切りの食パンをトーストし、表面にたっぷりとバターを塗ってから、半熟に仕上げた目玉焼きと、カリカリに焼いたベーコンを乗せる。
淹れたての熱いコーヒーと、手早く作った朝食のプレートを彼女の前に置いた。
「いただきます。……ん、美味しい。やっぱり朝は、この深いコーヒーに限るわね」
彼女はマグカップを両手で持ち、幸せそうに長く息を吐いた。
窓の外からは、けたたましい蝉の鳴き声と、夏の強い日差しが遠慮なく差し込んでいる。
だが、エアコンの効いたこのリビングの中だけは、静かで、涼しくて、ただコーヒーの香りとトーストを齧る音だけが満ちている。
この穏やかで、少しだけ騒がしい朝の風景は、俺にとって何物にも代えがたい宝物になっていた。
時計の針が七時四十五分を回った。
俺たちは朝食の片付けを済ませ、それぞれ身支度を整える。
「……じゃあ、レオくん。行ってくるわね。お留守番、お願いね」
彼女は玄関で、安全なケージの中でお座りをしているレオに優しく声をかけた。
レオは「もう行くの?」という顔で鼻を鳴らしたが、俺が用意したお留守番用の長持ちするおやつをもらうと、すぐにそちらに夢中になってしまった。
「よし。じゃあ、私から先に出るわ。……15分後に家を出てね」
彼女は磨き上げられた黒いパンプスを履きながら、ごく自然な口調でいつもの指示を出した。
だが。
「……雪」
俺は、重いドアノブに手をかけた彼女の背中を、静かに呼び止めた。
「何? 忘れ物?」
彼女が首を傾げ、怪訝そうに振り返る。
「いや。……なあ、もう一緒に家を出ないか」
「……え?」
彼女は目を丸くし、しばし呆然とした。
「一緒に、って……二人同時に? 同じ電車で?」
「ああ。……俺たち、もう夫婦なんだから」
俺の真っ直ぐな言葉に、彼女は少しだけ言葉に詰まり、視線を足元へと落とした。
「そ、それはそうだけど……。でも、駅まで一緒に歩いたら……会社に着いた時、上手くスイッチを入れられないかもしれないじゃない」
彼女は早口で、言い訳をするように小さな声で言った。
「会社の中で馴れ合うつもりはないよ。……でも、家から駅までの数分間くらい、ただの夫婦として並んで歩いたって、バチは当たらないだろ?」
「……」
「俺は、雪と一緒に歩きたいんだ。……駄目か?」
俺が一歩近づき、少しだけ声を低くして尋ねると、彼女の白い頬がみるみるうちに赤く染まっていった。
完璧なメイクの下からでもハッキリと分かるほどの、見事な照れ顔だ。
彼女は赤い口元を手で覆い、俺から視線を逸らした。
「……ずるい。そういう言い方、反則よ」
「駄目か?」
「……駄目とは、言ってないわ」
彼女はフイッと顔を完全に背けた。
「……一緒に、出てもいいわよ。……夫婦、なんだから」
その震えるような小さな声に、俺の胸の奥がキュッと締め付けられるような甘い嬉しさで満たされた。
俺は「ありがとう」と微笑み、彼女の横に並んで、重い玄関のドアを開けた。
外に出た瞬間、夏の朝特有の、むせ返るような生温かい空気が全身を包み込んだ。
マンションのエントランスを抜け、駅へと向かう街路樹の並ぶ遊歩道を歩く。
蝉の鳴き声が、シャワーのように降り注いでいる。
並んで歩くのは、休日の公園や深夜のコンビニへ行く時くらいだった。こうして平日の朝、お互いが完全に仕事へ向かう服装で並んで歩くのは、初めてのことだ。
周囲には、駅へと急ぐ足早な通勤客の姿がちらほらと見える。
俺の隣を歩く彼女は、明らかに少し緊張しているのか、心なしか歩幅が小さく、視線がずっと下を向いたままだった。
夏の日差しを避けるために差している黒い日傘が、彼女の表情をわずかに隠している。
「……あのさ、雪」
「……何?」
俺は歩きながら、少し勇気を出して、自分の右手を彼女の左手の方へと近づけた。
「もし嫌じゃなかったら、なんだけど」
「……?」
「……手、繋がないか」
俺の唐突な提案に、彼女はビクッと肩を大きく震わせた。
「て、手!? こんな、人がたくさんいるところで!?」
「誰が見ているわけでもないさ。それに、夫婦が手を繋いで歩くのは、ごく自然なことだろ」
「それは……そうだけど……。でも、こんな時間に手を繋ぐなんて、なんか……恥ずかしいじゃない」
彼女は耳の先まで真っ赤にして、モジモジと自分の革のバッグの持ち手を強く握りしめている。
その姿が、あまりにも愛おしくてたまらなかった。
「……じゃあ、こうしよう」
俺は彼女に一歩近づき、彼女が差している日傘の陰にすっと入った。
俺の大きな体が日傘の陰を作ることで、道路側からは二人の手元が完全に死角になる。
「これなら、誰からも見えないだろ」
俺が言うと、彼女は俺の顔と、周囲の通勤客の目をチラリと確認してから、小さく、覚悟を決めたように息を吐いた。
「……少しだけよ。……駅の近くになったら、離すからね」
そう言って、彼女は恐る恐る、自分の左手を俺の右手へと滑り込ませた。
日傘の陰に隠れた狭い空間の中で、俺の大きな手と、彼女の小さな手が、不器用に触れ合った。
「……っ」
エアコンの効いた部屋から出てきたばかりの彼女の指先は、ひどく冷たかった。
俺はその冷たい指先を優しく包み込み、そっと、しかし力強く握りしめた。
数秒後。彼女も、俺の指をギュッと握り返してくる。
その確かな力強さに、俺は自然と口角が上がるのを止められなかった。
「……温かいな」
「……ええ。なんだか、不思議な気分」
彼女は前を向いたまま、少しだけ声のトーンを落として呟いた。
「会社に向かってるのに、隣に貴方がいて、こうして手が繋がってる。……今まで、一人で戦場に向かうみたいな張り詰めた気持ちで歩いてた道なのに、今日は全然、怖くないわ」
その言葉は、俺の胸の最も深いところに真っ直ぐに突き刺さった。
彼女はずっと、この街で、たった一人で孤独に戦ってきたのだ。
弱みを見せず、完璧な自分を演じ続けることで、自分自身を守ってきた。
だが今は、俺がいる。
その事実が、少しでも彼女の背負う重荷を軽くできているのなら、これ以上嬉しいことはない。
「……俺はいつでも、雪の隣にいるよ。……家でも、会社でもな」
「……知ってるわ。だから、こうして手を繋いでるんでしょ」
彼女は少しだけ照れくさそうに笑い、日傘の陰で、さらに強く指を絡めてきた。
繋いだ手から伝わる熱が、少しずつ、じんわりと上がっていくのを感じる。
夏の朝の眩しい日差しと、喧しい蝉時雨の中。
俺たちは日傘の死角でしっかりと手を繋ぎ、駅へと向かうアスファルトの道を歩いた。
すれ違う人々は、俺たちが夫婦であることも、手を繋いでいることも決して気づかないだろう。
ただの、少し体格差のある男女の会社員。
だが、この数分間の「秘密の繋がり」が、俺たちの一日をどれほど豊かなものにしてくれるか、他の誰にも分かるまい。
やがて、駅のロータリーが見えてきた。
多くの通勤客が、足早に吸い込まれていく巨大な改札口。
あそこを越えれば、俺たちは再び「上司と部下」の仮面を被らなければならない。
「……駅だわ」
彼女が小さく呟いた。
「……そうだな」
「……離すわよ」
「……ああ」
彼女の手が、名残惜しそうに、ゆっくりと俺の手から抜け出していく。
指先が離れる瞬間の、わずかな喪失感。
彼女は立ち止まり、俺に向き直った。
その表情は、すでに「氷の女帝」のスイッチが入りかけている、冷徹で凛としたものだった。
「……じゃあ、会社で。橋本主任補佐」
鋭く、透き通った声。
だが、分厚いメガネの奥の瞳には、さっきまで手を繋いでいた時の柔らかな光と熱が、確かに残っていた。
俺は背筋を伸ばし、深く、実直な部下として頭を下げた。
「はい。……今日も一日、よろしくお願いします。李雪課長」
彼女は微かに、ほんの数ミリだけ口角を上げ、カツカツと硬質なヒールの音を響かせて、人混みの中へと歩き出した。
その完璧な背中を見送りながら、俺は自分の右手を軽く握りしめた。
掌にはまだ、彼女の指の感触と、冷たかった指先が温まっていった確かな熱が残っている。
時差出勤の終わり。
それは、俺たちが「秘密の共犯者」という殻を完全に破り、本当の意味での「夫婦」として、また新しい一歩を踏み出した証だった。
俺は大きく夏の熱気を吸い込み、彼女の後を追って、駅の構内へと足を踏み入れた。
今日の仕事は、どんな理不尽なトラブルが起きても、いつもよりずっと頑張れそうな気がしていた。




