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深夜のコンビニで「死にそうな美女」に豚汁を奢ったら、翌日会社で鬼上司がチラチラ見てくる件  作者: 伊達ジン
第4章 公私混同の同棲生活

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第48話 マグカップの魔法

 重苦しい、鉛のような土曜日の朝だった。

 いつもなら、愛犬の豆柴・レオが「早く起きろ、遊べ」と顔をザラザラの舌で舐め回してくる時間だが、今朝のレオは俺の足元で、息を潜めるように小さく丸まっていた。

 犬は、群れの空気に極めて敏感だ。

 現在のこの部屋に充満している「冷戦状態」のヒリヒリとした重い空気を、彼なりに察知しているのだろう。


 昨夜、俺が帰宅した直後から始まった、李雪課長の突然の拒絶とすれ違い。

 彼女は今朝も、寝室のドアを固く閉ざしたまま、出てこようとはしない。

 朝食を作ってドア越しに声をかけたが、「……いらない。一人にしておいて」と、ひどく掠れた冷たい声であしらわれてしまった。


「……参ったな」


 俺は冷めきったトーストを齧りながら、深く、重いため息をついた。

 すれ違いの原因は、完全に分かっている。

 ここ最近の、俺の帰りの遅さや、スマホを隠すように見つめる「上の空」な態度。

 サプライズで婚約指輪を選ぶために裏で奔走していた俺の不自然な行動が、彼女の優秀すぎる論理的思考と結びついた結果、最悪の仮説を弾き出してしまったのだ。


 浮気を疑われているのではない。


 『家事も料理もできない自分との生活に彼が疲れ果て、無理をさせてしまっているのではないか』


 という、彼女の自己肯定感の低さからくる、悲痛なまでの自己嫌悪と恐怖。

 俺のコンシェルジュとしての詰めが甘かったばかりに、彼女の心の一番柔らかくて弱い部分を、深く傷つけてしまったのだ。


 昼が過ぎ、夕方になっても、状況は好転しなかった。

 彼女はトイレや水分補給のために時折寝室から出てくるが、俺と目が合うとサッと視線を逸らし、無言で足早に部屋に戻ってしまう。

 その顔は青白く、分厚いメガネの奥の目の下には、うっすらとクマができていた。

 怒っているというよりは、自分自身を責め、ひどく怯えているような痛々しい顔だ。


(……このままじゃ駄目だ。今夜、絶対に決着をつける)


 俺は静かに立ち上がった。

 言葉で言い訳をするだけでは、彼女の閉ざされた心の扉と、強固な論理の壁は崩せない。

 彼女の不安を完全に払拭し、この最悪のすれ違いを極上の笑顔に変えるための、俺の最大の武器を使うしかない。

 俺は腕まくりをして、キッチンに立った。


★★★★★★★★★★★


 夜21時。

 俺が用意した決戦のメニューは、カナダ発祥の究極のコンフォートフードにしてジャンクフード、『プーティン』だ。

 フライドポテトに、チーズとグレービーソースをたっぷりとかけた、理性を溶かし、疲弊した脳にダイレクトに突き刺さる悪魔の料理。


 まずは主役のフライドポテト。

 皮付きのメークインを太めの拍子木切りにし、水にさらしてデンプンを抜く。

 しっかりと水気を拭き取り、低温の油でじっくりと揚げる。一度取り出して数分休ませた後、今度は高温の油で二度揚げだ。

 表面はカリッと香ばしく、中はホクホク。完璧な黄金色のポテトが揚がった。


 次は、プーティンの命である『グレービーソース』。

 フライパンで無塩バターを溶かし、小麦粉を炒めてブラウンルーを作る。焦がさないように、しかし香ばしいナッツのような香りが立つまでじっくりと火を入れる。

 そこに、濃厚な牛骨ブイヨンを少しずつ加え、ダマにならないように滑らかに伸ばしていく。

 塩、たっぷりの粗挽き黒胡椒、そして隠し味に少量の醤油と赤ワインを加え、強いとろみがつくまで煮詰める。

 キッチンに、肉の旨味が極限まで凝縮された濃厚な香りが立ち込めた。


「……よし」


 深めの大皿に、揚げたてのポテトを山盛りにする。

 その上に、一口大にちぎったチーズをたっぷりと乗せる。本来はチェダーチーズのカードを使うが、手に入りやすくクセのないフレッシュなモッツァレラチーズで代用だ。

 そして、熱々でマグマのようなグレービーソースを、チーズとポテトの上から豪快に回しかける。


 ジュワッ……!


 ソースの熱でモッツァレラチーズがトロリと溶け始め、ポテトの隙間へとエロティックに流れ込んでいく。

 見た目だけで胃袋が鳴る、背徳の極みだ。


 これに合わせるペアリングは、韓国の伝統茶『スジョンガ』。

 生姜とシナモンスティックを水からじっくりと煮出し、黒砂糖で深いコクと甘みをつける。

 極度の寒がりで、今心が冷え切っている彼女のために、熱々の『ホット・スジョンガ』に仕上げる。

 プーティンの濃厚な脂と塩気を、生姜のピリッとした辛味とシナモンの爽やかな香りが洗い流し、熱い黒砂糖の優しい甘さが、冷えた体と心を芯から解きほぐしてくれるはずだ。


 俺は準備を整え、寝室の重いドアの前に立った。


「……迷い猫さん」


 ノックをする。返事はない。


「夜食ができたぞ。……あんたの好きな、ジャンクで濃厚なやつだ。少しでもお腹に入れてくれ」


 夜の『契約』に基づいた、いつもの自然なタメ口で呼びかける。

 だが、沈黙が続く。

 やはり駄目かと思った時、俺の足元にいたレオが、「きゅぅん」と小さく鳴いて、ドアを短い前足でカリカリと引っ掻いた。

 彼なりに、大好きな「ママ」を心配しているのだ。


 ガチャリ。


 ドアの鍵が開く音がして、少しだけ隙間が空いた。

 そこから、すっぴんに分厚い黒縁メガネ姿の彼女が、不安げに顔を覗かせた。


「……レオくんが、鳴くから」


 彼女は目を伏せたまま、蚊の鳴くような震える声で言い訳をした。

 俺は「分かってる」とだけ優しく頷き、彼女をリビングへと促した。


★★★★★★★★★★★


 ダイニングテーブルに向かい合って座る。

 俺と彼女の間に置かれた大皿からは、グレービーソースの蠱惑的な香りが漂っている。

 だが、二人の間には、まだ分厚い氷の壁がそびえ立っていた。


「いただきます」


 俺が言うと、彼女も無言でフォークを手に取った。

 トロトロに溶けたモッツァレラチーズが長く糸を引き、ソースの絡んだポテトが持ち上がる。

 彼女はそれを、ゆっくりと口に運んだ。


 サクッ。トロッ。


「……」


 咀嚼する彼女の動きが、一瞬だけ止まる。

 牛骨の深い旨味と、黒胡椒のパンチ。チーズのまろやかさと、ポテトの強烈な甘み。

 絶対に美味しいはずだ。

 彼女の眉間が微かに動き、ほんの少しだけ、頑なだった表情が緩んだように見えた。


「マグカップの飲み物は、熱い『ホット・スジョンガ』だ。シナモンと生姜のお茶。……体を芯から温めてくれるから、ゆっくり飲んでくれ」


 俺が静かに勧めると、彼女はマグカップを両手で包み込むようにして持ち、一口飲んだ。

 スパイシーで、深い甘みのある熱いお茶。

 彼女は小さく息を吐き、またフォークを動かし始めた。


 無言のまま、食事は進む。

 美味しいものを食べれば、自然と心は開く。俺はそう信じていた。

 だが、半分ほど食べたところで、彼女はフォークを静かに置いてしまった。


「……ごちそうさま」


 声は冷たかった。

 彼女は俯いたまま、立ち上がろうとする。


「待ってくれ、迷い猫さん。……昨日のことだけど」


 俺が本題を切り出すと、彼女の肩がビクッと大きく震えた。


「……聞きたくない」

「頼む。ちゃんと話を聞いてくれ。あんたは誤解してるんだ」

「誤解なんかじゃないわ!」


 彼女は弾かれたように顔を上げた。

 その瞳には、いっぱいまで溜まった大粒の涙が、今にも零れ落ちそうに激しく揺れていた。


「……私、分かってるのよ。最近のあんた、ずっと帰りが遅かったじゃない。一緒にいても上の空で、スマホばっかり見て……」


 彼女の震える声が、静かな部屋に痛々しく響いた。


「家事も料理も全部あんたに任せきりで、私は何もできないポンコツだし。あんたが会社でも家でも完璧なコンシェルジュを演じて……すごく無理をして、私との生活に疲れ果ててることくらい、私にだって分かるわよ!」

「違う! 俺は無理なんて……」

「だから……っ!」


 彼女は両手で顔を覆い、ついに堪えきれずに泣き出してしまった。


「あんたが、私との生活に息苦しさを感じて……離れていきたくなる気持ちも、論理的に考えれば仕方のないことだって……分かってるのに……っ」


 ポロポロと、彼女の細い指の隙間から涙がこぼれ落ちる。

 あまりにも俺のことを信頼し、深く愛してくれているからこそ生まれてしまった、自分自身への強烈な自己嫌悪と、俺を失うことへの恐怖の吐露だった。


 俺は、あまりの彼女の不器用さと純粋さに、言葉を失った。

 どうやってこの涙を止めればいい? 今すぐポケットから指輪の箱を出して真実を告げるべきか?

 俺がリビングで立ち尽くし、必死に思考を巡らせていると、彼女は涙を拭い、逃げるようにキッチンの方へと歩いていってしまった。

 レオが心配そうに「きゅぅん」と鳴いて、彼女の足元についていく。


 数分後。

 彼女が、小さなお盆を持ってリビングに戻ってきた。

 その目は真っ赤に腫れ上がり、鼻の頭も赤くなっている。

 彼女は俺の前まで来ると、お盆の上のものを、ことり、とテーブルに置いた。


 それは、二つのマグカップだった。

 一つは、深い夜の海のような瑠璃色。

 もう一つは、夕焼けの空のような、琥珀色。

 あの日、吉祥寺で買った、俺たちの「お揃いのマグカップ」。


 そして、俺の目の前に置かれたのは、彼女の専用であるはずの『琥珀色のカップ』だった。

 中には、彼女が不器用に淹れたであろう、少し薄めの熱いブラックコーヒーが入っている。


「……っ」


 俺は、息を呑んだ。

 あの日、このカップを買った時に、彼女自身が提案した絶対のルール。


 『もし喧嘩しても。どんなに腹が立っていても……。どちらかがこのカップにコーヒーを淹れて差し出したら、絶対に文句を言わずに受け取ること。そして……意地を張らずに、仲直りすること』


 彼女は、泣き出しそうな、ボロボロの顔で俺を見上げた。


「……ルール、だから」


 震える声。

 俺が自分に愛想を尽かしたと思い込み、傷つき、激しい自己嫌悪に陥っていた彼女が。

 それでも、俺との関係が完全に壊れてしまうことだけは恐れて、自ら白旗を上げてくれたのだ。


「……私、意地っ張りだから。素直に謝れないし……。でも、あんたが遠くに行っちゃうのは、もっと嫌だから……っ」


 彼女の目から、再び大粒の涙が溢れ出した。


 俺の心の中で、何かが完全に決壊した。

 これ以上一秒たりとも、この不器用で愛おしい人を不安にさせるわけにはいかない。


「……俺の完全な負けだ」


 俺は、彼女が差し出してくれた琥珀色のカップを大きな両手で包み込み、その温かいコーヒーを一口飲んだ。

 お湯の温度が高すぎたのか、少し薄くて、酸味が強い。でも、世界で一番温かくて、胸に染みる味がした。


「……俺も、白旗を上げるよ」


 俺はカップを置き、彼女の前に進み出た。

 そして、ズボンのポケットの奥底に隠していた、小さなベルベットの箱を取り出した。


「迷い猫さん。……泣かないで、俺の話を聞いてくれ」


 俺は彼女の潤んだ目を真っ直ぐに見つめ、あの「不自然な行動」に隠された、真剣な秘密を全て白状する決意を固めた。


「俺の帰りが遅かったのも、スマホを隠すように見ていたのも……あんたとの生活に疲れたからじゃない。全部、これを探していたからなんだ」

「……え?」


 彼女が、涙で濡れた目をパチクリと瞬かせた。


「あんたに一番似合うこれを選ぶために、仕事終わりに何軒もお店を歩き回って、ミチルや前田にこっそり相談して……サプライズにするつもりが、逆に不安にさせてしまった。本当にすまない」


 俺はそう言いながら、彼女の目の前で、小さなベルベットの箱をパカッと開けた。


 中には、派手な装飾を排した、歴史と確かな技術に裏打ちされたシンプルな美しさを持つ、一粒のダイヤモンドの指輪が静かに輝いていた。


「……嘘、でしょ」


 彼女は両手で口元を覆い、信じられないものを見るように、指輪と俺の顔を交互に見た。

 俺は彼女の小さな手を取り、少しだけ震える声で、真っ直ぐに想いを伝えた。


「俺は、あんたとの生活に疲れたことなんて一度もない。むしろ、あんたの不器用なところも、仕事で戦う強さも、全部ひっくるめて愛おしいんだ。……これからもずっと、あんたの作る少し焦げた卵焼きを食べたいし、俺の作る夜食で、あんたを甘やかしたい」


 俺は深く息を吸い込み、彼女の目を見た。


「……俺と、結婚してくれないか。迷い猫さん」


 静かなリビングに、俺の言葉が落ちた。

 彼女はポロポロと新しい涙をこぼしながら、何度も、何度も強く首を縦に振った。


「……っ、バカ。……そんなの、断るロジックが、どこにもないじゃない……っ」


 彼女は俺の広い胸に飛び込み、子供のように声を上げて泣きじゃくった。

 俺はその小さな体をしっかりと抱きしめ、彼女の髪にそっとキスをした。

 足元では、レオが「仲直りしたのか?」と嬉しそうに短い尻尾を振りながら、二人の足にすり寄ってきている。


 冷たい雨の降るすれ違いの夜は終わり、マグカップの魔法が、二人の間に最高の温もりと未来をもたらしてくれたのだった。

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