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深夜のコンビニで「死にそうな美女」に豚汁を奢ったら、翌日会社で鬼上司がチラチラ見てくる件  作者: 伊達ジン
第4章 公私混同の同棲生活

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第50話 エピローグ

 冬の厳しい寒さがすっかり鳴りを潜め、街路樹の鮮やかな緑が初夏の心地よい風に揺れるようになった、ある日の朝。

 俺は、陽光がたっぷりと差し込むピカピカのシステムキッチンに立ち、軽快なリズムで厚切りのベーコンを焼いていた。

 ジューッという小気味良い音と、燻製の香ばしい匂いが広いリビングに広がっていく。


「……ん、んん〜……」


 背後から、スリッパを擦るパタパタという頼りない足音が聞こえてくる。

 振り返ると、そこには目を半分閉じたまま、髪を無造作なボサボサのお団子にした彼女が立っていた。

 大きめのTシャツにショートパンツという限界オフモードの彼女は、俺の広い背中にフラフラと近づいてくると、そのままコテン、と額を押し付けてきた。


「おはよう。……今日も見事なポンコツっぷりだな、我が妻よ」

「……おはよう、一郎。……ベーコンの良い匂いで目が覚めたわ」


 寝起きの彼女の声は、会社で部下を震え上がらせる「氷の女帝」からは想像もつかないほど甘く、とろけていて、そして完全に無防備だ。

 足元では、すっかり成犬に近い体つきになった豆柴のレオが、「パパ、僕にもベーコンをくれ」とばかりに完璧なお座りをして、短い尻尾をプロペラのようにブンブンと振っている。


 あの冬の深夜、コンビニのイートインスペースでのプロポーズから数ヶ月。

 俺たちは春の訪れと共に婚姻届を提出し、晴れて正式に「夫婦」となった。

 彼女のタワーマンションでの同棲生活は、今や完全に「橋本家の日常」として定着し、かつて殺風景なモデルルームだったこの部屋は、俺のスパイスの小瓶とレオのおもちゃで溢れる、温かな「生活の城」へと見事な変貌を遂げていた。


「ほら、顔を洗っておいで。今日の朝食は、完璧なフレンチ・オムレツと、冷製ヴィシソワーズだ。それと、今夜俺はフェルナンダからの結婚祝いの食事で遅くなるから、夕食の『至高の煮込みハンバーグ』も、もう冷蔵庫に仕込んでおいたぞ。レンジで温めるだけで食べられるようにしてあるからな」

「……ん。一郎のご飯、毎日朝から夜まで食べられるなんて……本当に私、前世でどれだけ徳を積んだのかしら……」


 彼女は俺の背中から離れ、フラフラと覚束ない足取りで洗面所へと向かっていった。

 その左手の薬指には、俺が贈ったあのシンプルなプラチナの結婚指輪が、朝の光を受けてキラリと美しく輝いていた。

 俺の左手にも、全く同じデザインの指輪がはめられている。

 それが、今の俺たちの確かな「永遠の絆」の証だった。


★★★★★★★★★★★


 午前10時。商社のオフィスビル、営業二課のフロア。

 会社での俺たちは、結婚した今でも相変わらず「冷徹で完璧な上司」と「冴えない図体ばかりの部下」の仮面を被り続けている。

 俺たちの結婚は、当然ながら社内にも正式に報告済みだ。

 発表された日、社内は「あの絶対零度の氷の女帝が、よりによってあの冴えない橋本と!?」という特大の激震に見舞われ、一課の山下課長に至っては「私のドラえもんが完全に奪われた!」と本気で悔しがっていた。


 だが、李雪課長は「職場にプライベートを持ち込むのは私の美学に反するわ」という確固たる理由で、仕事中は一切の妥協を許さない女帝モードを完璧に貫いている。


「橋本主任補佐。このA社の来期見積もりデータ、利益率の計算式に明白な矛盾があります。何度言えば分かるんですか。午後イチの会議までに全て修正して再提出しなさい」


 李雪課長は、絶対零度の冷ややかな声で、分厚いファイルの束を俺のデスクにバサッと叩きつけた。

 かつてなら周囲の社員が俺に同情の視線を向けていた場面だが、俺たちが夫婦であることが周知の事実となった今、フロアの空気は全く違っていた。


 「出たよ、名物の夫婦漫才」「家じゃあんなにデレデレらしいのに、会社では容赦ないプロ意識だよな……」「橋本さん、完全に尻に敷かれてるなぁ」と、周囲の社員たちは生温かく、そしてどこか微笑ましい視線で俺たちを見守っている。


「……申し訳ありません、李雪課長。直ちに修正いたします」


 俺は野暮ったい黒縁メガネを押し上げ、深く、気弱そうに頭を下げてファイルを受け取る。

 その一瞬。

 彼女の白くて細い指先が、俺の手の甲を、ツン、と周囲の誰にも見えない死角で悪戯っぽく撫でた。

 顔を上げると、彼女は冷たい無表情を一切崩さないまま、しかし分厚いメガネの奥の瞳だけで『今夜のフェルナンダとの食事、あまり飲みすぎないで早く帰ってきなさいよ』という強烈な念を送ってきているのが分かった。

 俺は『了解した』と目で返し、黙々とデスクに向かった。


「……ふふっ。相変わらず、高度なプレイしてますねぇ、センパイ」


 隣の席の石井ミチルが、パソコンのモニターの陰に隠れながらニヤニヤと笑いかけてきた。

 彼女は、李雪課長の「家での限界デレっぷり」という『裏の素顔』を推理で完全に看破した数少ない「観客」として、この日常の茶番劇を一番楽しんでいる節がある。


「変なプレイって言うな。俺はいつでも真剣に怒られてるんだ」

「はいはい。ごちそうさまですぅ。……あーあ、私も早く、深夜のコンビニで超絶イケメンの旦那様を捕まえたいなぁ!」

「……お前も人の詮索ばかりしてないで、早くいい人見つけろよ」


 俺が大人の余裕で微笑んで言うと、ミチルは「むきーっ! 既婚者の余裕の貫禄! ムカつく!」と悔しそうにキーボードをターンッ! と乱暴に叩き始めた。

 相変わらず騒がしくも、平和な戦場だ。


★★★★★★★★★★★


 その日の午後。

 俺は、物流管理部との合同ミーティングの後、会社近くのブラジル料理店にいた。

 目の前には、サウス・ロジスティクスの担当者であり、燃えるような赤い髪を持つラテン美女、フェルナンダ・ディアスが座っている。


「Cheers! Osoの結婚に乾杯ネ!」


 フェルナンダは、巨大なジョッキに入ったカイピリーニャを高く掲げた。

 俺もウーロン茶のグラスを合わせる。


「……フェルナンダ。わざわざ仕事終わりに呼び出して、こんなご馳走まで。悪いな」

「何言ってるの! 私の最愛の『Oso(熊)』が、あの『氷の女帝』に取られちゃったんだから、これくらい当然よ!」


 彼女はふくれっ面をしてから、すぐに太陽のような笑顔を見せた。

 今日は彼女からの「結婚祝い」ということで、強引に連れ出されたのだ。

 名目上は「フェルナンダとの最後のデート」だと言う。もちろん、妻である李雪課長には事前に許可を取ってある。


「でも、本当に驚いたわ。まさかあの二人がくっつくなんてね。……私、ずっとOsoのこと狙ってたのに」

「冗談ばっかり。君にはもっと情熱的な男が似合うさ」


 俺が言うと、フェルナンダは肉の塊を豪快に切り分けながら、ふっと真面目な顔になった。


「……冗談じゃない時もあったわよ。貴方、大きくて、優しくて、料理も上手だし」


 彼女は少しだけ寂しそうに微笑んだ。


「でも、貴方の目はずっと、最初からLee-san(李さん)だけを見てた。……私が入る隙なんて、これっぽっちもなかったわ」

「……フェルナンダ」

「Oh! 湿っぽいのはナシよ! ラテンの女は引きずらないの!」


 彼女はパチンとウインクをして、俺の皿に大量の肉を乗せた。


「それに、Lee-sanなら仕方ないわ。あの人、不器用だけど、Osoのことを本当に大切に思ってるのが伝わってくるもの。……Oso」


 フェルナンダは、テーブル越しに俺の目を真っ直ぐに見据えた。


「彼女を泣かせたら、私がブラジルまで連れ去るからね。分かった?」

「……ああ。誓って、そんなことはしないよ。彼女は俺の、一生のオーナーだからな」

「Ahaha! 言うわね! さあ、どんどん食べて! 熊なんだから!」


 俺たちは豪快に肉を食らい、笑い合った。

 彼女なりの、最高に温かくて情熱的な、友人としての祝福の「デート」だった。


★★★★★★★★★★★


 夜21時。

 シュラスコの匂いを微かに漂わせながら帰宅すると、リビングのソファで彼女がレオを膝に乗せてテレビを見ていた。

 俺の顔を見るなり、彼女はジト目で俺を睨んだ。


「……随分と楽しそうだったわね。ラテンの美女との『デート』は」


 案の定、不機嫌モードだ。いくら許可を取っていたとはいえ、やはり少し面白くないらしい。


「ただの結婚祝いの食事だ。彼女から、雪を泣かせたらブラジルに連れ去るって脅されたよ」


 俺が苦笑しながら言うと、彼女は「ふんっ」とそっぽを向いた。


「……当たり前よ。貴方は私のものなんだから。……匂い、消してきて。シャワー」

「はいはい。その前に、夕飯はちゃんと食べたか?」


 俺が尋ねると、彼女はふわりと表情を和らげ、コクリと頷いた。


「ええ。朝作ってくれてた『至高の煮込みハンバーグ』、レンジで温めて食べたわ。赤味噌の風味が効いてて、すごく美味しかった。……一日中気を張ってた疲れが、全部溶けていったみたい」

「それは良かった。ちゃんと俺のコンシェルジュとしてのリスク管理が機能したな」


 俺が彼女の頭を優しく撫でると、彼女は「……ありがと」と小さな声で呟き、嬉しそうに目を細めた。

 どんな美女と食事をしてこようが、俺が一番見たい笑顔は、この不器用で食いしん坊な妻の笑顔だけだ。


 そして、時計の針が深夜0時を回った。

 世間はすっかり寝静まり、静寂が街を包み込む時間。


「……一郎」


 寝室から、着替えを終えた彼女が出てきた。

 彼女が着ているのは、ワインレッドの芋ジャージ。そして今日のTシャツの胸元には、達筆な筆文字で『比翼連理』とデカデカと書かれている。


 ……夫婦が深く愛し合い、離れがたく結ばれていることの例え。相変わらず、彼女のTシャツのチョイスは直球すぎて愛おしい。


 俺も同じく、着古したスウェットにパーカーという、いつもの深夜のスタイルだ。


「行くか」

「ええ」


 俺たちは玄関でスニーカーを突っかけ、自分のベッドで丸くなっているレオに「お留守番頼むぞ」と声をかけてマンションを出た。

 初夏の夜風が、心地よく頬を撫でる。

 俺たちの手は、夜の闇に紛れるように、ごく自然にしっかりと絡み合っていた。

 向かう先は、一つしかない。


 徒歩数分の距離にある、見慣れた看板の灯り。

 俺たちの全ての始まりである、深夜のコンビニエンスストア。


 自動ドアが開くと、「いらっしゃいませ」という聞き慣れたアンニュイな声が響いた。

 レジには、長谷川さんが立っている。

 彼女は手を繋いで入ってきた俺たちの姿を見ると、いつものように全てを見透かしたような、涼やかで美しい微笑みを浮かべた。


「こんばんは。マエストロ、黒猫さん。……いえ、今はもう、一つのご家族ですね」

「こんばんは、長谷川さん。……ええ、おかげさまで」


 俺たちが挨拶をすると、長谷川さんは目を細めて深く頷いた。


「お二人がこの時間に揃っていらっしゃるのを見ると、なんだか私も安心します。……当店はいつでも、お二人の極上のアンサンブルを歓迎いたしますよ」


 俺たちは長谷川さんに軽く会釈をして、チルドコーナーへと向かった。

 棚には、色とりどりのお弁当や新作スイーツが並んでいる。

 だが、今夜俺たちが選ぶものは、来る前からもう決まっていた。


「……今日は、何にする? オーナー」


 俺がタメ口で優しく尋ねると、彼女は棚を見つめながら、少しだけ考え込む素振りを見せた。

 そして、俺の顔を見上げて、悪戯っぽく、本当に幸せそうに笑った。


「そうね……。今日は、一番オーソドックスで、一番大切なやつがいいわ。あの日、私に本当の『優しさ』を教えてくれた、あれ」


 彼女の視線の先にあるのは、『具だくさん豚汁』と『塩むすび』。


「……了解した。俺の持てる全ての技術で、最高の状態に温めよう」


 俺が商品をカゴに入れると、彼女は嬉しそうに俺の太い腕にギュッと抱きついてきた。

 ジャージとスウェット姿のまま、身を寄せ合う二人。

 左手の薬指には、お揃いのプラチナリングが静かに光っている。

 完璧な上司も、冴えない部下も、ここにはいない。

 いるのはただ、美味しい夜食を分かち合う、不器用で愛おしい二人の人間だけだ。


 レジで会計を済ませ、アツアツに温めた豚汁と塩むすびを持って、俺たちはコンビニに併設された明るいイートインスペースの席に並んで座った。

 蓋を開けると、鰹と豚肉の優しい出汁の香りが、ふわりと立ち上る。


「……あの日、限界だった私に貴方がこれを渡してくれたから……今の私があるのよ」


 彼女は豚汁のカップを両手で包み込み、その温もりに目を細めながら、愛おしそうに呟いた。


「ねえ、一郎」

「ん?」

「明日も、明後日も。……お婆ちゃんになっても、私に最高の夜食を選んでね」


 彼女は俺の肩に、自分の小さな頭をコトンと預けてきた。

 シャンプーの甘い香りと、出汁の優しい匂いが混ざり合う。

 俺は彼女の肩を抱き寄せ、その真っ直ぐな願いに、心からの誓いで応えた。


「もちろんだ。……俺の命が続く限り、雪の胃袋と心は、俺が満たし続けるよ」


 窓ガラス越しに見る深夜の街は、静かに眠りについている。

 だが、この明るいコンビニの片隅だけは、世界で一番温かくて、美味しい空気に満ちていた。

 

 深夜のコンビニから始まった、名前も知らない共犯関係。

 それは今、かけがえのない「家族」へと形を変え、俺たちの人生を彩る最高のスパイスとなった。

 この騒がしくて、美味しくて、愛おしい日々は、きっとこれからも永遠に続いていくのだ。


 俺は隣で塩むすびを頬張る愛する妻の横顔を眺めながら、最高に満ち足りた思いで、温かい豚汁を一口すすった。



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