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深夜のコンビニで「死にそうな美女」に豚汁を奢ったら、翌日会社で鬼上司がチラチラ見てくる件  作者: 伊達ジン
第4章 公私混同の同棲生活

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第52話 新入社員は勘違いする

 新緑の爽やかな香りが、ビル群を吹き抜ける風に混じる初夏。

 四月に入社した新入社員たちが、各部署への配属を終えてから一ヶ月が経とうとしていた。

 我が営業二課にも、一人のフレッシュな新人が配属されている。


「……佐々木さん。この議事録、要点が全くまとまっていないわ。ただの発言録ならAIの文字起こしツールで十分よ。私たちの『営業』としての付加価値は、どこにあるの?」


 フロアの中央で、薄氷を叩き割るような冷ややかな声が響き渡った。

 声の主は、「氷の女帝」こと俺の最愛の妻、雪だ。

 そして、その威圧感の前でウサギのように縮こまっているのが、新入社員の佐々木結衣だ。

 彼女は真面目で一生懸命な性格だが、いかんせん雪の放つ圧倒的なプレッシャーと完璧主義の前に、萎縮して本来の力を全く出せずにいるようだった。


「す、申し訳ありません……! すぐに修正いたします……っ」


 佐々木は涙目になりながら、バインダーを胸に抱きしめて自席へと戻ろうとした。

 だが、パニックになっている彼女のヒールがデスクのマットに引っかかり、バランスを崩す。


「あっ……!」


 ドサッ、という派手な音と共に、彼女が抱えていた書類がフロアに散乱した。

 さらに萎縮して、「すみません、すみません」と震える手で慌てて拾い集めようとする佐々木。

 俺は、見かねて自分のパイプ椅子から立ち上がった。


「大丈夫か、佐々木」


 俺は彼女の横にしゃがみ込み、散らばった書類を素早く、そして順番通りに拾い集めた。


「あ、橋本先輩……すみません、私どんくさくて……」

「気にするな。誰でも最初は失敗する。……議事録のまとめ方、後で俺が作ったテンプレートと書き方のコツを教えてやるから、それを参考にするといい」


 俺が低く穏やかな声で言うと、佐々木はパァッと顔を輝かせた。


「ほ、本当ですか!? ありがとうございます、橋本先輩!」


 俺は巨体を揺らして立ち上がり、書類の束を彼女に渡した。

 俺の普段の「冴えない社畜」の擬態も、右も左も分からない新人から見れば、「優しくて頼りになる大きな先輩」として映るらしい。

 佐々木は、俺の広い肩幅と分厚い胸板を、少し熱っぽい尊敬の視線で見上げている。


 その時。

 俺の背中に、物理的な冷気を伴う、鋭利な刃物のような視線が突き刺さった。


「……橋本主任補佐。新人のフォローも結構だけど、貴方自身の仕事は終わっているのかしら?」


 振り返ると、雪が腕を組み、絶対零度の眼差しでこちらを睨んでいた。

 声のトーンはいつも通り冷徹だ。彼女の「職場にプライベートを持ち込まない」という美学は、結婚した今でも完璧に貫かれている。

 表向きは完全に「厳しい上司からの業務確認」だ。だが、毎晩彼女の作る少し不器用な表情を見ている俺には、その完璧なポーカーフェイスの奥で、無自覚な独占欲が静かに渦巻いているのが分かった。


「はい。先方のチェック待ちの状態です」

「……そう。なら、佐々木さんの指導、しっかり頼んだわよ」


 雪はフンと小さく鼻を鳴らし、カツカツとヒールを鳴らして自席へと戻っていった。

 俺は心の中で小さく息を吐きながら、佐々木を自席へ促した。


★★★★★★★★★★★


 昼休み。

 俺が社内カフェの端の席で一人、冷たいブラックコーヒーを飲んでいると、佐々木が小走りで近づいてきた。


「橋本先輩。お疲れ様です。ここ、よろしいですか?」

「ああ、構わないよ。座りな」


 彼女は向かいの席に座ると、少し頬を染めて俺を見た。


「あの、午前中はありがとうございました。私、李雪課長が怖くて……いつも頭が真っ白になってしまうんです。でも、先輩のように優しく論理的に教えていただけると、私としてはすごく安心すると言いますか……」


 佐々木は上目遣いで俺を見つめてくる。

 入社したての新人特有の、純粋な憧れと、少しの好意。

 配属されてまだ一ヶ月の彼女は、目の前の慣れない仕事と、直属の上司である雪のプレッシャーにいっぱいいっぱいで、社内の人間関係やゴシップを把握する余裕が全くないのだろう。

 俺と雪が夫婦であるという、社内公認の事実すら、彼女の耳には入っていないのだ。


「俺はただのサポート役だからな。それに、課長の言うことは厳しいが理にかなってる。……おっ」


 俺がやんわりと躱そうとした、その時だった。

 カフェの入り口から、見慣れたシルエットが現れた。

 雪だ。

 彼女は食後のコーヒーを買いに来たようだが、俺と佐々木が向かい合って座っているのを見つけると、その足取りがピタリと止まった。

 そして、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。


 一歩近づくごとに、カフェの室温が急激に下がっていく錯覚に陥る。

 彼女は俺たちのテーブルの横で立ち止まった。


「……お疲れ様です、課長!」


 佐々木が弾かれたように立ち上がり、直立不動になる。

 雪は佐々木を一瞥し、それから俺を見た。

 嫌味の一つも言うかと思いきや、彼女は一切の私情を挟まず、極めてビジネスライクな口調で口を開いた。


「橋本主任補佐。午後の会議資料ですが、三ページ目のデータに最新の数値を反映させておいてください。佐々木さんも、議事録の修正が終わったらすぐに提出を。時間は有限よ」

「は、はいっ! 今すぐ戻ってやります!」


 佐々木は脱兎のごとくカフェから逃げ出していった。

 残された俺と雪。

 彼女は俺を見下ろし、冷ややかな表情を一切崩さずに、静かに告げた。


「……午後の会議、頼んだわよ。橋本主任補佐」


 彼女はそれだけ言い残し、颯爽と去っていった。

 見事なまでの「氷の女帝」としての完璧な振る舞い。職場では決して隙を見せず、嫉妬やマウンティングのような浅ましい真似はしないという、彼女のストイックな美学は微塵も揺らいでいなかった。

 だが、その張り詰めた背中を見送る俺には、家に帰った後の彼女の反応が手に取るように予想できた。


★★★★★★★★★★★


 その頃、フロアに逃げ帰った佐々木を、先輩の石井ミチルが給湯室に素早く引っ張り込んでいた。


「佐々木ちゃん。アンタ、もしかして橋本センパイのこと狙ってる?」

「えっ!? そ、そんな大それたこと……でも、すごく頼りがいがあって、素敵な方だなって……」

「やめときな。っていうか、アンタ知らないの?」


 ミチルは呆れたように深いため息をつき、佐々木の肩をポンと叩いた。


「知らないって、何をですか?」

「橋本センパイ、既婚者よ。しかも、奥さんは……さっきアンタを震え上がらせた、あの李雪課長」

「え……? えええええっ!?」


 佐々木の驚愕の叫びが、給湯室からフロアの端まで響き渡った。


★★★★★★★★★★★


 夜。

 俺がマンションに帰宅すると、玄関で愛犬のレオが尻尾を千切れんばかりに振って出迎えてくれた。

 1歳を過ぎたレオは、すっかり成犬の骨格になり、ジャンプ力も増している。


「ただいま、レオ。お留守番偉かったな」


 俺が丸い頭を撫でてやると、リビングのソファのほうから「ふんっ」と不満げに鼻を鳴らす音が聞こえた。

 えんじ色の限界芋ジャージに着替えた雪が、クッションを抱きしめて不機嫌そうに座っている。

 会社での完璧な振る舞いの反動が、今、安全な自宅で全力で押し寄せているらしい。


「ただいま、雪」

「……おかえりなさい。若い子とのランチは楽しかった?」


 やはり、完全に根に持っている。

 俺は苦笑しながら、手提げ袋をローテーブルに置いた。

 会社での「冴えない部下」の仮面を外し、夫としての自然なタメ口で優しく宥める。


「だから、ただの仕事の相談に乗ってただけだろ。……機嫌を直してくれ。約束通り、最高の晩酌の用意があるから」


 俺はキッチンに立ち、買ってきた袋からいくつかのアイテムを取り出した。

 一つは、スナック菓子の定番『ベビースターラーメン』。

 だが、普通のものではない。少し太麺で、ピリッとした辛さとガーリックが効いた『おとなのベビースターラーメン』だ。

 ピーナッツも混ざっており、完全におつまみ仕様のジャンクフードである。


「……スナック菓子? 今日は手料理じゃないの?」


 雪が怪訝そうな顔をする。


「ジャンクなスナックには、手料理には出せない『背徳感』があるからな。それに、今日はこれに合わせる『主役』が強いんだ」


 俺は冷蔵庫から、よく冷えた白ワインのボトルを取り出した。

 フランス・ブルゴーニュ産のシャルドネ。果実味とミネラル感が豊かな、上質な一本だ。

 そしてもう一つ。食器棚の奥から、大切に保管していたウイスキーのボトルを取り出す。


「……それは?」

「以前、山梨の白州蒸溜所に行った時に買ってきた、限定の『シングルカスク・モルトウイスキー』だ。一つの樽からしか瓶詰めされていない、希少な原酒だよ」


 雪の分厚いメガネの奥の目が、少しだけ輝きを取り戻す。


「ベビースターに、ブルゴーニュの白と、白州のシングルカスク……? 相変わらず、変態的な組み合わせね」

「マエストロの真骨頂さ。チープなスナックと高級な酒。この強烈なギャップが、脳のバグを引き起こすんだ」


 俺はワイングラスに白ワインを、そしてロックグラスにウイスキーをストレートで注ぎ、テーブルに並べた。

 おとなのベビースターは、食べやすいようにガラスの小鉢に盛り付ける。


「さあ、食べてみてくれ」

「……いただきます」


 彼女はまず、ベビースターを数本つまみ、口に放り込んだ。

 ポリポリという軽快な音。

 スパイシーなチキンの旨味と、ガーリックのパンチが口の中に広がる。

 そこに、ブルゴーニュの白ワインを流し込む。


「……あ」


 雪が小さく声を漏らした。


「……嘘。ワインの酸味が、スナックの油っこさを一瞬で洗い流して……最後に残るミネラル感が、チキンの旨味を強調してる。……なにこれ、止まらないわ」

「だろ。次に、もう一度ベビースターを食べてから、今度は白州をほんの少し舐めてみてくれ」


 彼女は言われた通りにスナックを齧り、シングルカスクのウイスキーに口をつけた。

 度数の高い原酒のアルコールが、喉をカッと熱くする。

 だが、その直後。


「……んんっ!!」


 彼女は目を丸くして、口元を手で覆った。


「スモーキーな香りが……ベビースターの香ばしさと完全に同調してる! 樽のウッディな香りと、ジャンクな醤油の焦げた匂いが、口の中で爆発するみたい……!」

「完璧なマリアージュだ。チープなスナックが、一気に高級なスモークチキンに化ける魔法さ」


 彼女は夢中でポリポリとスナックをつまみ、ワインとウイスキーを交互に味わい始めた。

 アルコールが回り、彼女の白い頬が桜色に染まっていく。

 さっきまでの不機嫌さは、見事にアルコールの波に溶けて消え去っていた。


「……美味しい。悔しいけど、本当に美味しいわ」


 彼女はウイスキーのグラスを傾けながら、ふっと息を吐いた。


「……私、今日、ちょっと大人げなかったわね」

「佐々木のことか?」

「ええ。会社では絶対に私情を挟まないって決めてるのに……あの子が貴方をキラキラした目で見てるのを見たら、なんだか無性に腹が立って」


 彼女はグラスの氷を指で揺らしながら、少しだけ俯いた。


「会社では、私が貴方の上司で、完璧な女帝でいなきゃいけない。だから、嫉妬なんて表に出せない。……でも」


 彼女は俺の隣にすり寄り、俺の腕にギュッと抱きついてきた。


「……家に帰ったら、私はただの貴方の妻なんだから。少しは独占欲出したって、いいでしょ?」


 その言葉と、見上げてくる潤んだ瞳に、俺の胸の奥がキュッと締め付けられた。

 会社では誰よりもストイックに完璧を貫く「氷の女帝」が、俺の前でだけ見せるこの不器用な甘えと独占欲。


「……もちろんだ。いくらでも出してくれ」


 俺は彼女の小さな肩をそっと抱き寄せた。


「俺の包容力も、料理の腕も、全部雪だけのものだ。……他の誰かに振る舞うつもりは、一切ないよ」


 俺が耳元で囁くと、彼女はビクッと肩を震わせ、それから俺の胸に顔を埋めてきた。

 シャンプーの甘い香りと、ほんのり漂う上質なアルコールの匂い。


「……当たり前よ。貴方は、私の大切な『旦那様』なんだから」


 彼女は俺のシャツの裾を握りしめ、上目遣いで俺を睨んだ。


「明日からは、あの指輪、もっと目立つようにしなさいよ」

「……はいはい。肝に銘じておくよ」


 俺は微笑んで、愛おしい妻の頭を優しく撫でた。

 足元では、レオが「僕にはおつまみはないのか」と不満そうに鼻を鳴らしている。

 

 新入社員の登場という小さな波風は、こうして甘いアルコールの海へと沈んでいった。

 ジャンクなスナックと高級な酒が織りなす、背徳的で複雑な味わい。

 それはまるで、俺たち夫婦の、不器用で愛おしい日常そのもののようだった。

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