第51話 新婚の朝と焦げた卵焼き
木々の緑が深みを増し、夏の気配が肌に感じられるようになった頃。
俺の朝は、いつものように小さな家族の「モーニングコール」で始まった。
「……ん。おはよう、レオ」
顔中を湿った舌でペロペロと舐められ、俺は重い瞼を開けた。
視界の先には、短い尻尾をプロペラのように振る豆柴・レオの姿がある。
1歳を過ぎた彼は、骨格もすっかりしっかりして成犬の顔立ちになったが、甘えん坊なところは子犬の頃から全く変わっていない。
「よしよし。……ん?」
レオの頭を撫でながら、俺は隣のスペースが空になっていることに気づいた。
シーツにはまだ微かな温もりが残っているが、妻である雪の姿はない。
休日の朝、極度の低血圧である彼女は、いつも俺が朝食の準備を終えるまでベッドで丸まっているのが日常だというのに。
不思議に思って体を起こすと、リビングの奥からトントンと包丁がまな板を叩く、少し不器用な音が聞こえてきた。
「……また、何か企んでるな」
俺はベッドから抜け出し、リビングへと向かった。
キッチンでは、新婚の記念に二人で買った色違いのシンプルなエプロンを身につけた彼女が、真剣な顔でコンロの前に立っていた。
髪は無造作なお団子ヘア。すっぴんに黒縁メガネという完全なオフモードだ。
「おはよう、一郎。もうすぐ朝ごはんができるわよ」
俺の気配に気づいた彼女は、少し得意げに振り返った。
冬の朝、俺に内緒でお弁当を作ろうとしてキッチンを大惨事にしたあの頃に比べれば、随分と余裕がある。
まな板の上には、歪な形ながらもちゃんと切られた厚切りのハムと、食パンが用意されている。
「おはよう。……今日は随分と手際がいいな」
「ふふん。あの時のお弁当やオムライスの特訓から、少しは成長したのよ。レシピ動画もちゃんと見てイメトレしたしね。……あとは、この目玉焼きを半熟のまま綺麗にお皿に移して――あっ!」
彼女がフライ返しを不器用に動かした瞬間。
そっと掬い上げようとしたフライ返しがフライパンの縁に引っかかり、絶妙な半熟に仕上がっていた黄身が、無残にもぐちゃりと崩れてしまった。
あふれ出した黄身が、熱いフライパンの上でチリチリと音を立てて固まっていく。
「あっ、こ、焦げちゃう……! 嘘でしょ……えいっ!」
焦った彼女がなんとか皿に移そうとするが、卵はさらに悲惨な形へと姿を変えた。
「……火、止めるぞ」
俺は彼女の背後からスッと手を伸ばし、コンロの火を落とした。
フライパンの中には、黄身が完全に割れ、白身が破れた無残な目玉焼きが横たわっていた。
「……あーあ。せっかく半熟に焼けたのに、台無しよ」
彼女はフライ返しを持ったまま、ガックリと肩を落とした。
「……どうしたんだ、突然。休日の朝食なんて俺が作るのに」
俺が自然なタメ口で尋ねると、彼女は少しだけ俯いて顔を赤らめた。
「……だって、私たち、結婚したじゃない」
「ああ」
「新婚生活が始まったのに、毎日毎日、貴方にばかりご飯を作らせて……私、これでも一応『妻』なんだから、休日の朝ごはんくらい作ってあげようと思ったのよ。……お弁当の時よりは、マシになったと思ったのに」
彼女は唇を尖らせて、拗ねたように言った。
会社では部下を震え上がらせる「氷の女帝」が、俺のために早起きして、慣れない料理にリベンジしてくれていた。
その事実だけで、俺の胸の奥は甘いものでいっぱいになった。
「ありがとう。その気持ちだけで、今日一日頑張れるよ」
俺は彼女の頭を軽くポンと叩き、俺自身のエプロンの紐を締めた。
「それに、台無しじゃないさ。マエストロの魔法にかかれば、この崩れた卵も極上の朝食に生まれ変わる。……少し手伝ってくれるか?」
「え? うん、分かったわ」
俺の提案に、彼女はパッと顔を輝かせた。
「では、今日はお洒落なフランスのカフェメニュー、『クロックマダム』を作ろう」
俺は冷蔵庫から牛乳とバター、そして小麦粉を取り出した。
クロックマダムの決め手は、なんといっても濃厚なベシャメルソースだ。
小鍋にバターを溶かし、小麦粉を加えて焦がさないように炒める。そこに冷たい牛乳を少しずつ加えながら、ダマにならないようにホイッパーで素早くかき混ぜていく。
「……すごい。あっという間にとろみがついたわ」
「塩と白胡椒、それにナツメグを少し振って香りをつけよう。……これでソースは完成だ」
次に、食パンの準備だ。
パンの片面に粒マスタードを薄く塗り、その上に彼女が切ってくれたハムと、スライスチーズを乗せる。もう一枚のパンで挟み、その上から先ほど作った熱々のベシャメルソースをたっぷりと塗り広げる。
さらに、追い打ちをかけるようにピザ用チーズを乗せ、トースターへ。
「表面のチーズがこんがりと色づくまで焼く。……そして、最後にあの卵の出番だ」
数分後。
チーン、という音と共に、香ばしいチーズとバターの香りがキッチンに溢れた。
皿に取り出した熱々のホットサンド。その上に、彼女が焼いた「崩れた目玉焼き」をそっと乗せる。
パセリを散らせば、崩れた黄身すらもソースの一部として美しく調和した、立派なクロックマダムの完成だ。
「完成だ。……さあ、冷めないうちに」
ダイニングテーブルに向かい合って座る。
ペアリングには、淹れたてのブラックコーヒーと、フレッシュなオレンジジュースを用意した。
「いただきます」
彼女はナイフとフォークを持ち、目玉焼きの黄身をさらに崩すようにして、パンを切り分けた。
とろりとした卵黄と、濃厚なベシャメルソース、そして溶けたチーズが絡み合う。
「……んんっ!」
一口食べた彼女の目が、驚きに大きく見開かれた。
「美味しい……! ソースがすごくクリーミーで、マスタードの酸味が絶妙なアクセントになってる! 私が失敗して崩しちゃった黄身も、ソースと絡んで逆にまろやかになってるわ!」
「だろ? 失敗も、アレンジ次第で最高のスパイスになるからな」
俺も自分の分を頬張る。
濃厚なチーズのコクを、オレンジジュースの酸味が爽やかに洗い流してくれる。
足元ではレオが「僕にはないのか」と鼻を鳴らしているが、この高カロリーな朝食は犬には厳禁だ。
「……ふふ。やっぱり、私は料理には向いてないみたいね」
彼女は嬉しそうにコーヒーを啜りながら、俺を見た。
「でも、私が失敗しても、貴方がこうして『美味しい魔法』をかけてくれる。……だから、これからも安心して失敗できるわね」
「……ほどほどに頼むぞ。火事にならない程度にな」
俺が苦笑して返すと、彼女は悪戯っぽく笑って、俺の膝をテーブルの下で軽く蹴った。
新婚生活の朝。
それは、焦がしたバターの匂いと、甘いコーヒーの香りに包まれた、騒がしくも幸せな時間だった。
★★★★★★★★★★★
その日の昼下がり。
俺は一人、待ち合わせ場所である駅前の繁華街に立っていた。
初夏の日差しが照りつける中、人混みを縫って現れたのは、タンクトップにダメージジーンズという、相変わらず露出度高めのラフな格好をした女性だ。
「おーい! 橋本先輩!」
大きく手を振って駆け寄ってきたのは、物流管理部の「暴れ馬」こと前田奈緒美だ。
彼女は俺の顔を見るなり、ニシシと笑って俺の肩をバシッと叩いた。
「お待たせっす! いやー、新婚ホヤホヤの旦那様を休日に連れ出しちゃって、鉄仮面……じゃなくて李雪課長に殺されないっすかね、私?」
「許可は取ってきたよ。『変な虫がつかないように見張ってて』とさ」
俺が答えると、前田は「こえーっ!」と首をすくめた。
今日、彼女と会っている理由は他でもない。
俺と雪が結婚したという報告を聞きつけた前田が、「どうしても結婚祝いを奢らせろ!」と強引に昼飲みに誘ってきたからだ。
「ま、とりあえず行きましょう! 昼から飲める最高の大衆酒場、予約しといたんで!」
前田に連れられて入ったのは、赤提灯が似合う昔ながらの居酒屋だった。
まだ外は明るいというのに、店内はすでに多くの客で賑わい、モツ煮込みの匂いとタバコの煙が充満している。
「とりあえず、生二つ! あと、唐揚げとモツ煮、それからポテサラ!」
前田は席に着くなり、店員に豪快に注文を飛ばした。
すぐに運ばれてきたジョッキを高く掲げる。
「先輩! 改めて、ご結婚おめでとうございます! カンパーイ!」
「ありがとう。乾杯」
冷えたビールを喉に流し込む。
雪と飲む静かなワインやコーヒーも良いが、こういう気取らない場所で前田と煽るビールも悪くない。
前田はジョッキを半分ほど一気に空けると、「ぷはーっ!」と親父くさい息を吐いた。
「いやー、でもホントびっくりしたっすよ。まさかあの二人がくっついて、本当に結婚までしちゃうなんて。私が色々とアリバイ工作で協力して、防波堤になった甲斐がありましたね!」
「お前が色々と裏で動いてくれたおかげで、助かったよ。改めて感謝してる」
俺がジト目で睨みつつも礼を言うと、前田は「てへっ」と舌を出した。
「結果オーライじゃないっすか! コソコソ隠れてるより、堂々としてる方が先輩たちらしいっすよ。……で、どうなんすか? 新婚生活は。あの鬼課長、家ではデレデレなんすか?」
前田は唐揚げにマヨネーズをたっぷりとつけながら、興味津々の目で聞いてくる。
「……まあ、それなりに。今朝も、俺のために朝食を作ろうとして、目玉焼きを崩して落ち込んでたよ」
「うっわ、尊い! あの完全無欠の李雪課長が、先輩のためにエプロン姿で失敗とか! ギャップ萌えの極みじゃないっすか!」
前田は身悶えするように笑った。
そして、急に少しだけ遠い目になり、ジョッキの残りを飲み干した。
「……いいなぁ。私も、先輩みたいに私の胃袋をガッツリ掴んでくれて、ドジしても笑って許してくれるような旦那、欲しいっすよ」
「お前はまず、その休日の昼からストロング缶を煽る生活をどうにかしろ。あと、何もないところで転ぶ癖もな」
「うるさいっすねー! それが私のアイデンティティなんすから!」
前田はケラケラと笑い、店員に「レモンサワー追加!」と声をかけた。
恋愛感情というよりは、完全に気のおけない戦友との飲み会だ。
彼女の裏表のない明るさは、仕事のプレッシャーや日々の小さな疲れを吹き飛ばしてくれる。
これもまた、俺にとって大切な「日常」の一部だった。
「……先輩」
少し酔いが回ってきたのか、前田が頬杖をついて俺を真っ直ぐに見た。
「李雪課長のこと、泣かせたら承知しないっすよ。……もし先輩が浮気でもしたら、私がフォークリフトで先輩の車、海に沈めますからね」
「物騒だな。……安心しろ。俺には、あの『迷い猫』一匹で手一杯だ」
俺が笑って答えると、前田は満足そうに頷き、「ごちそうさまでした!」と俺の分の唐揚げを横取りした。
★★★★★★★★★★★
夕方。
前田と別れた俺は、帰りの駅前のデパ地下で、少し高めのフルーツタルトを買って帰路についた。
昼間から酒を飲んできたことへの、ささやかな罪滅ぼしだ。
マンションのドアを開けると、リビングのソファで本を読んでいた雪が顔を上げた。
「……おかえりなさい。随分と楽しかったみたいね」
彼女は鼻をひくつかせ、俺の服に染み付いた居酒屋の匂いを嗅ぎ取ったようだ。
その声には、ほんの少しだけ拗ねたような響きがある。
「ただいま。……前田が、結婚祝いにって奢ってくれたんだ。雪にもよろしくって言ってたぞ」
俺は買ってきたケーキの箱をテーブルに置いた。
「お詫びに、ケーキ買ってきたよ。一緒に食べないか?」
その箱を見た瞬間、雪の機嫌は急上昇した。
本をパタンと閉じ、目を輝かせてテーブルに近づいてくる。
「……フルーツタルト。私の好きなやつ」
「だろ? 紅茶、淹れるな」
俺がキッチンに向かおうとすると、彼女が俺の背中にそっと抱きついてきた。
居酒屋の匂いの上から、彼女の甘い香水の匂いが重なる。
「……前田さんなら、まあ許してあげるわ。……でも、明日の朝は、また私に朝食を作らせてね」
俺の背中に顔を埋めたまま、彼女が小さな声で言った。
懲りていないらしい。
だが、それが嬉しい。
「分かった。……明日は、火を使わないメニューから始めようか」
「……馬鹿にしないでよ」
俺たちは笑い合い、穏やかな夕暮れの時間を迎えた。
深夜のコンビニから始まった秘密の共犯関係は、今や堂々とした「夫婦の食卓」へと形を変えた。
これからも、彼女の胃袋と心を俺が満たし続ける。
その確かな約束を胸に、俺は甘いタルトを切り分けた。




